ヨーロッパの民主主義は国際公法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、インド、イスラエル、アメリカを含む民主主義は、国際公法を領土に対する権利のように普遍的なものや条約や慣習から派生したものと見做す一方で、特定の側面を国際公法の対象として眺めていなかった。植民地時代を経験した途上国の民主主義は、しばしば内政不干渉を主張していたが、国連に見られるような多国間のレベルでの国際公法を支持しており、人権の基準、特定の制度、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を尊重していた。
国際公法は統治機構のない法的環境の中に存在していたので、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有しており、国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱によって、その規範自体が慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていたが、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴が取り下げられていた。
国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、勧告のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。そしてソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。
紛争の平和的解決を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であったが、それらは拘束力を有しておらず、国連憲章の第7章の下で、平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動に関して、拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた武力の使用を認める決議を採択することが可能であった。
他方で第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。
また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。ICJが扱う事件は数年かかり、仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。
高次の法による支配は、法が普遍的な公正の原則、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた。
高次の法は国際公法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であり、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有していたが、コモン・ローと関連している自然法と対立していた。
高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であり、法治国家の名称は、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。
南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が憲法より高次の法の下で禁じられていると明確に言及していた。
一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった。
また他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、誰もが法に従わなければならないといった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば自然法として言及されていた。これらの原則は同様に高次の法理の基礎を構成していた。
18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、イマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。
国家の憲法が市民の倫理に基づいており、市民の倫理が憲法の本質に基づいていたことを示すことによって、カントは高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。
ワレリー・ゾリキンによれば、法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができず、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。
ジェームズ・M・ブキャナンによれば、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は3つの仮定によって条件付けられていなければならず、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことが挙げられていた。
そしてブキャナンによれば、国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方は拒否されており、カントに沿って、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っているとされていた。
自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、善なるものを促すための道徳的な方向を定めようとしており、人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在しており、時として不正なる法は法にあらずという格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスによれば、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったとされていた。
自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張しておらず、法の遵守は全く別の問題であると考えていた。
ジョン・オースティンによれば、何が法であるのかに対する功利主義的な解答は、罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令であったが、現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、H・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。
ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。そしてハンス・ケルゼンの純粋法学は法学を政治学から切り離しており、法的規範の拘束力が形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。
しかしH・L・A・ハートは法が社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張しており、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。
ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者は、法と道徳の間に必然的な関連がないといった見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。
そしてジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、ハートのアプローチを批判しており、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。
しかしロナルド・ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判しており、法は解釈の後に得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は、社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。そして自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた。
リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。そしてあらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。
またカール・ルウェリンによれば、法は人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えられていた。
そしてジョン・ロールズは、もし私たちが無知のヴェールに覆われているならば、社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この原初状態から、ロールズは私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。
前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「国際公法」、「国際法理論」、「高次の法による支配」、「法哲学」、「法の抵触」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Public_international_law
国際公法
国際公法は、主権国家やローマ教皇庁、政府間組織などの法的主体の構造や行動に関係していた。また国際法は多少なりとも多国籍企業や個人に影響を与えており、その影響は国内の法解釈や法執行の枠組みを超えて進化していた。国際貿易の拡大、世界規模での環境破壊、人権侵害に対する意識、急激で大規模な国際取引の増加、国境を超えたコミュニケーションの高まりによって、国際公法はその運用の機会や重要性を高めていた。
研究の対象は2つの大きな分野を合わせたものであった。全ての人に対する法である万民法と国際的な協定である諸民族間の法は異なった基盤であり、混同されるべきではなかった。
国際公法は、法の抵触を解決することに関する「国際私法」と混同されるべきではなかった。一般的な意味において、国際法は「国家や政府間組織の行動と、自然人や法人の関係同様に内々の関係を処理し、一般的に運用するための規則や原理によって構成されていた」[1]。
1 歴史
1648年に締結されたヴェストファーレン条約から始まり、17世紀、18世紀、19世紀は「国民国家」の主権の概念を構築し、それは政府による中央集権体制によって支配された国家によって構成されていた。人々が明確な国家のアイデンティティを有する特定の国家の市民として自身を眺めていたので、ナショナリズムの概念はますます重要になっていた。19世紀半ばまでに、国民国家間の関係は、力による場合を除くならば執行できず、名誉や信義の問題を除くならば拘束しない、他の国家に対して特定の方法で行動するための条約や協定によって支配されていた。しかし条約のみでは効果がなくなり、戦争は、市民に対して顕著であったが、一層破壊的になり、文化が成熟した人々はそれらの恐怖を非難し、特に戦時における国家の行動を規制することを主張していた。
おそらく近代の国際公法の最初の文書は、南北戦争における戦闘員の行動に適用するために、1863年にアメリカ議会によって制定されたリーバー法になり、戦時の規則や規約に関する文書であると考えられており、あらゆる文明国によって順守され、国際公法の萌芽でもあった。リーバー法の一部は以下の通りであった。
「近代の文明国によって理解されるように軍事力の必要性は、戦争の終結を確認するために不可欠であり、近代法や戦争についての慣行に従った合法的な対応の中に含まれていた。軍事力の必要性は、武装した敵や、戦時の武器を通じた争いの中で、偶発性を避けられず、他の人々の生命や身体に直接的に被害を生じさせることを許容していた。軍事力の必要性は、あらゆる武装した敵や、敵国の政府にとって意味があり、特に自国にとって危険なあらゆる敵を捕虜にすることを許容していた。軍事力の必要性は、財産に対してあらゆる侵害を行い、交通、移動、通信の経路を妨害し、敵のあらゆる生活手段を奪い、敵国が生存や軍の安全のために必要としているもの全てを強制収容し、戦争を開始する協定の中で明白に宣言され、近代の戦時国際法によって存在していると想定された信義を除外して相手を欺くことを許容していた。(しかし)この説明において、戦争において互いに武器を用いる人々は、互いや神に対して責任がある道徳な存在であることを止めていなかった。軍事力の必要性は残酷さを許容しておらず、それは、苦しみや復讐のために苦しみを与えるものではなく、戦争を除外して負傷を与えるものではなく、自白を引き出すために拷問を課すものでもなかった。軍事力の必要性はあらゆる場における毒物の使用を許容しておらず、都市を理不尽に廃墟にすることも許容していなかった。軍事力の必要性は相手を欺くこと許容していたが、背信行為を否定していた。そして一般的に、軍事力の必要性は平和に戻ることを不必要に困難にする戦闘行為を含んでいなかった。」
戦争に関する成文化されていない規則や条項に対する最初の声明は、戦争犯罪に関して、ジョージア州のアンダーソンビルでの残酷で劣悪な状況に置かれたアメリカの捕虜収容所に対して最初の訴追を行なっており、審理の後、収容所における南部連合の司令官は絞首刑に処され、南部連合の兵士は南北戦争の結果として死刑に処されていた。
その後他の州はその行動に制限を課すことに同意し、多くの協定や団体が互いに対してその行動を制限するために成立し、それらは1899年の常設仲裁裁判所、1907年に改定されたハーグ条約やジュネーブ条約、1921年に設立された常設国際司法裁判所、ジェノサイド条約、1990年代後半に設立された国際刑事裁判所を含んでいたが、それらによって制限されるものではなかった。国際法は比較的新しい分野の法であり、応用分野におけるその展開と発展はしばしば論争の対象であった。
2 国際法の法源
国際司法裁判所規程第38条の下で、国際公法は3つの主な法源を有しており、それは国際条約、慣習、法の一般原則であった。さらに判例や学説は「法準則を決定する補充的な手段」として適用されていた。
国際的な条約法は、国家が条約の中で互いに対して明示的にそして自発的に受け入れる義務で構成されていた。慣習国際法は法的確信を伴う一貫した国家による行動すなわち一貫した国家実行が法的義務によって求められていることに対する国家の確信から演繹されていた。学説や国際法廷の判決は伝統的に、国家の行動に対する直接的な証拠に加えて慣習に対する説得力のある法源として見られていた。慣習国際法を成文化する試みは、国連による支援の下で国際法委員会(ILC)を形成したことを伴いながら、第二次世界大戦後に支持を拡大していた。成文化された慣習法は、条約による合意に基づいた慣習として拘束力を有していると理解されていた。そのような条約の当事者ではなく国家に対して、ILCの仕事は国家に対して適用される慣習として容認されているかもしれなかった。法の一般原則は世界の主な法制度によって一般的に容認されていた。国際法における特定の規範は、一切の例外を許容せずにあらゆる国を含むものとして、絶対的な規範(強行規範)に対する拘束力を有していた。
3 国際条約
国際条約の正確な意味や国内法の適用についての議論において、法が意味するものを決定することは裁判所の責任であった。国際法において解釈は、それを主張している人々の活動領域の中にあったが、条約の条項や当事者間の合意によって、ICJのような司法機関に付与される可能性が存在していた。自己のために法を解釈することは一般的に国家の責任であったが、外交のプロセスや国家を超えた司法機関を利用することの可能性は、その目的を達成するために常に機能していた。条約に関連している限り、条約法に関するウィーン条約は以下の解釈に関するトピックを取り上げていた。
「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」(第31条第1項)
これは実際には解釈における3つの異なった学説の間の妥協であった。
限定的なアプローチである文書に基づくアプローチは文書の「通常の意味」に基づいており、実際の文書を重視していた。
主観的アプローチが考慮しているものは、i.条約の背後にある考え、ii.「文脈に含まれる」条約、iii.文書が書かれたときに作者が意図していたことであった。
3番目のアプローチは「その趣旨及び目的に照らした」解釈、すなわち「実用的な解釈」とも呼ばれていた条約の目的に最も適した解釈に基づいていた。
これらは解釈に関する一般的な規則であり、特定のルールが国際法の特定の分野においては存在していた。
4 国家の地位や責任
国際公法は、国際法システムにおける主要なアクターとしての国家を認識するためのフレームワークや基準を確立していた。国家の存在が領土に対する管轄権を前提としているので、国際法は領土の獲得、国家に対する免責、互いの行動における国家の法的責任を取り扱っていた。また国際法は国境の内側にいる個人の処遇に関係していた。したがって集団の権利、外国人の処遇、難民の権利、国際犯罪、国籍の問題、人権を一般的に取り扱う総括的なレジームが存在していた。さらにそれは、国際平和と安全保障の維持、軍備管理、紛争の平和的解決、国際関係における武器の使用に対する制限といった重要な機能を含んでいた。法が戦争の勃発を止めることができないときでさえ、それは戦闘行為や捕虜の取り扱いを支配する原則を展開していた。そして国際法は、地球環境、海洋や宇宙のようなグローバル・コモンズ、国際通信、国際貿易に関した問題に適用するために用いられていた。
理論的には全ての国が主権を有し、平等であった。主権の概念の結果として、国際法の価値や権威は、国際法の形成、遵守、執行における国家の自発的な参加に依存していた。例外が存在しているかもしれないが、高次の法の主体を支持することよりむしろ、自己の利益に基づいて多くの国々が他の国々に対して法的に関与していることが、多くの国際法学者によって想定されていた。D・W・グレイグが記したように、「国際法は国際関係に作用している政治的要因から切り離すことはできなかった」[2]。
伝統的に主権国家や教皇庁は国際法における唯一の主体であった。近年において国際機関が多様化し、その国際機関も同様に時として国際法における主体として認識されていた。国際人権法、国際人道法、国際貿易法(例えばNAFTA第11章)は企業や特定の個人を含んでいた。
4.1 国家主権
国際法と国家主権との対立は学会、外交、政治における論争の対象であった。確かに、国際法や国際基準に照らして、国家の国内の行動を判断する大きな流れが存在していた。現在多くの人々が国民国家を世界における最も重要な単位として眺めており、国家のみが国際法に対して自発的に関与することを選択してもよく、国家のコミットメントに対する解釈になると、国家は国家自身の意図に従う権利を有していると考られていた。特定の研究者や政治のリーダーは、国際法の発展が、政府から権力を奪い、国連や世界銀行のような国際的な主体に権力を譲ることになるので、国民国家を危機に陥れるだろうと感じており、単なる国家間の合意とは別に存在し、国内法の制定や司法プロセスと並行している国際法の制定や司法のプロセスを認識していた。このことは特に、国家が文明国によって遵守される行動基準から逸脱していたときに生じていた。
多くの国々が領土に対する主権を強調しており、国家が国内において自由に主権を有していると考えていた。他方で他の国家はこの見解に反対していた。多くのヨーロッパの国々を含めて、この見解に反対しているグループは、全ての文明国がジェノサイド、奴隷貿易、侵略戦争、拷問、海賊行為を禁止することを含めた行動規範を有しており、これらの普遍的な規範に対する違反が、個人の被害者に対するだけでなく、人類全体に対する犯罪であると主張していた。この見解に同意している国家や個人は、国際法に違反したことに対して責任を有する個人が「海賊や奴隷業者のように人類全体の敵になっており」[3]、普遍的な管轄権の執行を通じて、基本的にいかなる裁判においても公平な裁判を通じて起訴されるべきであると主張していた。
ヨーロッパの民主主義は国際法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、多くの他の民主主義は国際法に対して異なった見解を有していた。インド、イスラエル、アメリカを含むいくつかの民主主義は、柔軟なアプローチを採用しており、普遍的なものとしての領土に対する権利のように国際公法の一部の側面を認めており、他の側面を条約や慣習から派生したものとして見做しており、特定の側面を国際公法の対象として全く眺めていなかった。過去の植民地時代の歴史に起因している途上国の民主主義はしばしば内政不干渉を主張しており、人権の基準や特定の制度を特に尊重していたが、国連に見られる二国間ないし多国間のレベルでの国際法を強く支持しており、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を特に尊重していた。
9 国際裁判とその判決の執行
国際法は紛争の解決や強制的な刑事システムのための義務的な司法システムを設けていなかったので、国内の法制度における違反を処理することほど容易ではなかった。しかし、その違反が国際社会の注目を集めるための手段や、その違反を解決するための手段が存在していた。例えば貿易や人権のような特定の分野において国際法には司法ないし準司法的な裁判所が存在していた。例えば国連の設立は、安全保障理事会を通じて国連憲章に違反する加盟国に対して国際社会が国際法を執行する手段を与えていた。
国際法は最も重要な「統治機構」(例えば国際規範を遵守することを外部から強制する力)のない法的環境の中に存在していたので、国際法の「執行」は国内法の施行と異なっていた。多くの場合において国際法の執行は、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有していた。他の場合において、特に国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱が実際のリスクを生じさせていた。このことによって、強大な国家が継続して国際法の特定の側面を無視するならば、規範は慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は、国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていた。しかし第二次世界大戦までに国際法の手続は、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴を取り下げることにまで拡大していた。
9.1 国家による執行
特定の規範を維持したいという国家の意向とは別に、国際法の執行は、一貫した行動を取り、義務を遵守することを国家が他の国家に課していることの圧力から生じていた。あらゆる法体系と同様に、国際法の義務に対する多くの違反は見逃されていた。さらに言及を加えるならば、国際司法の決定[5][6]、仲裁[7]、制裁[8]、戦争を含む武力の使用[9]に対する服従は外交や国家の評判に対する影響を通じてなされていた。実際に国際法に対する違反は一般的であったけれども、国家は国際的な義務を無視する言動を避けようとしていた。経済関係ないし外交関係の断絶や報復行為を通じて、国家は一方的に相手国に対して制裁を採用するかもしれなかった。いくつかのケースでは、国際法が国内法と交差する複雑な分野であったけれども、国内の裁判所が外国(国際私法における)に対して損害を理由に判決を与えていた。
武力攻撃が発生した場合に全ての国家が個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることは、国民国家によるウェストファリアシステムの中に暗示されており、国連憲章の第51条の中に明示されていた。国連憲章の第51条は、安全保障理事会が平和の維持に必要な措置をとるまでの間(もしくはなくても)、国家の自衛権を保障していた。
9.2 国際的な主体による執行
国連加盟国による国連憲章に対する違反に対して、国連総会において侵害された国家によって問題提起される可能性が存在していた。国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、「勧告」のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。国連決議第377号の決議Aを採用することによって、国連総会は同様に、穏やかな「平和に対する脅威」を構成する状況において、経済制裁や外交的な制裁のような他の集団的措置を求めることができることを宣言していた。
平和のための結集決議は、安全保障理事会でソビエトの拒否権を回避するために、朝鮮戦争の直後である1950年にアメリカによって発議されていた。決議の法的意味は不明確であり、拘束力のある決議を発布することはできなかった。そして国連総会に新たな力を与える議論を通じて決議案を提出することは「七理事国」によって一度も主張されたことがなかった。その代わりに安全保障理事会が膠着したときに、国連憲章に従って、すでに国連総会が影響するものについて、平和のための結集決議は単に宣言しているだけであると主張されていた[11][12][13][14]。ソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。
国連憲章に対する違反についての懸念は安全保障理事会の理事国によって同様に提起されることが可能であった。「紛争の平和的解決」を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であった。そのような決議は理事会の決定を表現していたけれども、それらの決議は国際法の下で拘束力を有していなかった。稀に安全保障理事会は、「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」に関して、国際法の下で法的拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた同様の武力の使用を認める、国連憲章の第7章の下で決議を採択することが可能であった。
第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、それは「前記の義務を果たすに当っては(国際の平和及び安全に関する主要な責任を負わせる)、安全保障理事会は国際連合の目的及び原則に従って行動しなければならない」と述べていた。このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。このような決議の拘束力に関する特徴はその文言や意図の解釈から推測されることが可能であった。
また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。決定を執行する手段を一切有していなかったけれども、これらの審理における裁判所の判決は拘束力を有していた。裁判所は、国連憲章に従って権限を与えられていた主体が何であれ、その要求に対して、法的問題について勧告的意見を与えることが認められていた。そして裁判所がもたらしたいくつかの勧告は裁判所の法的権限や管轄権に関して論争を残していた。
しばしば非常に複雑な問題であるため、ICJが扱う事件は(1945年に常設国際司法裁判所が創設されて以来150件以下であった)数年かかり、数千ページに及ぶ訴訟手続、証拠、最も優秀な国際法学者による学説を含んでいた。2009年6月の時点でICJでの係争中の事件は15件存在していた。仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。
国家や国際機関は通常、国際法に対する違反を主張する地位を有する唯一の主体であったが、市民的及び政治的権利に関する国際規約のようないくつかの条約は、国際人権委員会に要請することを加盟国によって違反された権利を有する個人に対して許容する選択議定書を有していた。投資協定は一般的な個人や投資主体による履行の規定を設けていた[15]。そして主権を有する政府と外国人との商業協定が国際的に履行されていた[16]。
10 国際法理論
http://en.wikipedia.org/wiki/International_Legal_Theory
国際法理論
国際法理論は、国際公法や制度の内容、形成、実効性を説明し分析し、それを展開するために用いられていたさまざまな理論的ないし方法論的アプローチを含んでいた。いくつかのアプローチは、なぜ国家は法の遵守をもたらす強制力がないにもかかわらず国際法を遵守するのかといった法の遵守に焦点を当てていた。他のアプローチは、なぜ国家は世界立法府が存在していないにもかかわらず行動の自由を制限する国際法規範を自発的に採用しているのかといった国際的なルールの形成に焦点を当てていた。他の展望は政策中心であり、既存のルールを批判し、その方法を提示する理論的なフレームワークや手段を形成していた。これらのアプローチのいくつかは、国内法理論に基づいており、他は学際的であり、一方また別のアプローチは国際法を分析するために展開されていた。
1 国際法に対する古典的アプローチ
1.1 自然法
初期の多くの国際法学者は自然法に委ねられていると考えられていた公理的な原理に関心を抱いていた。16世紀の自然法学者であり、サラマンカ大学の神学部正教授であったフランシスコ・デ・ビトリアは、公正な戦争、南北アメリカに対するスペインの影響、ネイティブ・アメリカンの権利に焦点を当てていた。
1.2 折衷主義的ないしグローティウスのアプローチ
オランダの神学者であり、人文主義者であり、法学者であるフーゴー・グローティウスは近代国際法の発展に対して重要な役割を果たしていた。聖書やセントオーガスティンの公正な戦争論から見解を引き出した彼の1625年の著作である『戦争と平和の法』の中で(3冊の著作)、彼は、政治の主体間の関係がコミットメントの遵守を基礎にした「合意は拘束する」といった原則に基づく社会共同体によって設けられた万民法によって支配されるべきであることを主張していた。その中でクリスチャン・フォン・ヴォルフは、国際社会が世界共同体であるべきであり、加盟国に対して権限を保有していると主張していた。エムリッシュ・ヴァッテルはこの見解を拒否し、その代わりに18世紀の自然法によって示されていたような国家の平等を主張していた。『国際法』の中で、ヴァッテルは、万民法が一方で慣習や法によって、他方で自然法によって構成されていることを示していた。
17世紀に特に法的平等、領土に対する主権、国家の独立を示していたグローティウスや折衷主義の基本原則はヨーロッパの政治ないし法制度の基本原理になり、1648年のヴェストファーレン条約の中に明記されていた。
1.3 法実証主義
初期の実証主義学派は国際法の法源として慣習や条約の重要性を強調していた。初期の実証主義者であるアルベリコ・ジェンティーリは実定法が大多数の人々に共通している合意によって決定されていたことを前提とする歴史的事例を用いていた。他の実証主義学派の研究者であるリチャード・ズーチは1650年に『宣戦講和の法、または諸国民間の法』を出版していた。
法実証主義は18世紀に支配的な法理論になり、国際法哲学の中にその方法論を見出していた。当時コーネリアス・ヴァン・バインケルスフークは、国際法の基礎が慣習やさまざまな国家によって合意された条約であることを主張していた。ジョン・ジェイコブ・モーザーは国家が国際法を遵守する意義を強調していた。ゲオルク・フリードリヒ・フォン・マルテンスは『ヨーロッパにおける近代国際法概説』という実定国際法に対する最初の体系的な手引きを出版していた。19世紀に実証主義の法理論はナショナリズムやヘーゲル哲学によってさらに支配的なっていった。国際商法は国内法の一部になり、国際私法が国際公法から分離されていた。実証主義は法として認識されるかもしれない国際的な慣行の幅を狭めており、道徳観や倫理間を超えた合理性を肯定していた。1815年のウィーン会議は、ヨーロッパの状況に基づいた政治ないし国際法のシステムを公式に認知していたことを特徴としていた。
近代法実証主義者は国家の意思から生じたルールからなるシステムとして国際法を考えていた。現在の国際法は、「あるべき」法と区別されなければならない「事実に基づく」現実であった。古典的な実証主義は法的正当性に対する厳格な検証を求めていた。文書を伴い、体系的で、歴史的な基礎を有していない超法規的な主張は法的分析と無関係であると思われていた。ハードローのみが存在しており、ソフトローは存在していなかった[1]。実証主義者の法理論に対する批判はその厳格さ、解釈を考慮せずに国家の合意に焦点を当てること、国際規範に従っている限り国家の行動に関する道徳的判断を許容しないという事実を含んでいた。
2 国際関係論 - 国際法に基づくアプローチ
法学者は政治学や国際関係論の分野における4つの主要な学派に分かれており、何故そしてどの様に法制度が存在しており、何故効力を有しているのかを説明することを目的として、法的ルールや制度の中身を学際的なアプローチを通じて検証するために、リアリズム、リベラリズム、インスティチューショナリズム、コンストラクティビズムが挙げられていた[2]。これらの考え方は国際法を再構築することを研究者に促していた[3]。
2.1 リアリズム
リアリズムは、アナーキーな国際システムにおいて、国家がその領土やその存在を維持するために相対的なパワーを最大化するための生存競争を永続することを避けられないことを主張していた。パワーを最大化することに対する国家の関心に対応し、生存競争に勝ち残る見込みがある場合においてのみ、国際協調が可能であるので、国家は規範に対するコミットメントを基礎にして協調を追求していなかった[4]。リアリズムの法学者によれば、国家は、パワーを増大させ、弱小な国家を従属させることを制度化するか、故意に有利な条件のために違反しても構わない国際法規範のみを採用していた[5]。したがって国際法は国家のパワーや自治に影響を及ぼさない周辺的な問題のみを取り上げるかもしれなかった。その結果としてリアリストにとって国際法は「損なわれやすい義務を包む薄いネット」のようなものであった[6]。
リアリストのアプローチによれば、一部の研究者は、「明白なルールを周知し、その遵守を監視し、違反を罰する共通の手続を制度化し、安定的なパワーバランスに強制力をもたせる」限りにおいて、国際法規範が効力を有する「執行の理論」を提案していた[7]。したがって互恵と制裁の役割が強調されていた。例えばモローは以下のように記していた。
近代の国際政治は一般的に国民国家の上にいかなる権力も認めていなかった。国家間の協定は合意した国家によってのみ執行力を有していた。アナーキーの仮定は戦時における国際法違反を制限するための協定にとってのパラドックスを示していた。(...) 互恵は国際政治における協定を履行するための主要なツールとして活用されていた。協定の履行は当事国に委ねられていた。損害を被った当事国は協定の違反に対する制裁によって対応するオプションを有していた。相互に対する制裁の脅威は国際法違反を抑止するために十分なものである可能性があり、そのような協定は国際政治において履行される可能性が存在していた[8]。
2.2 リベラリズム
リベラルな国際関係論に基づくと、一部の研究者は、国際法に対する国家の立場は国内政治、特に法の支配に対する主要な国内の個人や集団の選好によって決定されていると主張していた。したがって民主的な政府を有する民主主義国家は、非民主主義国家より国内法や国際法による規制を受け入れる蓋然性が高く、国際法を遵守することを受け入れる蓋然性も高かった。さらに民主的な社会は、国家間の関係、国家を超えた関係、政府を超えた関係による複雑なネットワークを通じて繋がっており、外交政策に関する官僚や市民社会は、国際法規範の形成や遵守を通じて、国家を超えた協調を促進することに関心を抱いていた[9]。したがって民主主義国家間において国際法規範を採用し遵守することは、非民主主義国家における国際法の遵守より容易であるはずであった。この点に関して、スローターは以下のように記していた。
リベラルな国家間で締結されている協定は、相互の信頼や協定の履行を促す調整の中で締結される可能性が高かった。しかし特に、これらが関係国における個人や集団のネットワークを参加させる協定であり、これらの国家が国内の司法によって担保される法の支配にコミットしているとの前提は、国内の裁判所を通じたさらなる「上意下達の」執行を促すはずであった。この執行の形態は、国家の責務、互恵、対抗措置を含む伝統的な「水平的」形態と対照的であった[10]。
2.3 合理的選択とゲーム理論
法に対するこのアプローチは、市場の内外の最適化された行動に対する法的な含意を確認するための理論や経済学に適用されていた。経済学は限定された状況での合理的選択を研究していた[11]。合理的選択は個々のアクターが自身の効用を最大化することを求めることを前提にしていた[12]。ここで採用された経済理論の多くは、伝統的な新古典派経済学であった。その経済学はアクターの相互作用を評価するミクロ経済学を含んでいた[13]。経済学の取引コストは、ミクロ経済学における情報を収集し、交渉し、協定を遵守させるコストを含めていた。ゲーム理論は、どのように行動を最適化するアクターが利得を増大させる行動を取ることに失敗していたのかを示していた[14]。公共選択は市場の外部における問題に対して経済学を用いていた。これらの分析ツールは法を説明し評価するために用いられていた。これらのツールを用いて、法は経済的効率性を通じて検証されていた[15]。また経済理論は法の改善を提案するために用いられていた。このアプローチは富を最大化させる法の採択を促していた。このアプローチの潜在的な応用例は文字ベースの解釈から始まるだろうとされていた。そして次の懸念は、実際に「市場」がうまく機能しているのかどうかに対して存在していた。三番目に不完全市場を改善する方法が提案されていた。このアプローチは一般的な法的問題を分析するために用いられる可能性があり、このアプローチが高度に限定的なルールを与え、そのルールを与えるための理論的根拠を与えているからであった。このアプローチは、完全競争が存在し、個人が効用を最大化する仮定に依存していた。これらの条件の存在を経験的に決定することは総じて困難であった。
2.4 国際法手続
古典的な国際法手続は、どのように国際法が実際に運用され、国際政治の中で機能し、国際法の研究が進展していったのかを研究するための方法であった[16]。「そして国際法手続は、ルールとその内容に対する論評というよりむしろ、どのように国際法が外交政策の担当者によって実際に用いられているのかについて焦点を当てていた」[17]。国際法手続は「国際関係論を研究しているリアリスト」と共に展開していき[18]、リアリストは冷戦が始まると共にどれほど国際法が国際情勢に影響を与えているのかについての認識を抱いていた。国際法手続は1968年のチェイス、エールリッヒ、ローウェンフェルドによる『国際法手続』の事例集の中で正当な理論と見做されており、そこでアメリカの法手続のための方法論は国際法手続を創設するために変化していった[19]。国際法手続は国際法手続が機能する方法や外国の機関が国際法を組み込む公式ないし非公式な方法を説明していた[17]。また国際法手続は、どの程度個人が国際紛争における人権侵害に対して責任を有しているのかを評価していた[20]。国際法手続は国際法が意思決定者の行動を決定付けないことを認識していた一方、国際法が正当化、言動の制限、計画を準備することの手段になっていたことを示唆していた[20]。国際法手続が方法論に関して規範的性質を欠如していることに対する批判は新たな国際法手続を生み出していた[21]。新たな国際法手続(NLP)は手続としての法とそれぞれの社会の価値観としての法の双方を組み込んでいた。アメリカの法体系と異なり、新たな国際法手続は「フェミニズム、共和主義、法と経済学、人権、平和、環境保護のようなリベラリズム」のような民主主義以外の規範的価値観を念頭に置いていた[22]。新たな国際法手続は価値観の進化に柔軟に適合していくことに関して独特であった。時間を超えた法的基準の変化に対応するために、新たな国際法手続の方法論の各要素は重要な役割を担っていた。新たな国際法手続は、紛争時に生じることや生じるであろうことを主張することによって、国際法手続からの新たな展開を示していた。
3 政策に対する展望
3.1 ニューヘブン・アプローチ
ニューヘブン学派は、マイレス・S・マクドゥーガル、ハロルド・D・ラスウェル、W・マイケル・リースマンによって切り開かれた国際法における政策に対する展望であった[23]。その系譜はロスコー・パウンドによる法社会学やリアリズム法学者の改革主義に根差していた。ニューヘブン・アプローチによれば、法哲学は社会的な選択を行うための理論であった。国際法は、法的機関による支配によって生じた行動の一定のパターンについて、関連するアクターの期待を反映していた。主な法的ないし知的課題は、アクターの社会的目標に対して最大限に達成され同時に秩序を維持する方法で、政策を決定し実施することであった[24]。これらの社会的規範の目標やニューヘブン・アプローチの価値観は、富、啓発、スキル、幸福、好意、敬意、正直さのようなアクターの内部で共有された価値観を高めることを含んでいた[25]。ニューヘブン学派の法哲学の目的は、最適な秩序の中にある共有された価値観を高め、国際的な秩序を縮小させるシステムとして、国際法を解釈することであった。
3.2 批判法学
批判法学(CLS)は1970年代のアメリカの法理論として登場していた。批判法学は高度に理論的な観点から国際法を分析する方法として今日まで存在していた[26]。批判法学の方法論は、国際法の性質が政治や力の伝統的な構造から抜け出せなかった文言によって決定づけられているので、限定されていることを示していた[27]。批判法学の研究者は、これらの力の構造が法律用語の中に(男性対女性、多数派対少数派、等)存在している二元論の中に見出されることを主張していた[28]。国際法の政治的側面を認識すると、これらの研究者は、国際法の普遍性は達成不可能であると主張していた[29]。この方法論に対する批判は、批判法学を徹底的に適用することが現実に不可能であることを示唆していた。しかしながら文言に対する深い分析や批判法学が明らかにしている不公平を理由にして、批判法学は国際法に対する他のアプローチ(フェミニストや文化相対主義者等による)を発展させていた[30]。
3.3 セントラル・ケース・アプローチ
セントラル・ケース・アプローチは人権状況を俯瞰する方法論であった。このアプローチはある普遍的な権利の存在を容認していた[31]。このアプローチは、人権が認められる仮定に基づいた理想状態を想定することによって、人権問題や実情を反映した基準を分析していた。セントラル・ケース・アプローチは、どの程度そしてどのような方法で、現状が理想(もしくはセントラル・ケース)から逸脱していったのかについて探求していた[32]。セントラル・ケース・アプローチは分析に関する伝統的な二元論以上に複雑な性質を考慮していた[33]。二元論において、人権は単に侵害されるか遵守されるかのいずれかであった[34]。二元論は、表面的にそして単純に状況を把握しているに過ぎない人権侵害の重大さの程度を考慮していなかった。ジョン・フィニスは法体系を評価するために利用されるセントラル・ケースの概念を発展させていた[35]。タイ・ヘン・チェンは人権に対してセントラル・ケースの概念を初めて適用していた。もし意思決定者によってセントラル・ケース・アプローチが用いられているならば、そのアプローチは人権侵害の防止に効力を有する可能性が存在していた。セントラル・ケース・アプローチは人権侵害に加えて社会の政治的ないし社会的状況を考慮に入れていた[32]。この考慮はセントラル・ケース・アプローチが人権侵害の動向やその理由を示すことを可能にしていた。セントラル・ケースにおける分析は人権侵害のさまざまな程度を示しており、政策決定者が緊急に対処する必要がある人権侵害の最も深刻な状況に注目することを可能にしていた。セントラル・ケース・アプローチは刻々と変化する状況に対する正確なイメージを与えていた[36]。二元論がある時点で人権が侵害されているかどうかを決定している一方で、セントラル・ケース・アプローチは人権状況に微妙な差異を与える政治的ないし社会的状況におけるシフトを示すことを可能にしていた[36]。
3.4 フェミニズム法理論
フェミニズム法理論はそれが家父長的であることを主張することによって法律用語を批判しており、法律用語は男性を規範としてそして女性を規範からの逸脱として表現していた。フェミニズム法理論の支持者は、女性を法律用語の内部に包含し、法を完全に再構築するために、法律用語を変えることを提案しており、正義と平等に対する広範な目標を達成することを可能にしていた。フェミニストの方法論は、国際法を記した文言におけるバイアスや、男性より弱い立場にあり法の下で保護される必要がある女性という概念を明らかにすることを求めていた。フェミニストであるヒラリー・チャールズワースは、男性や国際法から保護される必要がある被害者としての女性を示している文言を批判していた。さらにヒラリー・チャールズワースは、支配的な文言のアイロニーが、女性を保護することを目的としている一方で、女性の名誉を保護することを強調していたが、女性の社会的、文化的、経済的権利を保護することを強調していないことを含意していたことに言及していた。
3.5 LGBT法理論
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)に関する国際法理論は、国際法の欠点が認識されるようにクィア理論に統合して国際法理論を展開させた学派であった。現在、国際人権規約が平等や平等な機会を享受する人々を一般化することを始めている一方で、過去において、性の認識やジェンダーについてのアイデンティティに関するあらゆる議論が大部分においてタブーであった。LGBT国際法理論は、国際法の枠組みの中にクィア理論を統合することと同様に、LGBTの権利を包含し意識すること(さらに個人を保護すること)を中心に据えていた。LGBT理論がさらなる研究成果を挙げていたように、国際裁判所や国際機関(特に欧州連合理事会や国連)は、性別に基づいた職場差別、同性愛結婚による家族の定義から派生した問題、性の認識に問題を抱えたトランスセクシュアルの立場、一般的な健康支援やHIV/エイズ危機に関するLGBTの権利を認識する必要性、国連の中に(アドバイザーとして)LGBT支援グループを包含すること、同性愛に関わる人々に対する迫害を諸問題の中に含めていた[37]。研究者であるナンシー・レヴィットによれば、ゲイに関する法理論の課題は2つ存在していた。平等や従属理論に対する脆弱性を取り除くことや、LGBT国際法理論の要である幅広い文化的背景において、その価値が認められていないにせよ、許容されるセクシュアル・マイノリティを代表する方法論を発展させることであった[38]。
3.6 古代ローマにおける国際法
ローマ時代における国際法の概念は複雑なものであった。というのは、共和政ローマやそれ以降の帝国が歴史的に長期にわたって支配を続けていただけでなく、「国際法」という用語が正しい用語であるかどうかについての議論がいまだ結論に達していなかったからであった[39]。多くの研究者は国際法を「主権を有する領域国家の間における関係を支配する法」として定義していた[40]。ローマ法の中に同様の法を見出す取組みは、万民法の中にその出発地点を見出していた[41]。万民法は、当時の多くの国家に見られる法制度(奴隷制のような)のようなものに対するローマ人の認識から始まっていた[42]。この法は実際には私法に該当し、ローマ人の国家が国家でなく個人としての外国人を取り扱う方法を主に決定していた[42]。しかし212年に市民権が帝国内の全自由民に与えられると、万民法は本来の定義を維持することを止めて、国家全体に適用されていた[40]。そのため近代国際法の外観がこの変化の中に見出されることが可能であった。国際法の起源や近代国際法との関連は現時点では解明しきれていないトピックであった。
3.7 第三世界
国際法に対する第三世界からのアプローチ(TWAIL)は、「現在の法」に対して疑念を呈する厳密な意味での「方法」ではない、国際法に対する重要なアプローチであった。むしろ、それは特別な関心の対象や研究に必要な分析ツールによって統合された法に対するアプローチであった。TWAILは国際法と植民地の人々との衝突の歴史から引き出されたアプローチであった。TWAILは、ポストコロニアル研究、フェミニズム理論、批判法学、マルクス理論、批判的人種理論と多くの概念を共有していた。TWAILは研究において、第一世界と第三世界の綱引きや、第三世界の人々を従属させ抑圧することを正当化する国際法の役割を優先させていた。TWAILの研究者は、「第三世界」を統合された合理的な場として示すことを避けようとしており、発展途上や周縁化を共有している国民を示すためにその用語を用いていた。
現代のTWAILは、ジョルジュ・アビ=サーブ、F・ガルシア=アマドール・R・P・アナンド、モハメド・ベジャウイ、タスリム・O・エリアスのような法律家による著作に起源を有していた。長年にわたって欧米の研究者は第三世界の立場に理解を示しており、学術的な知識に対して重要な貢献をしており、C・H・アレクサンドロヴィッチ、リチャード・フォーク、ニコ・シュライバー、PJ・I・M・デ・ワールトのような研究者を含んでいた。デイヴィッド・ケネディやマルティ・コスケンニエミも同様に貢献していた。現在に至るまでに研究者の緩やかなネットワークとしてのTWAILは数度の会議を開催していた。
ジョンソンによる2009年の論文は、HIVに対する南部アフリカ開発共同体(SADC)議員フォーラムのモデル法が同時に国際人権法と対応しており、地域の特徴を反映している伝染病に対するリーダーシップと法哲学との連携を通じて、TWAILの目標に近づくことが可能であったと主張していた[43]。
アル・アッタールやミラーによる2010年の論文は、米州ボリバル同盟(ALBA)がTWAILを発展させるための潜在的な力を有しており、ALBAを「補完性や人間の連帯に関する概念に根差した国際法についての統合的な反論を有しているもの」として示していることを主張していた[44]。2011年の春にトレード・ロー・アンド・ディベロップメントはTWAILに関する特別号を出版していた[45]。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rule_according_to_higher_law
高次の法による支配
高次の法による支配は、もし法が普遍的な公正の原則(成文であれ不文であれ)、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた[1]。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた[2]。
「高次の法」はこの文脈において、国際法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であった[3]。そして高次の法は、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有しており、コモン・ローと関連している自然法と対立していた[4]。「理想としての法の支配と確立された立憲政治との必然的関係を考慮することは、全ての国家が同一の憲法構造を保持することが可能であることを暗示している訳ではなかった」[5]。
高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解(普遍的な法的価値観に関する)を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった[6]。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であった。法治国家の名称は英語に翻訳されたものであり、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。アマルティア・センは、古代インドにおける法哲学者が、単に制度や規則を評価する問題でなく社会自体を評価する問題であるといった意味で、古典サンスクリット語の「ニヤーヤ」という用語を用いていたことに言及していた[7]。
1 事例
南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が「憲法より高次の法」の下で禁じられていると明確に言及していた。
一般的に言えば、「正当に制定された不公正な法」が制定されることは、法の支配の原則に対するその国の政治的リーダーシップが採用する見解に依存していた。
一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった[8]。
他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、「誰もが法に従わなければならない」といった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった[9]。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば「自然法」として言及されていた。これらの原則は同様に「高次の法理」の基礎を構成していた。
2 高次の法を執行する立憲政治
18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。カントはその学説を立憲主義や立憲政治のみに基づかせていた。
カントは次のように高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。「国家の憲法は市民の倫理に基づいており、市民の倫理は憲法の本質に基づいていた。」 カントの考え方は21世紀の憲法理論の基礎を成していた。法治国家の考え方は例えばイマヌエル・カントの『人倫の形而上学の基礎付け』によって紹介された考え方に基づいていた。
「普遍的であり恒久的に平和な生活を確立することは、純粋理性の枠組みの中の法理論の一部であるだけでなく、それ自体で絶対的であり最も重要な目標でもあった。この目標を達成するために、国家は共通の憲法に基づいた財産権を法的に保障された中で生活している多数の人々で構成されるコミュニティであらねばならなかった。憲法の優越性は...公法の庇護の下で人々の生活を最も公正に守るといった絶対的な理想を達成することから論理的に引き出されなければならなかった。」[10]
19世紀にアレクサンドル2世の大改革による変化の結果として生じたロシアの法制度は、現在もそうであるが、本質的にドイツ法の伝統に基づいていた。ドイツ法の伝統からロシアは法治国家の考え方を採用していた。法治国家に類似した英語の表現は「法の支配」であった[11]。ロシアにおける法治国家の概念は国家の最高法規としての成文憲法(憲法による支配)を採用していた。基礎を支えているが定義されていない原則は、共産主義政権崩壊後のロシアの憲法の特徴を示している最も重要な条項の中に表れていた。「ロシア連邦は統治の形態として共和制を採用した民主的な連邦制の法治国家であった。」 同様にウクライナの憲法の特徴を示している最も重要な条項は「ウクライナは主権国家であり、独立国家であり、民主主義国家であり、社会国家であり、法治国家である」と宣言していた。したがって「法治国家」という言葉に意味を与えることは理論のための理論ではなかった。
2003年にロシアの憲法裁判所長官であるワレリー・ゾリキンは「法治国家になることが長らく私たちの最も重要な目標であり、私たちは過去数年間にわたってこの方向に向けて着実な進歩を続けてきた。しかし現在私たちがこの目標を達成したと述べることは誰もできなかった。そのような法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができなかった。この点で私たちの生活とは別に、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。」[12]
ロシアにおける法治国家の概念は、経済学の枠組みで高次の法理を執行する立憲経済学の大部分を採用していた。
経済学者であるジェームズ・M・ブキャナンは、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は以下の3つの仮定によって条件付けられていなければならないと主張していた。第一に、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、第二に、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、第三に、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことであった。
ブキャナンは「国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方」を拒否していた。そしてその哲学的な立場は立憲経済学のトピックを取り扱っていた。立憲経済学によるアプローチは経済学と憲法的分析を組み合わせることを許容しており、一面的な理解を回避していた。カントに沿ってブキャナンは、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っていると考えていた。
またブキャナンは憲法規範の根底にある道徳的な原則を保護する意義について言及していた。そしてブキャナンは、「憲法上の市民権に関わる倫理は、現在の体制によって課された枠組みの中において他の人々と相互作用している倫理的行動と直接対応することがなく、個人は、標準的な倫理の意味において、完全に合理的に考え行動しているかもしれなかったが、憲法上の市民権の要求を倫理的に満たすことに失敗していたかもしれなかった」と述べていた[13]。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jurisprudence
法哲学
法哲学は法学であり法に関する理論であった。法哲学の研究者(法に関する社会理論の研究者を含む)は、自然法、法的推論、法制度を深く理解することを望んでいた。近代の法哲学は18世紀に始まっており、自然法、大陸法、国際公法において最も重要な原則に焦点を当てていた[1]。一般的な法哲学は、研究者が抱いている疑問のタイプや、どのようにこれらの疑問が解決されるのかに関する法哲学の理論の双方によって、いくつかのカテゴリーに分割されていた。現代における一般的な法哲学は2つの大まかなグループに属する問題に焦点を当てていた[2]。
(1) 法や法制度内部の問題。
(2) 政治情勢や経済情勢に関連した社会制度としての法の問題。
これらの問題に対する解答は一般的な法哲学に関する思想における4つの学派に分かれていた[2]。
自然法は、立法者の力が合理的で客観的な制限に縛られているとの考え方を示していた。法の基盤は人間の理性を通じて理解されており、人間の手による法の制定はその力の源泉を自然法を通じて獲得していた[2]。
自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。法実証主義者はこれらの社会的事実を正義や善といった価値から切り離していた[3]。
リアリズム法学は法哲学における三番目の理論であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。同様のアプローチは法社会学の視点を通じて多くの方法で展開されていた。
批判法学は最も新しい法哲学であり、1970年代から発展していた。批判法学は、法が大きく矛盾した存在であり、支配的な社会集団の政策目標の具体化として分析され得ることを示す否定的な見解であった[4]。
また現代の法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの著作が著名であり、ロナルド・ドウォーキンは、自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた[5]。
この英語による用語はラテン語の法哲学に基づいており、"juris"は法を意味する"jus"の所有格であり、"prudentia"は哲学を意味していた(それは分別、洞察、配慮、慎重さであり、妥当な判断を下すことを示しており、現実の問題を解決することに対する注意を含んでいた)。現在"prudence"という用語に関して「分別に関する知識やスキル」といった意味は廃れていたが、1628年に初めて法哲学という言葉が英語で登場していた[6]。この法哲学という用語はフランス語の"jurisprudence"由来である可能性が存在しており、そうであれば1628年より早く登場したことになる。
1 法哲学の歴史
その起源においてこの学問分野は祖先の慣習に関する法(伝統的な法)や「父から息子へ」口頭で継承された口述の法や慣習を研究の対象としており、古代ローマにおいて法哲学はこの意味をすでに採用していた。古代ローマの執政官は、起訴され得る犯罪を毎年布告するか、特殊な事例を法令に追加するかのいずれかによって、特殊な事件を起訴することが可能であるのかどうかを判断することによって法を確立していた。そして判事は事件に関する事実に従って判決を下していた。
彼らの判決は伝統的な慣習を単純に解釈したものと考えられていたが、個々の事件について何が伝統的に法的慣習の中に含まれているのかを再考することとは別に、より公平な解釈を目指し、法を新たな社会状況に適合させていた。法は新たに適合し続ける制度(法的概念における)に基づいて執行されていたが、伝統的な枠組みの中に収まったままであった。紀元前3世紀に古代ローマの執政官は知識人の共同体と入れ替わっていた。知識人の共同体への参加は能力や経験を証明することによって条件付けられていた。
ローマ帝国においては法学校が開設されており、次第に学術的になっていった。初期のローマ帝国から3世紀に至るまでプロクルス派やサビヌス派が法に関する研究を行なっていた。その研究内容は古代において前例がないほど深いものであった。
3世紀以降、法哲学はより官僚的色彩を強くしており、ほとんど有名な研究者は現れなかった。東ローマ帝国の時代に(5世紀)、法学は再び深化し、この文化的運動からユスティニアヌスのローマ法大全が生まれていた。
2 自然法
自然法理論は、自然に内在している法が存在しており、制定された法が可能な限り自然と一致していると主張していた。この見解は、不正なる法は法にあらずという格言によってしばしば説明されており、「不正なる法は法にあらず」において「不正なる」は自然法の対立概念として示されていた。自然法は道徳と密接に関連しており、歴史的に説得力がある見方によれば、神の意思と関連していた。その概念を非常に単純化すると、自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、「善なるもの」を促すための道徳的な方向を定めようとしていた。人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在していた。何が正しくて何が間違っているのかはフォーカスされた利益に従って変化する可能性が存在していた。自然法は時として「不正なる法は法にあらず」という格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスのように現代の自然法学者において最も評価が高い人々は、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったと主張していた。
3 分析法学
分析法学は、法体系の側面を説明するときに、視点や記述に用いられる言語を中立的に用いることを意味していた。分析法学は、何が法であり、何が法であるべきかを融合させた自然法を拒否する哲学的議論であった[26]。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』[27]において、そのために私たちが行動を決定しなければならないと世界が示すための行程にあることを人々が常に表明していると主張していた。しかし純粋なロジックの問題として、何かが争点となるので、私たちが何かをしなければならないと結論付けることは不可能であった。したがって世界の在り方を分析することは規範と評価を厳密に分離して取り扱われなければならなかった。
分析法学において最も重要な問題は、「何が法であるのか」「何が法学であるのか」「法と力ないし社会学との関係は一体何であるのか」「法と道徳との関係は一体何であるのか」であった。法実証主義は支配的な理論であったが、独自の解釈を与える多くの批評家に囲まれていた。
法実証主義者
実証主義は単に、法が「断定された」何かであることを意味しており、法は社会的に受け入れられたルールに従って正当に制定されていた。法実証主義は2つの大きな原則に従っていると考えられていた。第一に、法は正義、道徳、他の規範となる目標を実現することを目指していたが、それらの目標に対する成否は法の正当性を決定付けていなかった。法が社会に受け入れられる方法で適切に制定されているならば、他の基準によってその正当性を担保されているか否かに関わらず、法は正当な法であった。第二に、法は秩序や社会の統治をもたらすルールの集合以上の存在ではなかった。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張していなかった。そしてこれは全く別の問題であると考えられていた。
現行法(lex lata)は歴史的なそして社会的な背景によって決定されていた。
あるべき法(lex ferenda)は道徳的な配慮によって決定されていた。
ベンサムやオースティン
一番初期の法実証主義者の1人としてジェレミ・ベンサムが挙げられていた。ベンサムは初期の忠実な功利主義者の1人であり(ヒュームとともに)、刑務所に対する熱心な改革者であり、民主主義の支持者であり、強固な無神論者であった。法や法哲学に対するベンサムの見解は弟子であるジョン・オースティンによって広められることになった。1829年からオースティンはロンドン大学の法学教授となっていた。「何が法であるのか」に対するオースティンによる功利主義的な解答は、法は「罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令」であった[28]。現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、特にH・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。
ハンス・ケルゼン
ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。ハンス・ケルゼンの純粋法学は、強制力のある規範を評価することを拒絶していたが、法を強制力のある規範として示すことを目指していた。それは「法学」を「政治学」から切り離していた。純粋法学の中心は法学者によって仮定された規範である「根本規範」にあり、憲法に始まる法体系におけるあらゆる「下位」規範が根本規範から「拘束力」を引き出していると理解されていた。ケルゼンは、表面的な「法的」性質の中に確認できる法的規範の拘束力が、神、擬人化された自然、擬人化された国家(当時重要であった)のような形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。
H・L・A・ハート
英語圏の重要な研究者の中にH・L・A・ハートがおり、法は社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張していた。ハートは、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。ハートは『法の概念』を通じて20世紀における重要な論争として分析法学を取り上げていた[29]。オックスフォード大学の法哲学の教授として、ハートは法が「ルールの体系」に他ならないと主張していた。
ハートは、ルールが一次的ルール(人の行為に対するルール)と二次的ルール(一次的ルールを管轄するために当局者に対して向けられたルール)に分割されることに言及していた。また二次的ルールは、裁定のルール(法的紛争を解決するための)、変更のルール(法が変更されることを許容する)、承認のルール(法が妥当であると認められることを許容する)に分割されていた。「承認のルール」は、当局者(特に裁判官)による慣行がある一定の行動や決定を法源として認めていたことを含んでいた。1981年に(第二版は2007年に)ハートに関する著作がニール・マコーミックによって記されており、彼の理論(2007年に出版された著作が例として挙げられる)を展開させるための重要な批評が与えられていた。他の重要な批評はロナルド・ドウォーキン、ジョン・フィニス、ジョセフ・ラズによってなされていた。
近年法の性質に関する議論が精緻さを増してきていた。重要な議論の1つは法実証主義の中に存在していた。ある学派は時として排除的法実証主義と呼ばれており、規範に対する法的妥当性が道徳的な正しさに依存することがないといった見解に関連していた。2番目の学派は包含的法実証主義と呼ばれており、その主な支持者はウィル・ワルチャウであり、道徳的考慮が規範に対する法的妥当性を決定付ける可能性が存在していていたが、常にそうである訳ではないといった見解に関連していた。
ジョセフ・ラズ
ある哲学者たちは、実証主義が法と道徳の間に「必然的な関連がない」といった理論であることを主張していたが、ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者はこの見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度に起因していないだろうと一般的に考えられている(例えば、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった)前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。
ジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、『法の権威』におけるハートのアプローチを批判していた[31]。ラズは、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。権威を超えたルールの分類は法哲学に対してよりも社会学に対して委ねられていた[32]。
ロナルド・ドウォーキン
『法の帝国』の中で、ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判していた。ドウォーキンは、法は「解釈の後に」得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。ドウォーキンの見解によれば人は、人が社会において法の執行を正当化することに対する道徳的観点を知るまで、社会が執行されている法制度を有しているのかどうかや、個々の法が何であるのかを知ることができなかった。法実証主義者やリアリズム法学者と対照的に、誰も法の執行を最大限に正当化することを知っていないかもしれないので、社会における誰もが法が何であるのかを知らないかもしれないといったことはドウォーキンの見解と一致していた。
ドウォーキンによる純一性としての法によれば、解釈は2つの次元を有していた。解釈を考慮するために、法令や判例の文言を解釈することが正当化の基準に合致していなければならなかった。正当化される解釈に関してドウォーキンは、正確な解釈がコミュニティの政治に光を照らし、可能な限り最善のことを成していると主張していた。しかし多くの研究者は、あらゆるコミュニティにおける複雑な法の執行に対して唯一の正当化がなされることに対して疑念を呈しており、他の研究者は、仮に存在するにせよ、法の執行がコミュニティの法の一部として考慮されるべきであることに対して疑念を呈していた。
リアリズム法学
リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であった。懐疑的な立場から、法は、ルールや学説が成文法や条約上で述べていることよりもむしろ、裁判所、法律事務所、警察署に属する人々の個人的な嗜好や偏見によって理解され、決定されてきたと主張していた。リアリズム法学は法社会学と親和性が高かった。リアリズム法学の基本的な考え方は、あらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。
最高裁判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアをアメリカのリアリズム法学の提唱者としてきたことは今日一般的であった(他に、ロスコー・パウンド、カール・ルウェリン、最高裁判事であるベンジャミン・カードーゾを含んでいた)。他のアメリカのリアリズム法学の提唱者であるカール・ルウェリンは同様に、法が人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えていた[34]。北欧におけるリアリズム法学は主にアクセル・ヘーガーシュトレームによる仕事であると考えられていた。その人気の凋落にもかかわらず、リアリズム法学は今日の法哲学に幅広い影響を与えており、批判法学、フェミニズム法理論、批判的人種理論、法社会学、法と経済学を含んでいた。
歴史法学派
歴史法学はゲルマン法の法典化に対するドイツにおける論争を通じて有名になっていた。『立法と法科学に関する現代の課題』の中でフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーは、ドイツ人の伝統、慣習、信念が法典に対して信頼を置いていないため、ドイツが法典化を支援する法律用語を有していないと主張していた。歴史法学者は、法が社会から生じていると考えていた。
4 規範的法哲学
「何が法であるのか」といった問題に加えて、法哲学は法についての規範的理論に関連していた。法の目的は何であるのか。道徳や政治学は法の基礎に何をもたらしているのか。何が法の固有の機能であるのか。どんな種類の行為が処罰の対象であるべきであり、どんな種類の処罰が許容されるべきであるのか。何が正義であるのか。どんな権利を私たちは保持しているのか。法に従う義務は存在しているのか。どのような価値を法の支配がもたらしているのか。その学説と研究者を以下に記すことにする。
徳法学
徳倫理学のような規範倫理学は道徳性の役割を強調していた。徳法学は法が市民の手によって道徳性を向上させるといった見解であった。歴史的にこのアプローチは主にアリストテレスや後のトマス・アクィナスに関連していた。現代の徳法学は徳倫理学における哲学上の業績によって触発されていた。
義務論
義務論は「道徳的義務に関する理論」であった[36]。哲学者であるイマヌエル・カントは法についての義務論を構築していた。カントは、私たちが従っているあらゆるルールが普遍的に適用されることが可能であらねばならず、皆がそのルールに従うことを私たちが許容しなければならないと主張していた。現代の義務論的アプローチは法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの業績の中に確認することが可能であった。
功利主義
功利主義は、法が最大多数の最大幸福を生み出すように制定されなければならないといった立場であった。歴史的に法に関する功利主義の思想家は哲学者であるジェレミ・ベンサムに関連していた。ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの弟子であり、19世紀後半における功利主義の擁護者であった[37]。現代の法哲学において功利主義的なアプローチは法と経済学を研究していた人々によって支持されていた。同様にライサンダー・スプーナーを参照せよ。
ジョン・ロールズ
ジョン・ロールズはアメリカの哲学者であり、ハーバード大学の政治哲学の教授であり、『正義論』(1971)、『政治的リベラリズム』、『公正としての正義 再説』、『万民の法』の著者であった。ロールズは20世紀を代表する英語圏の政治哲学者の1人であると広く考えられていた。ロールズの正義論は、もし私たちが「無知のヴェール」に覆われているならば、私たちの社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと私たちに尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった私たちを特徴付ける要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この「原初状態」からロールズは、私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。また私たちは、法制度が特に貧困者を含む全ての社会の構成員の経済厚生の向上に対する十分なインセンティブを与えているので、生じた不平等が許容される法制度を選択することになるだろう。これはロールズの有名な「格差原理」であった。選択における原初状態の公正さが原初状態において選択された原則の公正さを担保している意味において、正義は公正であった。
法哲学に対する規範的アプローチは他に多数存在しており、批判法学や法哲学におけるリバタリアニズムを含んでいた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Private_international_law
法の抵触
法の抵触(国際私法)は、どの法体系やどの管轄権が該当する紛争に適用されるのかを決定する手続規則の総体であった。「外国が関係する」要素がイギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダといった管轄権を有する複数の国に存在しているけれども、法的紛争が異なった国の当事者によって合意された契約のような「外国が関係する」要素を扱っているときに、そのルールが一般的に適用されていた。
法の抵触という用語は、法的紛争の帰結がどの法が適用されるのかに依存している状況やこれらの法の衝突を解決するコモン・ローの裁判から生じていた。大陸法の枠組みにおいて法律家や法学の研究者は国際私法のような法の抵触に言及していた。国際私法は国際公法と現実において何ら関連しておらず、その代わりとして国ごとに異なる現地の法を特徴にしていた。
国際私法には3つの視点が存在していた。
管轄裁判所が紛争を解決する管轄権を有しているか否かといったこと。
紛争を解決するために適用される法の選択。
判決を出す裁判における管轄権の内部において外部の管轄裁判所からの判断を許容し執行する能力。
1 用語
法の抵触、私的国際法、国際私法といった異なった名称は一般的に交換可能であったが、それらは全体像を見る限り正確ではなく、適切に説明していなかった。法の抵触といった用語はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといったコモン・ローの司法機関の中で用いられていた。私的国際法はイタリア、ギリシア、スペイン語圏、ポルトガル語圏と同様にフランスで用いられていた。国際私法はドイツ、ロシア、スコットランド(オーストリア、リヒテンシュタイン、スイスと同様に)で用いられていた。
アメリカやオーストラリアのような連邦国家における法の抵触がその抵触に対する解決を必要としていた連邦制において、その抵触は単なる国際問題を含んでいなかったので、法の抵触といった用語が好まれていた。したがって法の抵触は、関連する法体系が国際的であるか否かに関わらず、法の相違に言及するために好まれた用語であった。しかしながら法の抵触は、「抵触」よりむしろ競合する法体系の衝突を解決することに言及するときに、誤解を招く恐れがあった。英語における私的国際法という用語はアメリカの法学者であるジョセフ・ストーリによって創り出されていたが、コモン・ローの研究者によって実質的に放棄させられ、民法の研究者によって採用されていた。
2 歴史
英米法の伝統における法の抵触の最初の例はギリシア法に遡ることが可能であった。古代ギリシアは複数の国家に及ぶ問題を取り扱っていたが、抵触法を制定していなかった。ギリシア法は全ての国家の市民にとって平等に適用可能であったので、紛争の解決は国際的な紛争に対する裁判所の設置から地域の国内法の適用に至るまで様々であった[1]。
さらなる議論はローマ法に遡ることが可能であった。ローマの市民法は市民でない人々に適用されることができず、特別法廷が複数の国家に及ぶ事件に対する管轄権を有していた。これらの特別法廷の裁判官は外国人係法務官と呼ばれていた。外国人係法務官は適用すべき法の管轄を決定していなかった。その代わりに外国人係法務官は「万民法」を「適用」していた。万民法は国際的な規範に基づいた法について緩やかに定義されたものであった。したがって外国人係法務官は個々の事件に対する新たな実体法を制定していた[2]。今日実体法は抵触法の問題に対する「明文化された」解決方法として認識されていた。
近代における法の抵触は一般的に中世後期のイタリア北部、特にジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアのような交易都市で始まったと考えられていた。異なった都市に属する貿易業者間の商取引に関わる問題を裁判する必要性は法に対する理論を発達させ、ある都市の法は影響を及ぼす人に「関する」人法として考えられており、他の都市の法は物法として考えられており、商行為が行われた都市の法を適用していた(所在地法を参照せよ)。
また海事法は国際法上のルールの原動力になっており、契約の履行、難破船の船員や財産の保護、港湾の維持管理を含んでいた[3]。
1834年にジョセフ・ストーリが『法の抵触註解』を発表した19世紀のアメリカにおいて、抵触法の現代版が登場していた。ストーリの著作はA・V・ダイシーのようにイギリスにおける抵触法の展開に大きな影響を及ぼしていた。そしてイングランド法の多くがイギリス連邦の大多数に対する法の抵触の基礎になっていた。
しかしながら20世紀半ばのアメリカにおいてストーリの著作は人気を博さなくなっていた。伝統的な法の抵触のルールは、第二次産業革命によって高度に流動化した社会からの要請に対して対応し切れていない非常に厳格なものとして広く認識されていた。そしてそれらのルールは多くの取り組みによって変更を加えられ、その取り組みの内、最も重要なものは、法学者であるブレイナード・カリーによって研究された政府の利益を分析したものであった。カリーを通じて、アメリカにおける法の抵触のルールは国際水準に耐え得るルールから大きく乖離していった。
3 抵触の段階
まず裁判所は管轄権を有しているかどうかを決定しなければならず、もし管轄権を有しているのならば、フォーラム・ショッピングの問題を抱えているが、裁判が適切な裁判地で行われているのかどうかを決定しなければならなかった。
次のステップは、付随する問題を生じさせるかもしれないが、訴訟を法的カテゴリーの中に分類することであった(例えば手続法と実体法の区別が必要であった)。
個々の法的カテゴリーは、競合する法のどれが個々の問題に適用されるべきかを決定するために、法を選択していた。この重要な要素は反致に関するルールになるかもしれなかった。
一旦準拠法が決定されると、その準拠法が管轄裁判所において明示され、判決を下すために適用されなければならなかった。
その後当事国は、国際間で共有する作業に関与している判決を執行しなければならなかった。
抵触法が発展途上の国々にとって、管轄権の決定はその場しのぎで行われる傾向があり、法の選択は私法の分野に分類され、法廷地法や現地の法を適用する傾向にあった。抵触法が成熟している国々にとって、抵触法は現地の私法から離れ、用語と概念の双方において国際的な視点を採用していた。例えばEUでは、あらゆる管轄権の問題がブリュッセルⅠ規則によって規定され、例えば加盟国における他の係争中の訴訟にブリュッセルⅠ規則を適用しており、その解釈は現地の裁判所よりむしろ欧州司法裁判所によって決定されていた。抵触法に関するルールにおける他の要素は、国家の枠組みを超えて形成され、条約や協定を通じて執行されていた。これらのルールは主権の問題と直接関係しており、締結国の裁判所において法をその領域外から適用しているので、私法と言うよりかは公法としての色彩を帯びており、その理由として、個々の国家が現地の裁判所を管轄とすることや、現地の法が現地の裁判所に適用されることを現地の人々が期待していることに対して妥協を促していたことが挙げられていた。このような公共的な側面は、ヨーロッパという共同体かもしくは、裁判所が憲法制定権のある国家や領域間のみならず州や連邦裁判所間、そして連邦外の他国由来の関連する法の間における管轄権や法の抵触の問題に取り組まなければならなかったアメリカ、カナダ、オーストラリアといった連邦国家に対して適用されるべきかどうかという憲法的意味を有していた[4]。
4 法の選択
法の選択の問題に直面していた裁判所は2段階のプロセスを辿っていた。
裁判所はあらゆる手続の問題(自明であるが法の選択の問題を含んでいる)に対して法廷地法を適用していた。
それは、法的問題を潜在的に関連している国家の法に関連させる要因であると考えられており、最も関連している法を適用しており、例えば、当事者の本国法や当事者の住所地の法が法律上の身分や行為能力を定義しており、目的物の所在地の法が所有権に関するあらゆる問題を判断するために適用されており、物理的に取引が行われた場所の法や行為地法が、問題が明文化されているときに、しばしば判決を左右する法になっていたが、準拠法がより一般的に選択されていた。
5 婚姻に関する法の抵触
離婚のケースで、裁判所が夫婦の財産を分割するときに、離婚する夫婦が現地におり、財産が現地にあるならば、裁判所は国内法である法廷地法を適用するだろう。現地の法が一夫多妻を許容しているならば、この問題は一層複雑になる。例えばカナダのサスカチュワン州は同時に複数の配偶者を許容している州として存在していた[5]。各州が同様の夫婦の財産に関わる法を有していたが、複数の州が連邦における一夫多妻に関する法を認めていないならば、何が生じるであろうか。このケースでは、彼らの地元の州が一夫多妻を許容しているかどうかに依存しているが、配偶者が複数の配偶者から同時に夫婦の財産を与えれたり与えたりする一方、その他の人々は唯一人の配偶者から夫婦の財産を与えられたり与えたりしていた。例えば、婚姻した場所が離婚手続をする場所と異なるとき、当事者の国籍と住所が一致していないとき、外国の管轄権の中に財産があるとき、当事者が婚姻期間中に何度も住居を移動していたときに、外国由来の要素が混在しているならば、この問題は一層複雑になっていた。配偶者が外国法の適用を求めるたびに、当事者が法の抵触の問題の概要や外国法の翻訳を伝えられるので、離婚手続はしばしば遅滞することになった。
異なった管轄権が異なったルールを適用していた。法の抵触を分析し始める前に、裁判所は、財産契約が当事者間の関係を支配しているかどうかを判断しなければならなかった。財産契約はその履行が求められる国で要求されているあらゆる手続を満たしていなければならなかった。
商業契約や婚前契約が一般的に遵守されるべき法的手続を求めていない一方、婚姻した夫婦が財産契約を結ぶときには厳格な要件が課されており、それは公証、証人、形式に対する特別な知識を含んでいた。ある国々では国内の裁判所にその概要を提出しなければならず、その際に用いる用語は判事によって「指定」されていた。このことは、不当な影響力が当事者の配偶者によって行使されないことを保証するためになされていた。配偶者間における裁判所に対する財産契約に関して、裁判所は一般的に以下の要素を認めており、それは、署名、法手続、その意思、その後の意思、自由意志、抑圧されていないこと、合理性や公平性、配慮、振る舞い、信頼、書面に対する後の評価、適用される契約の交渉経過を含んでいた。
有効な契約がない場合に、法の抵触のルールが機能することになった。
動産と不動産。一般的に適用可能な婚姻法は財産の性質に依存していた。配偶者の住所変更を考慮しなければ、目的物の所在地の法が不動産に対して適用され、また婚姻上の住所における法が動産に対して適用されていた。
完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。配偶者間の財産の帰属は、その最後の住所や婚姻の前後に獲得されていたかどうかによって決定されていた[6]。これはイギリスの規範であり、深刻な不公平が厳格な適用から生じるケースを例外にしていた。このケースにおいて、裁判所は新たに獲得された財産が婚姻以前に所有されていた財産に関係しているかどうかを検証していた。
変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)。婚姻時における当事者間の属人法は、居住地や国籍の変更に関わらず、新たに取得された財産を含むあらゆる財産を規定していた。これはフランス、ドイツ、ベルギーのような大陸法のアプローチであった。特定の留保を伴っているが、婚姻を通じた財産に関する1976年のハーグ条約の第7条を参照せよ。またイスラエルでは、「合意によって決定され、合意の際の居住地の法に従ってその財産の帰属を変更しているならば、配偶者間の財産の帰属は挙式時の居住地の法によって規定されていた。」[7] イスラエルが変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)を適用していることが、動産と不動産を区別していなかったことに注意せよ。そして動産と不動産の双方が婚姻時の居住地の法によって規定されていた。
部分的に変更可能な立場を支持する学説(パーシャル・ミュータビリティ)もしくは新たに取得された財産に関するミュータビリティ。これは夫婦財産の分割に関する法の抵触に対するアメリカのアプローチであった。婚姻中に取得されたあらゆる動産が、財産取得時の当事者の居住地の法によって規定され、以前の居住地や経由地の法によっては規定されていなかった。そして婚姻以前に取得された財産は婚姻時の当事者の居住地の法によって規定されていた。したがって、もし購入時の場所で財産に対する権利が与えられていたならば、その権利が後の居住地の変更によって影響されることはなかった。
法廷地法。例え外国からの要素を考慮する必要が存在していたにせよ、多くの場合において、裁判所は、当事者のあらゆる財産に対して現地の法を適用することによって、複雑な問題を回避していた。このことは、世界中の法が婚姻に関して基本的に類似しているとの仮定に基づいていた。パートナーシップが裁判所の管轄に含まれているので、その管轄権を有する法があらゆる側面に適用されていた。
法廷地法があらゆる手続法による救済に対して適用されていたことに注意せよ(実体法による救済とは異なっていた)。したがって出訴期限法と同様に公判前の救済、手続、形式を付与する能力に対する問題は「手続上の」問題として分類されており、常に離婚訴訟が係属している国内法の対象であった。
6 未婚のカップルの場合の法の抵触
国際的に認知された法的立場を有する婚姻と異なり、未婚のカップルの法的地位を認知する国際的な条約は存在していなかった。もし未婚のカップルが異なった国々に住居を移していたならば、そのカップルが最後に居住していた場所の法がそのカップルに対して適用されていた。この原則は、その関係における地位、権利、義務、国境を超えた動産や不動産を法的に取り扱っていた。その例外として、もし未婚のカップルが異なった国々に資産を所有していたならば、そのカップルは所有している動産や不動産の帰属を決定するために、それぞれの国における訴訟を必要としていたことが挙げられていた。
未婚のカップルに対する有効な協定がないので、法の抵触はこのように機能していた。
完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。未婚のカップルにおける財産関係は、以前に獲得されていたかどうかやその関係の後に獲得されていたかどうかに関わらず、最後の居住地によって決定されていた。
7 紛争前の条項
多くの契約や法的拘束力を有する合意は、管轄権や訴訟が係属する裁判所を当事者が選択する仲裁条項を含んでいた(管轄裁判所指定条項)。そして法律条項の選択は、裁判所がどの法を紛争における個々の側面に適用すべきかを決定するかもしれなかった。このことは契約自由の原則と対応していた。当事者がその取引に対して最も適切な法を選択することを、当事者自治の原則が許容していたことを、裁判官は認めていた。明らかに主観的な意思を司法が認めることは、伝統的に各要素と関係した事実に依存していたことを例外にしていたが、それは実際にはうまく機能していなかった。
8 外国法の地位
一般的に裁判所が外国法を適用する場合には、その外国法が外国法の専門家によって明示されていなければならなかった。裁判所は外国法を専門としておらず、どのように外国法が外国の裁判所において適用されているのかを熟知していないので、それは単なる訴訟ではなかった。そのような外国法は、主権の問題を抱えた法というよりむしろ、単なる証拠として考えられていた。仮に現地の裁判所が実際に外国法の域外適用を認めていたとしても、それは主権より小さなものであり、潜在的に違憲である方法で作用していた。この問題に対する理論的な解決は次のようなものであった。
(a) 個々の裁判所は、公正な結果を達するために必要な他国の法を適用するための、固有の管轄権を有していた。
(b) 現地の裁判所は外国法を適用するための独自の法的権利を有していた。この説明は維持可能な性質を示しており、法的拘束力のある判例を適用する州でさえ、紛争から生じたいかなる判例も将来の紛争に対して適用されていなかった。全て現地の事件で構成される枠組みの中で将来の訴訟を拘束する判決理由は存在しないであろう。
(c) 外国法を適用する裁判所は域外適用を許容するものではなく、「法の抵触」を通じて、その状況が外国法の適用を伴うことを許容していた。この主張を理解するには、まず最初にルールを域外適用することを定義しなければならなかった。ルールの域外適用は2つの異なる考え方の影響を受けていた。
一方でルールの域外適用は、現地の裁判所が法廷地法以外のルールを適用する状況を説明するために用いられていた。
他方でルールの域外適用は、そのルールが領土を超えて生じる状況に適用されることを意味する可能性が存在していた。この状況の例として、運転手と被害者の双方がイギリスの市民であったが、運転手の保険会社がアメリカ企業であったために、訴訟がアメリカでなされていたが、ロンドンでの自動車事故に対してアメリカの裁判所がイギリスの不法行為法や判例法を適用していたことが挙げられていた。事件がアメリカの裁判官がイギリス法を適用するイギリスの領土で生じていたので、アメリカの裁判官が外国法の域外適用を許容している訳ではないと主張することも可能であった。事実アメリカ法を適用するならば、アメリカの裁判官が域外適用で事件を処理しているとの主張も存在していた。
一旦準拠法が決定されれば、法廷地法を上書きするルールに反している場合を除いて、準拠法が尊重されていた。個々の裁判官は公序良俗の原則の番人であり、当事者は自身の行為によって、労働法、保険、競争規制、事業者のルール、禁輸、輸出入規制、証券取引規制のような分野を全般的に支えている地方自治体の法における基本原則を否定することができなかった。さらに、準拠法の適用が道徳にそぐわない結果をもたらすか、適用領域が限られた法を域外適用することを避けるために、法廷地法が用いられていた。
いくつかの国々では、外国法が「満足できる基準」を満たしていないならば、現地の法が適用されても構わないことを裁判所が決定する事例が時折見受けられていた。イギリスでは、根拠がないならば、外国法が準拠法と同等に推認されていた。同様に、明確な根拠がなければ、裁判官はその反対に、訴訟理由が生じた場所が特定の基本的な保護を与えることを想定しており、例えば、外国の裁判所が他人の過失により負傷した人を救済することが挙げられていた。最後にいくつかのアメリカの裁判所は、「法制度を有さない未開の場所」で負傷が生じたならば、アメリカの現地の法が適用されることを支持していた[8]。
もし事件が国の裁判所よりむしろ仲裁裁判所に持ち込まれていたならば、管轄裁判所指定条項によって、商業目的を否定しているときに、仲裁人は当事者による法の選択について現地の強制的な対応を適用しない決定を行っても構わなかった。しかし関連した公共秩序が適用されるべきであるという理由で、仲裁判断は、執行が一方の当事者によって求められた国における異議申立てを受ける可能性も存在していた。もし現地の仲裁が否定され、仲裁の場所と当事者によってなされた合意の間に本質的な関連がなかったならば、執行が求められる裁判所が仲裁を受け入れることが可能であった。しかしもし上訴が仲裁がなされた州の裁判所に対してなされたのであれば、裁判官は法廷地法の強行法規を無視することができなかった。
9 調和策
他国の法制度に対立するものとしてある国の法制度を適用することは、全体的に満足のいくアプローチではなかったかもしれなかった。当事者の利益が、国境を超えた現実を念頭においた法を適用することによって、常に適切に保護される可能性が存在していた。ハーグ国際私法会議は国際私法の統一を目的とした国際機関であった。ハーグ国際私法会議での協議は近年、電子商取引や名誉毀損に関する国境を超えた管轄権の範囲を取り扱っていた。そして国際契約法が必要とされていることを認識していた。例えば多くの国々は国際物品売買契約に関する国際連合条約を批准しており、 契約債務の準拠法に関するローマ条約は大まかな統一性を与えており、国境を超えた商行為を促進するインターネットや他の技術を生み出すための営みを肯定しているユニドロワ国際商事契約原則に対する支持が存在していた。しかし他の法はそれほど役割を果たしておらず、主な傾向は超国家的なシステムよりむしろ法廷地法の役割に留まっていた。直接的な影響をもたらす統一的なルールを生み出すことが可能である機関を有していたEUでさえ、共通市場を支える普遍的なシステムを形成することに失敗していた。それにもかかわらずアムステルダム条約は、超国家的な影響を有しているこの分野におけるブリュッセルⅠ規則に基づいて法を制定する機関に権限を付与していなかった。第177条は裁判所に解釈を行うための管轄権を与え、その原則を適用しており、したがって政治的意思が存在しているならば、その統一性が徐々に法の文言の中に現れる可能性を存在させていた。加盟国の国内の裁判所がこれらの文言を適用することにおいて矛盾を生じさせていないかどうかは推測の範囲内に留まっていた。
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