一般論として法を取り巻く状況を理解するためにードイツ、フランスのWikipediaの「法哲学」、「法治国家」、「規範のハイアラーキー」の項目を読んで考えたこと

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啓蒙時代が始まる17世紀以降に自然法はその意義を認識され、その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、彼らは人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

他方で法の経済分析によれば、合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

そして規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家の枠組みを揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、ドイツ、フランスのWikipediaの「法哲学」、「法治国家」、「規範のハイアラーキー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rechtsphilosophie

法哲学

法哲学は哲学の一部であり、法に関する基本的な問題を取り扱っていた。法哲学の問題には次のようなものが存在していた。

何が法であるのか。

「正義」と「法」はどのような関係にあるのか。

法規範と社会規範は道徳に対してどのような関係にあるのか。

法の中身はどのようなものか。

法規範はどのように生じたのか。

法が有する影響力の根拠は何であるのか(法的拘束力について)。

「法哲学」と「法」はどのような関係にあるのか。

法と道徳の関係、法規範の構造、法的拘束力に関するいくつかの問題は、19世紀中頃以降の法哲学と歩みを共にしていた。そして数世紀にわたる「一般法学」は、法哲学とは別の分野を形成していた。また法哲学と法理論の関係が細部にわたって議論されていた。

この「法哲学」の項目は、(ヨーロッパの法秩序やアングロアメリカの法のような)西洋の法システムにおける法哲学を取り扱い、他の法システムを取り扱わない(イスラム法の貢献など)。

1 テーマとその射程

法哲学は哲学の知識や方法論を援用しており、特に科学哲学や論理学、法を対象とした言語学や記号学を援用していた。ユルゲン・ハーバーマスやロバート・アレクシーによれば最近の事例として法的推論に対して言説理論を援用することが挙げられていた。そして近年、法理論についての言及が増加していたことから、法理論と法哲学を区別することが困難になっていた。

法哲学が扱うテーマは単なる法の応用分野(法律学の方法論)や法制度に対する社会的アプローチ(法社会学を参照せよ)に収まっていなかった。歴史的観点から法制史が法の展開を検証していた。また対照的に法理は現在の実定法における構造や要素を説明していた。

法哲学が扱うテーマは多岐にわたっていた。

法の概念。

社会に影響する法の意味。

法の中身に対する論評(ルドルフ・シュタムラーの意味で「正しい法」を見出すこと)。

どういった前提のもとで法規範が拘束力を有するのか(法的効力)。

何が法規範に拘束力をもたらすのか。

特に法の概念を巡る論争に、他の分野や基礎法学由来の考え方がつねに導入されていた。そのため他の哲学、法学、社会科学から厳密に区別することは不可能であった。

法哲学や政治学といった分野は国家理論(政治哲学)としての側面を有していた。そしてそれは法哲学が国家哲学以上の存在であり、法理論として法が研究されており、国家との関連のみに収まっていなかったことを理由にしていた。その一方で、個々の法哲学や個々の法理論は国家に関する基本的な仮定(国家の形態、統治、立法過程)を想定しており、その仮定は法の基盤や機能を説明していた。全体主義国家において法は民主主義国家とは別の機能を有しており、別の形式や内容を体現していた。

2 法哲学の方向性

次のように法哲学の方向性は示されていた。

2.1 自然法

自然法の思想家はさまざまな方法で数世紀にわたり自然法を議論していた。特に啓蒙時代が始まる17世紀以降に、自然法はその意義を認識され始めていた。

自然法の議論はつねに経験に依存していた。その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間の性質に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

さらに関連した代表的な人物の中にクリスティアン・トマジウス、クリスチャン・ウォルフ、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフが含まれていた。エルンスト・ブロッホは、マルクス主義に由来する「自然法や人間を尊重する考え方」において、人は生まれながらにして「自由で平等である」といった見解に反対しており、「生まれながらの権利など存在しておらず、すべてが獲得されたものであるか、闘争を通じて獲得されたものであると主張していた」。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

2.2 カント

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

2.3 ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、絶対的に正しい方法を通じた「客観的精神」の概念によって、彼の「法哲学」の中に自由の概念を位置付け、社会における自由意志の実現に言及していた(『法の哲学』)。ヘーゲルの法思想は、自治を相互に承認することから展開されており、さまざまな方法で、ノーベルト・ヘルスター、ギュンター・ヤコブス、クルト・ゼールマン達に影響を及ぼしていた。ヘーゲルによる法解釈は法治国家を論ずる思想の伝統に連なっていた。

2.4 ラートブルフ

グスタフ・ラートブルフの『法哲学』(1932年)は法哲学のモデルであり、民主的な憲法にしたがったドイツ法の枠組みの中で教えられていた。

ラートブルフの法哲学は新カント派に由来しており、あるがままの姿とあるべき姿に隔たりが存在していることに由来していた。したがって価値は明示されておらず、人が価値を認識するのみであった。そしてラートブルフはさらなる方法論を主張しており、法を含む科学は自然や理想的な価値から経験科学へとシフトしていた。また法哲学は哲学の一部であった。

ラートブルフにとって法の理念は正義を体現したものであった。これは平等、合目的性、法的安定性を含んでいた。

有名なラートブルフの定式によれば、「法が不正であるときに、実定法を優先させることを念頭におきながら、正義と法的安定性との対立が解決されなければならなかった。そして正義が「悪法」に屈服し、正義の対極にある法が許容できるレベルを超えているケースにおいて、法は効力を有さなかった。」 また法に関する「最低限の倫理」について言及がなされていた。

2.5 法実証主義

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

2.6 リアリズム法学

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、両者は人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

3 現在における法理論の方向性

3.1 概説

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

3.2 法に対する言説分析

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

3.3 オートポイエーシス的システムとしての法

近年における法理論の新たな展開は「オートポイエーシス的システム」として法を解釈したものになり、ニクラス・ルーマンによる社会システム理論に基づいていた。そしてルーマンは『社会の法』の中でその理論を示していた。またそこでは法社会学が問題とされており、隣接分野と法理論との関連が示されていた。

ルーマンによる法の社会学的解釈(例えばシステム)は実際のアクター(ステークホルダー、法学者、法律家、裁判官)をアクションの担い手としていた。彼の理論は高度に抽象化され、法の執行に対する視点を存在させていた。またアクター間の「コミュニケーション」が法システムの中に含まれ、ルーマンは「合法」と「違法」の差を「法システム」の中に含めていた。

結果として、法システム(アクター間のコミュニケーション)の自己再生産が行われていた。そしてこの法システムは絶えず更新されていた。つまり法規範が適用され、その法規範が妥当であるケースとそうでないケースがあり、法規範に変更が加えられ、判決が言い渡され、行政文書が公開されていた。このプロセスは言い換えるならば絶えざる「自触媒反応」ないしは法のオートポイエーシスとして示されていた。

ルーマンは概念としてサイバネティックスのモデルを用いており、従来とは別の意味で生物学のシステムを利用しており、特に「生命」や新陳代謝の一環としてエコロジーのモデルを通じて抽象的な説明を行なっていた。「生命」の自己再生(自己参照)は個体にフォーカスせず、生命の「コミュニケーション」や化学反応に注目していた。

他方でそのような説明が不完全であるとの批判が存在していた。個々の当事者/アクター/法曹関係者を考慮しないことによって、この法理論は法を自己目的化したものとして把握していた。根本的な規範は人間の尊厳の尊重を含んでいたが、それはただの抽象的な原理ではなく、その価値観を個々人のためにケースごとに明示しなければならなかった。この問題は根本的な法を研究する際に特に重要であったが、法理論の認識価値を損なわせる方へ作用していた。

ニクラス・ルーマンによる部分的に高度で抽象的な用語を用いた全体像は社会システムや法システムについての理論を示していた。

3.4 正義の理論

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

3.5 法の経済分析

「法の経済分析」によって法理論は新たな展開を示しており、特にアメリカで顕著であった。またそれは「法と経済学」として知られていた。そのアプローチは法に対して経済学の理論を適用していた。そしてこの10年から15年にかけて経済法をテーマとしたドイツ語の出版物の数が増加していた。

アメリカの経済学者であるロナルド・コースの理論(『ザ・プロブレム・オブ・ソーシャル・コスト』、ジャーナル・オブ・ロー・アンド・エコノミクス 3 [1960]、p.1 ff)やリチャード・ポズナーの理論(『法の経済分析』、1973年、初版、ボストン、リトル・ブラウン)がその例であった。

ここでは経済的な決定に類似した法的な決定が合理的な費用便益分析によって説明されていた。この理論は合理的に振舞うホモ・エコノミクスを想定しており、矛盾のない選好に基づいた便益を意図的に最適化していた。そしてホモ・エコノミクスは決定を行う状況において限られた知識を活用していた。そこでホモ・エコノミクスは知れば知るほど「自信」を深め、知らなければ一層の「不安」を感じると想定されていた。

このように合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

3.5.1 経済分析の応用

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

3.5,2 法の経済分析に対する批判

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/État_de_droit

法治国家

法治国家もしくは法の支配は、あらゆる人々が権利だけでなく義務を有し、「権利を有している」といった認識によって、個人の権利や公権力に対して法を遵守させることを尊重する法的な立場であった[1][2]。それは規範のハイアラーキー、権力分立、基本的権利の尊重に関連し、また立憲主義とも関連していた。法治国家の概念と国家の存在理由を示す概念は伝統的に対立しており、あらゆる法治国家や類似したアクターは何よりも国益を優先させる傾向にあった。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

1 ケルゼンの理論、法治国家と規範のハイアラーキー

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

1.1 規範のハイアラーキーに対する尊重

規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

1.2 法の下の平等

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

1.3 司法の独立

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

1.4 規範を比較するときの問題

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

1.5 注釈

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

2 法治国家と民主主義

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家を揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Hiérarchie_des_normes

規範のハイアラーキー

規範のハイアラーキーはハンス・ケルゼンによって提唱された概念であった。そして法規範のハイアラーキーに対して様々な解釈が論じられていた。このハイアラーキーはそれを裁判官が尊重するときにしか意味を有していなかった。ハンス・ケルゼンは頂点に憲法を据えてこのハイアラーキーを理解していた。そして法規範の審査は2つに分類され、違法性の抗弁による審査と違憲立法審査が存在していた。

1 概略

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

2 審査のさまざまな形態

規範に対する審査は多くの形態を有していた。

2.1 違法性の抗弁

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

2.2 違憲立法審査

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

2.2.1 フランスのケース

フランスでは、法律が部分的ないし全体的に合憲であるか否かを審査し宣言するために、1958年に憲法院が創設されていた。審査は法律がまだ公布されていないときにのみ行われていた。憲法院の創設以前は、憲法は理論的な意味でしか最高法規としての地位を有しておらず、行政裁判官は法律の合憲性を審査することを認められていなかった(「法律遮蔽」を形成したコンセイユ・デタにおける1936年のアリギ判決)。

2008年7月23日の憲法改正は、事前審査に加えて、優先的憲法問題(QPC)のメカニズムによって事後の違憲立法審査を認めていた。そしてあらゆる裁判官が合憲性の問題に直面することになった。合憲性の問題はコンセイユ・デタ(行政訴訟に関して)や破毀院(司法訴訟に関して)に送られ、訴訟は留保されていた。そしてこの2つの最高裁判所は憲法院で受理する裁判官に合憲性の問題を移送していた。ここでの問題点は違法性の抗弁とは異なり先決性にあった。

憲法院がその公布前しか法律を審査することができないことに加え、今日の憲法裁判官はレファレンダムによって決定された法律の合憲性を審査しなかった。しかし新たな第11条によれば、2008年7月の憲法改正に基づき、レファレンダムによる法律は憲法を遵守していることを審査されなければならなかった(まだその効力は発生していない)。

最後に違憲立法審査は法律の合憲性に対する審査であり、アリギ判決ではまだ判例変更にまで言及がなされていなかった。そしてそれはコンセイユ・デタ(CE)が後法に対する条約の優越を承認する1989年まで(1989年のニコロ判決)待たねばならなかった(一方破毀院は1975年5月24日のジャック・バブル判決以降それを承認していた)。

3 各国の様相

3.1 フランス

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

3.1.1 フランス法のスキーム

狭義の合憲性審査基準は、1958年憲法、1946年憲法の前文、1789年の人間と市民の権利の宣言、環境憲章(2005年5月以後の)、共和国の諸法律によって承認された基本原則(1971年の結社の自由判決を参照せよ)、憲法的価値を有する規範(例えば憲法の規定と矛盾しない法律に対して憲法上の根拠を与える抵触法)、憲法の原則を含んでいた。しかしこの見解は批判されており、その理由は、それらがコンスルの仕事であり、フランスの憲法典の中にいかなる根拠も有していなかったことにあった。

広義の合憲性審査基準は、憲法的価値を有する規範、組織法律、1998年のヌーメア協定に基づく原則を含んでいた。法律的観点から、議会(国民議会、元老院、上下両院合同会議)内部のルールが含まれることが明白であったが、憲法院は現在のところそのルールを含めることを否定していた。

「合憲性審査基準」といった用語はエクス・マルセイユ第三大学のルイ・ファヴォルーによって示されていた。この言葉は合憲性審査基準が規範のハイアラーキーにおいて憲法と同様のレベルに至っているといった事実を反映していた。

しかしこのスキームは特にジョルジュ・ヴェデルによって批判されており、憲法院が「憲法の一語一句」のみを適用することが求められていた。

条約適合性審査基準は国際法、具体的には慣習法を除いた国際条約や国際協定によって構成されていたが(EC、1997年6月6日、アクアローネ)、(EU加盟国としてのフランスにおける)EU法、つまり条約や派生法、指令や規則も同様であった。

そしてフランスでは規範に関する文書のデジタル化が進められていたが、2005年の定義によれば法律やデクレしか対象になっておらず、それは欧州指令を含んでおらず、その範囲は制限されたものであった。

3.1.2 規範とEU法とのハイアラーキー

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

4 備考

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

憲法の優越はしばしば限定的な方法で実現されていた。法システムは立法手続における違憲立法審査を含んでいたが、公布されており違憲である法律の適用を防止する手段を提供していなかった。フランスでは違憲立法審査が法律公布の前に憲法院によって行われており、訴訟当事者が法律の適用に対抗するために憲法に立脚すること(「合憲性審査基準」に該当する要素に基づいて)は不可能であった。その可能性は、基本原則を尊重する手段、立法権の行使による損害に対する司法権の行使、法律に対する継続的異議申し立ての可能性の中に見出すことが可能であった。こういった状況は2008年7月に生じており、1990年や1993年の段階では合憲性の優先問題はまだ見受けられていなかった。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

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