ミシェル・フェルネックスによれば、福島では汚染された地域においてチェルノブイリ以上に遺伝子の損傷が存在しているとされていた。
UNSCEARと異なり、多くの科学者たちは公式に発表された推定値やUNSCEARの委員長の見解を信じることはなかった。オーストリア気象地球力学局によれば、事故が生じてからの10日間におけるヨウ素131やセシウム137の放出量は、チェルノブイリと比較すると、それぞれ73%前後、60%前後と推定されていた。また憂慮する科学者同盟(UCS)は、格納容器が破壊されていなくても、放射性物質の膨大な放出が起こり得ることを指摘していた。
被曝の基準値は当初は6,000cpmに設定されており、検査を受けた162名の内、41名がこの基準値を超えていたが、除染処置を施すために実際に適用された基準値を13,000cpmに引き上げることによって、除染処置を施す必要がある住民の数を5名に減らしていた。そして3月20日に日本政府は除染処置を施すための基準値を100,000cpmにすることを表明し、検査を受けた福島県民198,676名に関して、基準値を超える住民の数を102名に減らしていた。
福島県は、原発周辺の12の市町村を対象にして、住民の外部被曝に対する推定値を示しており、その推定値が0.84mSvから19mSvの間にあり、飯舘村で最大であったと述べていたが、ジャパン・タイムズ紙は、危機の後しばらくしてから、避難することを決定したことが遅すぎた決断であったと結論付けていた。
被曝によるものではないが、2013年3月時点で施設における25,000名の作業員のうち、7名の死亡が確認されていた。そして福島第一原発の事故による死亡者数は5名以下であり、汚染地域の避難による死亡者数は40名から50名の間であり、事故による深刻な負傷者や20mSv以上の被曝による負傷者の数は20名以下であり、軽度の負傷者や20mSv以下の被曝による負傷者の数は100名以上1,000名以下であり、居住地を移動した人々の数は20,000名以上50,000名以下であった。
20mSvの基準値は、緊急事態を除くカテゴリーAの放射線業務従事者に対するフランスの労働法典(R4451-12条、R4451-13条、D4152-5条、D4153-34条)に基づく12ヶ月間連続で許容される実効線量の最大値であった。
60名に及ぶ寝たきりの人々が20km圏内の避難によって亡くなっており、2012年8月に公表された研究によれば、34名の主な死因が避難を強制されたことによるストレスであったことを示しており、多くの高齢者が生活環境の変化に悩んでいた。マルコム・グリムストンによれば、これらの知見はスリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故によって示されていた事実と一致していたが、この主張は甲状腺癌やリクビダートルに見られる死亡者数を除外していた。
他方で20km圏内の避難によって、約30,000頭の豚、約60,000頭の鶏、10,000頭以上の乳牛が放棄されていた。5月19日にレスキュー隊は、群れを成していた犬や猫を除いて、動物を救助するために避難区域に立ち入ることを許されていた。
3月27日にTEPCOは2号機の建屋のたまり水を分析しており、たまり水が29億Bq/ccに達しており、これはリアクター内を循環する水に含まれる放射性物質の1千万倍であることを示しているとしていたが、後にヨウ素134の測定値はその1000倍であったと訂正していた。そして日本政府のスポークスマンは、世論にパニックをもたらしたこの間違いについて、容赦できない不手際であったと言及していた。
枝葉末節にこだわった報道とは別に、このエピソードはTEPCOがそれまでに無視されていた水質や土壌の汚染の程度に意識を向けていたことを示しており、表面的には重要な問題を取り上げる方向性を示していた。
3月28日の発表によれば、土壌サンプルがプルトニウム238、239、240の存在を示しており、それは1945年から1964年までの核実験の結果堆積したものであるとされていたが、プルトニウム239や240に対するプルトニウム238の比率が高かったため、TEPCOによれば、それらは福島原発事故由来であるだろうと結論付けられていた。そして官房長官によれば、同位体の組成が3号機で用いられているMOX燃料と一致していたとの指摘があり、4月27日に公表された分析はそのことを確認していた。
3月13日に原発から2km圏内の空間線量率は平均値の約800倍であり、0.1mSv/hと測定されており、原発から数km圏内がすでにイエローゾーンであったことを含意していた。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会のジャーナリストによれば、2km圏内の測定値は10mR/hから100mR/hであり、それは0.1mSv/hから1mSv/hを示していた。
IRSNは、3月12日の爆発が多量の放射性物質を放出したことに対する懸念を示していたが、日本の首相によれば、それらが大量であることを示す証拠はなく、チェルノブイリ原発事故とは根本的に異なるとされ、NHKの英語放送によれば、0.17mSv/hの空間線量率が原発の北西30km地点で測定されていた。
チェルノブイリのプルームがフランスに最初に到達したときに0.6Bq/m³から4.2Bq/m³と測定されていたことを比較の対象にすると、群馬の高崎観測所によれば、3月15日に15Bq/m³に及ぶ放射性核種が検出されていた。東京では100Bq/m³以上の放出に対応する0.809µSv/hの空間線量率が一時的に検出されており、神奈川では通常の9倍の放射性物質が検出されており、千葉では10倍であった。そして夜まで続いた北部から北西部へのプルームの流入が東京周辺を放射性物質で汚染しており、汚染は通常の10倍の約0.3µSv/hに達していた。
IAEAのチームによれば、3月24日に浪江町で161μSv/hの空間線量率が記録されていた。この空間線量率で25日間被曝した住民の累積被曝線量は100mSvであり、世界で一番自然放射線量が高いイランのラムサールにおける140µSv/hと比較されることがあったが、クリラッドは被曝する可能性がある住民の防護のために警告を発していた。そして外的には皮膚や髪を通じ、内的には空気の吸入や消化を通じた被曝を考慮しており、大気に混じった放射性物質は風に乗って仙台や東京よりはるかに遠い地域に拡散していった。
3月21日に、南西方向の弱風によって、東京の大気中におけるヨウ素131による汚染のレベルは15.6Bq/m³に達し、セシウム137による汚染のレベルは6.6Bq/m³に達していたが、汚染のピークは3月15日であり、ヨウ素131は241Bq/m³であり、セシウム134は64Bq/m³であった。
クリラッドによれば、IRSNによる報告は実際の汚染のレベルを過小評価しており、それは、IRSNによって採用された検出技術が気体化したヨウ素を検出できず、気体化したヨウ素が福島原発から放出された汚染物質中に存在する放射性ヨウ素の大部分を占めていたことを理由にしていた。クリラッドはエアロゾルの分析が実際の大気中の放射性物質の量を過小評価していると考えていた。
TEPCOの分析によれば、4月6日から28日にかけてエアロゾル中の放射性物質が安定的に減少していたが、11月から12月にかけてヨウ素131が日本の複数の県で検出されていた。ヨウ素131はすぐに崩壊してしまうため、このウランの核分裂生成物である放射性同位体の存在は、原発で再臨界が生じていたことを示唆していた。
長期的に、放射性核種は太平洋の中央や南太平洋の西部にまで広まると考えられており、最大で10年から20年間残存する可能性があり、大西洋の南部はその拡散の影響を逃れるだろうと考えられており、日本原子力研究開発機構によれば、3月21日から4月30日までに15TBqのセシウム137やヨウ素131が太平洋を汚染しており、その希釈は2018年までかかるだろうと考えられていた。
ジャン・クロード・ゴデによれば、汚染地域は20km圏外に広がっており、日本政府が数十年にわたってその汚染を管理する必要があり、大気の状態に基づくと、汚染地域は数百km圏に拡大しているだろうとの指摘が存在していた。そして放射性物質による汚染は数世紀にわたる問題を残すだろうとの指摘が存在していた。
原発の北西部40km地点における土壌サンプルは、セシウム137による16.3万Bq/kgに及ぶ深刻な汚染を示しており、これはイエローゾーンが30kmの避難区域外に拡大していたことを示していた。
3月12日の朝に避難区域は10km圏に拡大し、45,000名の住民に対して避難指示が出されており、3月12日の夜にそれが20km圏に拡大し、IAEAによれば、10km圏内の30,000名以上と20km圏内の約110,000名が避難を行なっていた。マリー=ピエール・コメによれば、避難区域が70km圏に拡大する可能性が存在していた。3月25日に日本政府は30km圏内から避難することを指示していたが、リスクに対する同心円状のアプローチは実際の放射性物質の分布を反映していなかった。
文科省によれば、100km圏内に関して30ヶ所以上の敷地が148万Bq/m²以上のセシウムで汚染されていたことが指摘されており、その地域に居住することはチェルノブイリでは許されていなかった。また132ヶ所の敷地が55万Bq/m²以上のセシウムで汚染されており、それはチェルノブイリにおいて自主的な避難や農業の禁止を促すための基準値であった。しかしこのレポートは避難区域に関する新たな情報を与えるものではなかった。
経産省による除染の方針は2年間で汚染の50%から60%を減少させることを目標にしていたが、それはセシウム134の半減期と一致した削減目標であり、その目標の効果に対して、ジャパンタイムズ紙は懸念を示していた。
世田谷のようなホットスポットに関して、放射性セシウムをケルヒャーによって洗浄することは完全ではなく、洗浄されたセシウムの一部は大気中に再び戻り、土壌や排水口を汚染していた。また11月に田中俊一は日本政府が立入禁止区域を除染する手順を示していなかったことを批判しており、住民が立入禁止区域に帰還するタイムテーブルも存在していなかった。
ノータムによれば、原発から20km圏内の航空交通は制限されており、3月16日に多くの大使館が自国民を避難させるための勧告を出し、突発的なパニックに対する懸念を強調していたが、日本政府は東京に在住する日本人に対する避難の手順を考慮していなかった。
イギリス政府内で交わされた電子メールによれば、フランス電力会社、アレバ社、ウェスティングハウス社からの援助によって、世論に対する福島原発事故の影響を最小限に抑えることが確認されており、新たに原発を建設する協定に署名する準備が行われており、アンディ・マイルズは当時のエネルギー・気候変動大臣のクリス・ヒューンに辞任を求めていた。
前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランスのWikipediaの「福島原発事故による公衆衛生に対する影響」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。
福島原発事故による公衆衛生に対する影響
2011年3月11日にマグニチュード9の地震が東北地方の太平洋沿岸を被災させ、福島原発事故をもたらしていた。原発のプラントは損傷を受け、冷却システムが故障し、原子炉格納容器が破壊され、封じ込めに失敗し、放射性物質が全部ではないにせよ大気中に放出されていた。この事故は日本の公衆衛生に対して甚大な影響をもたらしていた。さらに海洋への放射性物質の放出が国際的な懸念材料になっていた。
日本の原子力安全委員会の推定によれば、この事故はチェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質の10%と同量の放射性物質を放出していた。ヨウ素131は1.3×1017から1.5×1017Bqの間(チェルノブイリでは1.8×1018Bq)、セシウム137は6.1×1015から12×1015Bqの間(チェルノブイリでは8.5×1016Bq)であった[1]。20km圏内では約11万名の人々が避難していた。
1 放射性物質の放出の影響
福島原発事故は1986年のチェルノブイリ原発事故以来世界で最悪の原発事故であるとメディア上で考えられていた[2][3][4]。
日本の原子力安全委員会の推定によれば、この事故はチェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質の10%と同量の放射性物質を放出していた。ヨウ素131は1.3×1017から1.5×1017Bqの間(チェルノブイリでは1.8×1018Bq)、セシウム137は6.1×1015から12×1015Bqの間(チェルノブイリでは8.5×1016Bq)であった[1]。20km圏内では約11万名の人々が避難していた。
同様の放出量に言及しているクリラッドは、チェルノブイリ原発の放出量や福島原発の真の放出量が何であれ、上記の推定値は迅速に住民を防護するために十分な意味を有していたと考えていた[5]。
医師であるミシェル・フェルネックスは「チェルノブイリ以上に福島では汚染された地域において数多くの遺伝子の損傷が存在している」と述べていた[6]。
UNSCEARの委員長は、福島がチェルノブイリ[7]と異なるのは放射性物質の放出量が少量であり、風がプルームの大部分を海洋上へ押し流していたことを考慮しながら、健康に対する影響を検討していた。
しかしながら多くの科学者たちは公式に発表された推定値やUNSCEARの委員長の見解を信じることはなかった。たとえばオーストリア気象地球力学局は、事故が生じてからの10日間における放出量が同じ期間のチェルノブイリと比較するとヨウ素131がその73%前後でセシウム137がその60%前後であったと推定していた[8][9][10]。同様にオーストリアのレポートに言及している憂慮する科学者同盟(UCS)は、災害と呼ぶことが明白である原発事故の影響は健康に対して深刻で受け入れがたいものであり、格納容器が破壊されていなくても、放射性物質の膨大な放出は起こり得ることを指摘していた[11]。
さらに2011年6月1日にその測定結果が、1号機周辺がチェルノブイリのデッドゾーンと同様の汚染レベルに達していたことを示していた[12]。
4月初旬に原発事故の社会経済的影響はさらに痛ましい状況を示していた[13]。プラントから20km圏内の避難区域の住民は避難しており、20kmから30km圏内の住民は屋内退避しているか「自主避難」していた[14]。他方で環境汚染によって多くの県(特に首都の北西部)で牛乳・乳製品、他の農産物、海産物を出荷制限しなければならなかった。その後不安から卸売業者や消費者はそれらの地域からの農産物を避け、そのことは農家の生活手段を奪っていた[15]。福島原発から最も近い市町村(特に飯舘村)では、住民は国からの援助や最終的な退避勧告を待ちながら数週間生活することになっていた[16][17]。4月11日に退避勧告が出され、その後住民は福島から「離れる」ことになった[18]。
2 避難区域の生活
2.1 人間に対する影響(経過)
3月12日にTEPCOは福島第一原子力発電所の2名の社員が行方不明であることを発表していた[19]。彼らは地震直後に4号機のタービン建屋を点検しに行っていた。彼らの遺体は4月3日に発見されていた[20][21]。福島原発では4名の社員が地震によって負傷していた[22]。福島第二原発ではタワークレーンの事故で協力会社に所属する1名が亡くなっており、1名が軽傷を負っていた[23]。
2011年3月12日に危険に晒されていた複数の自治体が避難していた。
3月12日に福島第一原発で、1号機で作業していた作業員(TEPCOは格納容器内の圧力を低下させようとしていた)が106mSvの被曝をしていた[24]。午後に1号機の上部で爆発が生じたことによって、2名の社員と2名の協力会社の社員が負傷していた[25]。
3月14日の月曜日にTEPCOは、午前遅くに3号機の爆発によって7名が行方不明になり、その内6名が自衛隊員であり、3名が負傷していたと発表していた[26]。行方不明者はその後発見され、人数の詳細に関して、11名が負傷しており、その内4名が社員であり、3名が協力会社の作業員であり、4名が自衛隊員であったことが確認されていた[22]。3月12日の午前中に日本政府は危険ゾーンにおける放射性物質による汚染の可能性をスクリーニングする措置を講じていた。住民はガイガーカウンターで検査され、必要ならば除染処置を施されていた。2011年3月15日にIAEAは、約150名の人々がすでに検査を受け、23名について除染処置を施さなければならなかったことを報告していた[27]。検出された被曝は30,000cpmから100,000cpmのオーダーであった[28]。
日本政府は除染の基準を短時間で処理しなければならなかったので、これらの基準値は注意深く解釈される必要があった。たとえば大熊町の検査センターでは被曝の基準値は当初は6,000cpmに設定されていた。検査を受けた162名の内、41名がこの基準値を超えており、理論的には除染処置を施す必要があった。それゆえ除染処置を施すために実際に適用された基準値はその2倍以上の13,000cpmに引き上げられ、そのことは除染処置を施す必要がある住民の数を5名に(41名の代わりに)減らすことを許容していた[29]。3月20日に日本政府は除染処置を施すための基準値を100,000cpmにすることを公式に表明しており、それは当初の数字の16倍であった。100,000cpmにかさ上げされた基準値に基づき、6月8日までに検査を受けた福島県民198,676名に関して、わずか102名しか基準値を超えておらず、彼らは靴を履いていたので、靴を脱ぐと、除染の基準値を超える住民は1名も存在していなかった[30]。
その後3月17日の官房長官記者会見の後に、IAEAは被曝した人々のリストを明らかにしていた[31]。17名の作業員、2名の消防士、2名の警官がわずかに被曝しており、特に1名の作業員が高い線量の被曝をしていた(3月12日に炉内の圧力を低下するために106mSv被曝をしていた)。3月22日から23日までに電源を回復するために作業していた2名の技術者が相次いで負傷していた[32]。3月24日の木曜日には新たに深刻な被曝が生じていた。3号機タービン建屋で作業していた3名の協力会社社員が線量計のアラームを無視しており、170mSvから180mSvの被曝をしていた(胸部の線量計によって与えられる全身に対する計測値)。3名のうち2名の両足に熱傷の症状が見られていた。彼らは深さ17cmの高い線量の汚染水の中で作業しており(3.9×106Bq/cm³であり、表面では400mSv/hであった)、汚染水は靴の中に入り込んでいた[33][34][35]。両足に対する被曝は2Svから3Svと推計されていた[36][37]。彼らは千葉にある放射線医学研究所に搬送され、3月28日に退院していた[38]。
日本の専門医は被曝の可能性に対する予防として福島の作業員の造血幹細胞をストックしておくことを求めていた[39]。3月11日から25日までにTEPCOは25名の負傷を発表していた[40]。2011年4月12日に原子力安全委員会は21名が100mSv以上の被曝をしていたことを公表していた[41]。
4月12日に、避難すること決定し、村を離れることにした飯舘村の最高齢の方が102才で自殺していた[42][43]。原発事故と関連している他の自殺者は2名の農家を含み、そのうちの1名は遺書を残していた。「私は原発がなくなることを望んでおり、疲れ果てていた。」[44] 川俣町から避難していた女性は避難生活に疲れ切っていた[45]。より一般的に言えば日本は原発事故や津波の結果として[46]自殺者数が著しく増加することを恐れていたが、その恐れは不幸にも現実のものとなっていた[47]。
2011年4月28日にTEPCOは作業員が17.55mSv被曝していたことを発表していた(女性に対する線量限度は3ヶ月で5mSvであった)[48]。5月後半に2名の作業員が甲状腺にヨウ素131が蓄積していることが指摘されていた。それぞれ9,760Bqと7,690Bqであった。
2011年12月13日に福島県は事故後4ヶ月間における外部被曝に関する研究結果を公表していた。これらの結果は、原発の10kmから50km圏内にある浪江町、飯舘村、川俣町に居住している1,727名に基づいていた[49]。住民の97%を占める1,675名が5mSv以下の被曝をしており、そのうちの住民の63%を占める1,084名が1mSv以下の被曝に留まっており、1mSvは日本政府が定めた基準であった[49]。原発で作業している5名を含む9名が10mSv以上被曝していた(最大で37mSvであった)[49]。福島県立医科大学副学長である山下俊一によれば、これらの地域の住民の大半は健康にほとんど影響がなく避難を必要としていない線量しか被曝していないとされていた[49]。彼は、ヨウ素の影響について確認しておらず、長期にわたる健康管理調査を行うつもりであり、そこに甲状腺の検査が含まれていた[50]。さらに福島県は、原発周辺の12の市町村を対象にして、天候や避難日に基づく、住民の外部被曝に対する推定値を示しており、場所に依存する推定値は0.84mSvから19mSvの間にあり、飯舘村で最大であった。ジャパン・タイムズ紙は、危機の後しばらくして村から避難することを決定したことが遅すぎた決断であったと結論付けていた[51]。
2.2 被害を被った人数
2013年3月の時点で施設における25,000名の作業員のうち、7名の死亡が確認されており、それは電離放射線による被曝によるものではなかった[52]。
すべての原因はリアクターにおける事故と関連しており、ただ単に人工放射性物質と関連している訳ではなかった。
福島第一原発の事故による死亡者数は5名以下であった。
汚染地域の避難による死亡者数は40名から50名の間であった。
福島第一原発の事故による深刻な負傷者や高い線量(20mSv以上(1))による負傷者の数は20名以下であった。
福島第一原発の事故による軽度の負傷者や低い線量(20mSv以下(1))による負傷者の数は100名以上1,000名以下であった。
福島第一原発の事故により居住地を移動した人々の数は20,000名以上50,000名以下であった。
(1)20mSvの基準値は、緊急事態を除くカテゴリーAの放射線業務従事者に対するフランスの労働法典(R4451-12条、R4451-13条、D4152-5条、D4153-34条)に基づく12ヶ月間連続で許容される実効線量の最大値であった。
60名に及ぶ寝たきりの人々が20km圏内の避難によって亡くなっていた[53]。
2012年8月に公表された研究は、避難を余儀なくされたことによるストレスが34名の死亡に関する主な原因であることを示しており、多くの高齢者が生活環境の変化に悩んでいた。英王立国際問題研究所研究員であるマルコム・グリムストンによれば、これらの知見はスリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故によって示されていた事実と一致していた。甲状腺癌やリクビダートルに見られる死亡者数を除外するならば、住民に対する影響は、統計的に明らかにすることが困難であるとの見方がある癌のリスクに対して統計的な有意を示すほど存在しておらず、他方で事故の状況によって引き起こされた心理的な変化に対して存在していた。彼によれば「もし採用されるアプローチに問題が生じない(例えば原発事故に関する詳細な情報を住民に周知徹底させる)との確証があるならば、安定ヨウ素剤が利用可能なときには、強制避難を行わない選択肢も存在していた。」[54]
2.3 被害を被った動物の数
20km圏内の避難は数千頭の動物、特に牛や他の家畜(例えば豚や鶏)を放棄することを伴っており、水も飼料も残されていなかった。約30,000頭の豚、約60,000頭の鶏、10,000頭以上の乳牛が放棄されていた。2011年5月12日の木曜日に日本政府は、農家の同意を取り付けることに対する補償と引き換えに、動物が避難区域で屠殺されることを求めていた[55]。5月19日にレスキュー隊は、群れを成していた犬や猫以外の動物を救助するために、避難区域に立ち入ることを許されていた。
3 放射性物質のレベル
3.1 敷地内部における放射性物質
地震の翌日、TEPCOによれば0時00分の時点で空間線量は通常のままであったが、4時40分の時点で上昇していた[56][57]。15時29分に、1号機から何度か蒸気を放出した後、線量は敷地の北西部において1015μSv/hに達していた[58][59]。その2日後、測定地点での空間線量は概して数十μSvのオーダーのままであったが、突如として上昇していた[60][61]。
1回目に4号機建屋で午後6時に、次に2号機の建屋で午後6時14分に、立て続けに生じた2回の爆発の後、3月15日に状況が突如として悪化していた。正門前の空間線量率は午前6時の73μSv/hから午前7時の965μSv/hに上昇し、午前9時に11900μSv/hに達していた。敷地内部では2号機と3号機の間の空間線量率が午前10時22分に30mSv/hに達しており、4号機周辺では100mSv/hに、3号機周辺では400mSv/hに達していた[62]。総員が退避することになったが、フクシマ50と呼ばれるごく少数の作業員のみが現地にとどまっていた[63]。
日本では緊急時における原発作業員の被曝限度は100mSvであった[64]。3月15日に敷地で作業し続ける「リクビダートル」に対して、日本政府はこの限度を例外的に250mSvにまで引き上げていた[65][66]。3月21日にICRPはこの放射線緊急事態に対して勧告を出しており、参考レベルは500mSvや1000mSvにまで引き上げられる可能性が存在しており、放射線防護のために自発的に示された線量限度は存在していなかった[67]。
3月15日に敷地内の放射性物質に関する状況は劇的に変化していた。測定地点での空間線量率のオーダーは数十から数百μSv/hであったが、突如として正門前で3月15日23時10分に6960μSv/hになり、3月16日12時30分には10800μSv/hを超えていた[68]。危機を過ぎると、状況は徐々にコントロールされるようになり、放射性物質の突発的な放出はしだいに稀になっていたが、その放射性物質は永続的に残されることになった。その測定地点は2号機の北西500mに位置していた。3月17日から21日にかけての空間線量率は3500μSv/hから4200μSv/hの間の値から2000μSv/hへと徐々に減少していた[69]。数日の中断を経て、この地点における測定は再開されていた(測定地点はわずかにずらされることになった)。3月26日に空間線量率は1400μSv/hであり[70]、3月31日に1000μSv/h以下になり[71]、4月17日には500μSv/hをわずかに上回る程度に変動していた[72]。敷地内の複数の測定地点における測定値は同様に減少しており、4月9日の測定値は北部の13μSv/hから南西部の252μSv/hの間に存在していた[74]。それらに対する分析はリアクター周辺におけるmSv/hの単位を超える空間線量率を示しており、がれき周辺では300mSv/hにまで達している可能性が存在していた。
3月19日にTEPCOは福島原発に電力を回復する作業を始めており[75]、作業員が徐々に帰還していた。3月24日に協力会社の社員である3名の作業員が3号機タービン建屋にケーブルを敷設しており、水深15cmの水たまりに両足が浸かっていた。彼らは、この水たまりが高度に汚染されていることに気がついておらず、線量計のアラームを無視していた。彼らは170mSvから180mSvの線量を被曝しており(胸部の線量計が示していた値)、彼らのうち2名に対して両足に熱傷の症状が見られており、装備に対する不手際で靴の中に水が入り込んでいた(ブーツが上まで上げられていなかった)[33][34][35]。後日になって両足に被曝した線量が2Svから3Svであることが確認されていた[36][37]。
事故の後TEPCOはこの建屋や他の建屋のたまり水を分析していた。3月25日にTEPCOは3号機タービン建屋のたまり水が390万Bq/ccに達していたことを公表していた[76]。3月27日にTEPCOは2号機に対しても同様のことを行っていたが、分析に失敗し、水の表面で1000mSv/hが検出され、たまり水が29億Bq/ccに達していたことを公表していた(この数字は後に訂正された)[77]。この結果に基づいて、TEPCOは、これが「リアクター内を循環する水に含まれる放射性物質の1千万倍であること」を示していることを公表していた[78][79]。この発表はすぐに世界中に広まり、メディアは「放射性物質の拡散と避難が福島を覆っている」との見出しを打っていた[80][81]。後にTEPCOはヨウ素134の測定値はその1000倍であったと公表していた[82]。日本政府のスポークスマンは、世論にパニックをもたらしたこの間違いについて「容赦できない不手際」であると言及していた[83]。
枝葉末節にこだわった過剰な報道とは別に、このエピソードはTEPCOがそれまでに無視していた水質や土壌の汚染の程度に意識を向けていたことを示していた。これは意味のある兆候であり、表面的には重要な問題を取り上げる方向性を示していた[84]。
3月27日にTEPCOはタービン建屋にたまっている水面上の空間線量率を計測していた。TEPCOは1号機建屋で60mSv/h、3号機建屋で750mSv/h、2号機建屋で1000mSv/h以下であることを確認していた[85]。最後のケースでは正確な値は実際には分かっていなかった。多くの尺度の計測器に囲まれている中で、TEPCOの社員は異なった調整に基づいた計測を繰り返すことなく計測を即断していた[86]。
同じ日の15時30分にTEPCOの社員は、リアクターの外に設置され、水があふれているケーブルやパイプが埋め込まれているトレンチの中の水面の放射性物質を測定しようとしていた。1号機の周辺で作業員は0.4mSv/hの空間線量率を確認していた。2号機タービン建屋地下のたまり水では空間線量率はその2500倍で1000mSv/hであった。アクセスを遮っていた瓦礫(高濃度の放射性物質)を理由にして、3号機では空間線量率を測定することができなかった[87][88]。
汚染水を排水し、海に汚染水が流出することを防止することが主な課題であったので、これらの結果は危機の帰結に対して大きな影響を及ぼしていた。3月29日にNHKは、地上開口部からトレンチまでの水位が1号機では10cmであり、2号機や3号機では1mであることを報じていた[89]。4月19日にTEPCOは、敷地内にある処理しなければならない汚染水が約67,500トンに及ぶだろうと推計していた[90]。
一方、土壌サンプルが3月21日と22日に異なった5個所からTEPCOによって収集され、分析のために研究所に送られていた[91]。分析の結果は3月28日に公表され、プルトニウム238、239、240の存在を示していた。それは非常に微量(1Bq/kg以下)であり、日本各地に見られるプルトニウムの濃度のオーダーであった。このプルトニウムは1945年から1964年までの核実験の結果堆積したものであり、健康に対して危機的な状況をもたらすものではなかったとされていた[92]。
しかしTEPCOは同位体の比率が核実験の影響によって観測される比率と異なっていたことを指摘していた。そこではプルトニウム239や240に対するプルトニウム238の比率が非常に高かった。TEPCOは検出されたプルトニウムはおそらく福島原発事故由来であるだろうと結論付けていた[93]。他の分析も同様の結論を示していた[94][95]。4月22日に官房長官である枝野幸男は、プルトニウムの同位体の組成が3号機で用いられているMOX燃料と一致していることに言及し[96]、そのことは4月27日に公表された分析によって確認されており、その分析はプルトニウムのみならずアメリシウムやキュリウムの同位体も同様に考慮していた[97]。
4月18日にTEPCOはアメリカの企業から貸し出されたロボットによってリアクターの内部にある放射性物質のレベルを測定することをようやく可能にしていた[98]。測定された空間線量率は1号機の建屋内で10mSv/hから49mSv/hで、3号機の建屋内では28mSv/hから57mSv/hであった[99][100]。このような測定値は発電所内で作業するには非常に高いものであった。25mSv/hで被曝すると、作業員は日本政府が定めた250mSvの線量限度にわずか10時間で達し、40時間でICRPが許容した線量限度である1000mSvに達することが指摘されていた。
2011年8月にTEPCOは10Sv/hもしくは致死的な空間線量率を示すさまざまなホットスポットを敷地内で発見していた[101][102]。
3.2 敷地境界部での放射性物質
2011年3月17日に日本の文科大臣は0.17mSv/hの空間線量率が原発の北西30kmの地点で測定されたことを公表していた(5日間で20mSvに達する空間線量率であり、20mSvはフランスの原発労働者に対して許容されている線量であった)[103]。2011年3月15日にTEPCOは8μSv/h以上の空間線量率であることを公表していた[104]。
3月14日(現地時間7時30分)の第22報の中で保安院は3月13日19時の測定値によって空間線量率が増加していることを確認していた(敷地境界に沿って測定車によって測定された値に基づいている[105])。福島第二原発において3月15日の19時に保安院は、敷地北部の境界におけるおよそ5400nGy/h(5.4μSv/h)といった測定値が、3月14日の19時に測定された6500nGy/h(6.5μSv/h)と比較すると、減少していることに言及していた。
外部の測定地点(福島第一原発の2号機の敷地境界の北西部)において空間線量率は231.1µSv/hに達していた(現地時間で3月14日の14時30分)[106]。
2011年3月13日に福島第一原発から2km圏内の空間線量率は0.1mSv/hと測定されており[107][108]、平均値の約800倍であった。そのことは原発から数km圏内がすでにイエローゾーンであったことを意味していた。
フランスの脱原発ネットワークによれば、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の6名のジャーナリストたちによって福島第一原発から2km圏内で行われた測定が10mR/hから100mR/h(0.1mSv/hから1mSv/h)を示しており、空間線量率が「劇的に増加」していた。
3月12日から始められた独自の測定は全域において高レベルの空間線量を示しており、原発から2km圏内では1mSvに達していた[110]。フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)は「2011年3月12日の土曜日に1号機の建屋に関連した爆発によって、非常に多量の放射性物質が放出され、爆発のときに敷地境界における空間線量率は1mSv/hに達しており、12時間後に空間線量率が0.040mSv/hになっていた」ことを懸念していた。
リアクターが冷温停止したと報じられた後、2012年4月以降にTEPCOは漸く敷地外部の空間線量率を1mSv/年以下に抑えることを可能にしていた[111]。
3.3 敷地外部の放射性物質のレベル
3月13日の21時45分に、IAEAは、日本政府によれば、福島第一原発からのフォールアウトが、13時55分に確認された女川原発周辺で許容されているレベルを超える放射性物質の測定値をもたらしていることを示していた[113]。それは方向と速さの観点から放射性物質の拡散を最初に示したものであったかもしれなかった。女川原発は福島第一原発の北部から北東部に位置していた。
日本の首相である菅直人によれば「放射性物質が大気中に放出されたが、それらが大量であることを示す証拠はなく、チェルノブイリ原発事故とは根本的に異なっていた」[114]。NHKの英語放送によれば、日本の文科大臣が0.17mSv/hの空間線量率が原発の北西30km地点で測定されていたと述べていた。他の測定値は0.0183mSv/hから0.0011mSv/hの間(約1µSv/hから18µSv/h)であることを示していた[115]。
3月15日に福島原発の南西250kmに位置する群馬の高崎観測所は、15Bq/m³(比較の対象としてチェルノブイリのプルームがフランスに最初に到達した1986年5月3日に0.6Bq/m³から4.2Bq/m³が測定されていた)に及ぶ、ヨウ素131を含む、多量の放射性核種を検出していたことを示す非公開のレポートを出していた。3月15日の13時40分に東京では放射性物質のレベルの上昇が検出されていた。0.809µSv/h(これは100Bq/m³以上の放出と対応している[116])が検出された後、17時40分に0.075µSv/hになり[117]、後者の値はパリで測定された大気中の放射性物質の測定値に近かった[118]。
首都の南西に位置する神奈川では通常のレベルの9倍の放射性物質が検出されていた[119]。3月15日の18時11分に千葉で検出された放射性物質のレベルは通常の10倍であった[117]。夜まで続いた北部から北西部へのプルームの流入が、さらに悪化させることになるのだが、東京や東京周辺の地域を放射性物質で汚染していた[120]。東京における放射性物質による汚染は通常の10倍に達し[121]、約0.3µSv/hであった。
東京における環境中の放射性物質はその影響の点で深刻なほど重大なレベルではなかった。東京都は3月15日における放射性物質の濃度がピークのときに放射性物質のレベルが0.809μSv/hであることを公表しており、通常の測定値は0.035μSv/hから0.036μSv/hであった。自治体の担当者は「私たちはすぐに人体に影響するほど深刻で重大なレベルではないと考えている」と述べていた[122][123]。
2011年3月24日にIAEAのチームが原発の北西30kmに位置している浪江町(福島県)で161μSv/hの空間線量率を確認していた[124]。この空間線量率で5日間被曝した住民の累積被曝線量は、フランスの原発労働者が1年間に許容されている被曝限度である20mSvと同等であった。この空間線量率で25日間被曝した住民の累積被曝線量は100mSvの被曝限度に達しており、疫学的研究によれば[125]、100mSvの累積被曝線量は癌の死亡率を0.5%を増加させることに対応していた。低線量の放射線についての論文によれば、このレベル(140µSv/h)はイランのラムサールのような自然放射線量が高い地域の住環境と比較され、ラムサールは世界で一番自然放射線量が高い地域であった。
しかしながら3月30日にクリラッドは放射性物質によって被曝する可能性がある住民の防護のために警告を発し、日本政府に住民を「20km圏外」に避難させることを求めており[126]、もし数週間の被曝を考慮するなら、原発の100km圏外でもその空間線量率を超える場所があることを推計していた。クリラッドは実際の被曝線量を明らかにするためにはそれらの空間線量率は役に立たないと考えていた。そして外的には皮膚や髪を通じ、内的には空気の吸入や消化を通じた被曝を考慮していた。大気に混じった放射性物質は風に乗って「仙台よりはるかに遠く」また「東京よりはるかに遠い」地域に拡散していった。
4月6日に憂慮する科学者同盟(UCS)はアメリカの上院議員を前にして、オーストリアの気象地球力学局が、チェルノブイリ原発事故によるセシウム137の放出量の約80%が福島原発事故によって放出されており、そのセシウム137は事故直後の1週間において原発の敷地内に存在していたと推定していたことを示していた。これは損傷を受けた3機のリアクターの内部にあるセシウム137の10分の1であった。そして結論において、憂慮する科学者同盟(UCS)は、懸念されていた重大な汚染が日本政府によって設定された20km圏内を超えて検出されていたことを示していた。さらにこれらの地域の住民はICRPによって勧告されている年間の被曝限度を1週間で被曝していた[11]。
3.4 汚染水の貯蔵
1ヶ月間のリアクターの冷却に由来する約60,000m³の汚染水が再利用され、それらを貯蔵するための敷地が不足しており、それらを準備することを待機する状態であった。一部の人々は、汚染水中のヨウ素やトリチウムが野外で貯蔵された場合に、環境を汚染する可能性があることをを危惧していた[127]。4月7日にメディアは、タンカーや「すずらん」と呼ばれるロシアのウラジオストクで原子力潜水艦を解体するための放射性廃棄物処理施設(1990年代の後半に日本で建造された)の使用の可能性に言及していた[127]。
3.5 放射性物質による大気汚染
影響を受けた地域は、放射性物質の放出量、放射性物質が分布する状況(Bq/m³で示される)に影響した風向や風力に依存していた。東京で収集された大気中の塵に対する東京都立産業技術研究センターによる測定はヨウ素131、ヨウ素132、セシウム134、セシウム137を検出していた。そして以前から大気中に存在していた放射性核種はセシウム137のみであり、チェルノブイリ原発事故や核実験によるものであった[128]。
3月21日の月曜日の現地時間における8時から10時にかけて放射性物質のレベルが減少傾向にある一方、東京の大気中におけるヨウ素131による汚染のレベル(15.6Bq/m³)やセシウム137による汚染のレベル(6.6Bq/m³)は、3月16日の水曜日の18時に示されていた測定値よりも上回っていたことが指摘されていた。しかし汚染のピークは3月15日の火曜日であり、ヨウ素131は241Bq/m³であり、セシウム134は64Bq/m³であった[129]。
3月21日に、南西方向の弱風が福島の放射性物質を、沿岸部を経由して、東京、神奈川、千葉に流出させていた[130]。放射性物質の飛散に対する国際的な影響は、(3月24日以降に到達していた)アメリカやヨーロッパに対して非常に低いレベルであった(いかなる危機的な状況をも引き起こすものではなかった)[131]。
しかしながら独立系組織であるクリラッドのディレクターは「IRSNによって報告された結果は実際の汚染のレベルをおそらく過小評価しているだろう」と考えていた[132]。実際クリラッドによれば、IRSNによって採用された検出技術は「気体化したヨウ素を検出できず」、気体化したヨウ素は「福島原発から放出された汚染物質中に存在する放射性ヨウ素の大部分」を占めていた。
3月29日の20時にIRSNはフランスでの放射性物質の測定結果を公表しており、それは福島原発由来の放射性核種の存在や明白に降雨に関連したヨウ素131の増加を示していた[133]。最も高いレベルはパリから19kmの地点であるル・ヴェジネで指摘されていた。3月27日にそこで0.51mBq/m³の気体化したヨウ素131や1.73Bq/Lの雨水に含まれるヨウ素131が検出され、同様に2.17Bq/kgの野菜(葉物野菜)が検出され、それは4Bq/m³の土壌汚染を理由にしていた。そしてこれらのレベルは健康に対する危機的な状況を示しているものではなかった。またセシウム137はまだ検出されていなかった。その反対にセシウム134がラウエ・ランジュバン研究所によれば3月26日にエアロゾル中で検出されていた(0.05mBq/m³)。しかしながらクリラッドはエアロゾルの分析が実際の大気中の放射性物質の量を過小評価していると考えており、そのレベルがサラダに用いられるほうれん草のような葉物野菜で急増するだろうと警告していた...。声明によれば[134]、2週間で蓄積したヨウ素131の影響は「数百Bq/m²(地表)、数千Bq/m²に達する可能性があり、好ましくない天候に遭遇すれば、大気中の放射性物質に対して想定されている以上に増加する可能性が存在していた。」 粒子の状態や気体の状態の双方におけるヨウ素131の分析によって、クリラッドは、アメリカでは3月20日から22日にかけてカリフォルニアやアラスカに達していた気体化したヨウ素の濃度が3倍から14倍に高まっていたことを観察していた。
大気や浮遊している塵に含まれる放射性物質に対するTEPCOの分析によれば、2011年4月6日から28日にかけてエアロゾル中の放射性物質が安定的に減少していることが確認されていた[135]。しかしながら2011年の11月[136]から12月にかけてヨウ素131が日本の複数の県で検出されていた[137]。ウランが核分裂して生成した放射性同位体の存在は、福島第一原発で再臨界が生じていたことを示唆しており、その理由としてヨウ素131がすぐに崩壊してしまうことが挙げられていた(その半減期は約8日)[138]。
3.6 放射性物質による地下汚染
2011年3月28日に日本の原子力安全委員会はTEPCOに対してタービン建屋地下の滞留水の中の放射性物質を測定することや、同様に地下水に対する汚染の可能性を調査するために建屋周辺の地下を調査することを要請していた。TEPCOは(2011年4月5日から)海洋汚染に関して地下水を調査しており(1週間に3回、3種類の核種を測定していた)、保安院の指示に応じていた(2011年4月14日)[139]。
6棟のタービン建屋周辺の地下で2011年4月に採取されたサンプルは、ヨウ素131、セシウム134、セシウム137を含んでおり[140]、セシウムについては[141]増加傾向であり、ヨウ素については[141]1.0E+03Bq/cm³(4月13日)に増加した後に横ばいになっていた。
3.7 放射性物質による海洋汚染
リアクターを冷却するために使用された水の一部は海水中に放出され[142]、健康への影響に対する懸念を生じさせていた。
3月21日に異常に高いレベルの放射性物質が福島原発周辺の海水中で検出され、TEPCOによれば、ヨウ素131やセシウム134は東京で定められた基準の126.7倍や24.8倍であった。さらにセシウム137の割合は通常の16.5倍であった。角田直樹(TEPCOのスポークスマン)によれば、その放射性物質のレベルは人間の健康に対する深刻な脅威ではなかったが[143]、環境や海洋生物に影響を及ぼすかもしれなかった。2011年3月22日にTEPCOは、福島第一原発に沿った海岸から100m離れた海水のサンプルの分析に基づいて、ヨウ素131の割合が日本政府によって定められた基準(0.04Bq/cm³)の126.7倍であったことを公表していた[144][145]。
3月22日の火曜日に福島第一原発周辺の海水の調査を行ったことがTEPCOによって公表されていた。ヨウ素131は基準の126.7倍のレベルであり、セシウム134は通常のレベルの24.8倍であった[146]。3月23日に海岸から30km離れた8つの地点について文科省によって調査が行われていた。海産物中の放射性物質が高い濃度であったために、漁業関係者はその活動を再開することができなかった。3月23日の水曜日に福島原発周辺の海岸から100m離れた地点での海水のサンプルは4Bq/cm³のオーダーのヨウ素131を示していた(日本の基準値の100倍であった)[147]。
2011年3月26日の昼に日本の原子力安全委員会は、TEPCOによってその前日に記録された原発の南放水口の下流におけるヨウ素131の割合を公表していた。50,000Bq/Lは海水中の法定基準値(40Bq/L)の1250倍であった。原子力安全委員会のスポークスマンは「もしあなたがこの濃度のヨウ素が含まれている500mLの水を飲むならば、1年間に吸収しても良い限度にすぐに達してしまい、この濃度は相対的に高いレベルになるだろう」と述べていた。ル・ポワン誌によれば[148]、セシウム137の濃度(半減期は30年)は法定限度の80倍であり、セシウム134はその117倍を超えていた[149]。バリウム140は基準値の3.9倍であった。
ヨウ素131の北部への放出がそれ以前の基準の283倍で検出されており、またセシウム134(基準の28倍)やセシウム137(基準の18.5倍)でも同様であった。放射性ヨウ素は藻類や海洋生物(特にムール貝やカキのような貝類)によって生体濃縮されやすかった。2011年3月27日に1号機から300m離れた海水中に放出された放射性物質のレベルは上昇しており、通常の1850倍の値に達しており[150]、さらに沖合では5日間で10倍以上の濃度に達していた。
10倍の許容限度を超えるヨウ素を除外すると、福島第二発電所から放出される前の3月25日に採取された海水中において放射性物質が微増していたことが観察されていた[151]。IRSNの専門家は「タンクローリーで保管することもできず、汚染水がそこにある限り、作業を再開することができないため、汚染水を処理することが非常に困難であり」、この汚染水がすでに「漏れ始めていた」ことに言及していた[152]。3月28日にフランスの原子力安全局(ASN)は、福島第一原発の北部の5号機や6号機から30m離れたところに法定基準の1150倍のレベルのヨウ素131を含んだ汚染水が存在していることを指摘していた[153]。1Sv/h以上の汚染水が2号機の「建屋の外部に延びている地下のトレンチの中に」検出されていた。TEPCOによれば、高レベル汚染水は建屋から60m離れた海水中へ流れているとされていた。しかし3月30日にリアクターから南へ300m離れた地点での放射性物質のレベルは基準値の3355倍に達していた。
3月31日における海水中の放射性物質のレベルは憂慮すべき状況を示していた。福島第一原発から南へ300m離れた地点で放射性ヨウ素に対する法定基準[154]の4385倍のレベルが測定されていた。
4月2日に文科省は、原発周辺の海水に対して、300GBq/m³といったヨウ素131の濃度が基準値の750万倍に達していたことを指摘していた。2011年4月5日にTEPCOは、海岸周辺の海水中で放射性ヨウ素(ヨウ素131)のレベルに関して1000mSv/hを検出したことを公表し、それは約5日間にわたって太平洋に約11,500トンの「汚染水」(通常の100倍以上)を放出することを開始したときであり、大量の汚染水を放出したことは貯蔵タンクの問題に対する解決策であった。4月4日にIRSNは海水に対する放射性物質の放出の結果に関する情報についての概要を公表していた。放射性核種の一部が可溶性である一方、他の一部はそうではなく、海底への堆積に関して、水との親和性によってサスペンジョンした粒子に対して放射性物質が付着していた[156]。IRSNは、ルテニウム106(Ru106)やセシウム134(Cs134)(プルトニウムの項を参照せよ、しかしながらそれらは2011年4月4日には沈着していた)によって長期間汚染されるであろう日本の沿岸部の堆積物に対する監視を求めており、それゆえ東日本の沿岸の海産物に対する付着に関して、海洋汚染同様に海産物に対する放射性物質を監視することを求めていた。事実、放射性核種の濃度は海水中で各種に対してさまざまな影響を及ぼしていた(例えば藻類は10000倍以上を濃縮していた)。
中期的に、北緯35度30分から北緯38度30分の間に位置している東日本の沿岸部が放射性核種の拡散によって影響されており、黒潮によってその北部はさらなる影響を受けていた。長期的に、放射性核種は太平洋の中央や南太平洋の西部にまで広まると考えられており、最大で10年から20年間残存する可能性があり、それは浮遊している時間を考慮に入れていた。そして大西洋の南部はその拡散の影響を逃れていた[157]。
2011年9月9日に日本原子力研究開発機構は3月から4月にかけての太平洋の汚染が3倍ほど過小評価されていたことを公表していた。2011年3月21日から4月30日までに15TBqのセシウム137やヨウ素131が太平洋を汚染しており[158]、モデルによれば太平洋での希釈は2018年までかかるだろうと考えられていた[159]。
4 食品や飲料水に対する汚染
4.1 放射性物質の堆積
30km圏内や圏外の地域が、風によって拡散した放射性物質によって汚染されていたことが確認されており、放射性物質は降雨によって地表にフォールアウトしていた。自発的な減圧や原因不明のリークを考慮すると、放射性物質のフォールアウトは無視できない規模であった。オーストリアの研究所で行われたシミュレーションによれば、3月20日は実際に東京や仙台に放射性物質が拡散したことによって特徴付けられており[160]、北から吹く大気の塊の変化や降雨がフォールアウトの原因であった。
フランスの原子力安全局(ASN)は、汚染地域が20km圏外に広がっているかもしれないことや日本政府が数十年にわたって地域の汚染を管理しなければいけないであろうことを想定していた。大気の状態に基づくと、汚染地域がおそらく数百km圏に拡大しているだろうといったことを、ASNのジャン・クロード・ゴデは示唆していた[161]。
放射性ヨウ素131は半減期が8日間しかなく、それによる汚染は数ヶ月で消えると思われていた。しかしながらセシウム137は半減期が30年であった。明らかに空間線量率は減少していくけれども、放射性物質による汚染は2、3世紀にわたる敏感な問題を残すことになるだろうと考えられていた。
日本政府は3月23日に、原発の北西部40km地点における土壌サンプルがセシウム137による16.3万Bq/kgに及ぶ非常に深刻な汚染を示していたことを指摘しており、それは非常に高い測定値であった[162]。これはイエローゾーンが30kmの避難区域外に拡大していたであろうことを示していた。
4.2 食料品に対する制限
食料品に対する暫定規制値はセシウムに対して500Bq/L、ヨウ素に対して2000Bq/Lに修正され、牛乳・乳製品を除外していた。それはセシウムに対して200Bq/L、ヨウ素に対して300Bq/Lであった[163]。
2011年3月19日の土曜日の朝に福島県産の牛乳のサンプル、茨城県産のほうれん草の6つのサンプルから非常に高い濃度の放射性物質が検出されていた[164]。日本政府が福島の農産物から通常のレベルを上回る放射性核種を検出したことによって、メディアは17時40分から22時にかけて住民に対して[165]乳製品、ほうれん草、野菜のような食料品について警戒し注意を払うことを促し、ある一定の被曝線量を考慮しながら、それらの野菜を洗浄することを促していた。
3月19日に茨城県の知事は原発から南へ80kmから120kmに位置する地域に対してほうれん草の出荷について停止することを命じていた[166]。原発から60km離れたところに位置している牛乳販売店は牛乳の配達を完全に中止していた[167]。
しかし報じられていた汚染は、健康に対する危機的な状況でないと規則で定められている線量限度のオーダーにとどまっていた。3月20日の日曜日にクリラッドはほうれん草のヨウ素131について15000Bq/kgの汚染を報じており、基準値(2000Bq/kg)の7倍以上であった。しかし3月18日に日立市(茨城県)においてそのレベルは54100Bq/kgに達しており、日本の基準値の27倍以上であった[168]。被曝線量のレベルについて、ほうれん草に関しては数回分の食事で十分であり、とりわけ子供に対してはそうであり、特に幼い子供についてはそうであり、1mSv/年の線量限度を超えていた。そしてその100倍以上の被曝線量は健康に対して統計的に有意な影響が観察されるための十分条件であった[169]。
3月21日の月曜日に日本政府は福島県産の生乳やほうれん草の出荷を禁止しており[170]、汚染の危険性を低減していた。3月22日にはブロッコリーのような他の葉物野菜の出荷も禁止していた。
18時40分にWHOのスポークスマンであるピーター・コーディングリーは、土曜日に日本で放射性物質が農産物から検出されたことは「非常に深刻」であり、想像されるように、20kmから30km圏内に制限されない問題であることを予想していた[171]。「私たちは当然のこととして汚染地域から汚染された農産物が流出していることを想定しなければならなかった。」
3月23日に日本の首相は福島周辺の4県からの農産物の出荷と消費を禁止し、その中にはほうれん草、ブロッコリー、キャベツやカリフラワーが含まれていた[172]。さらに食料品の検査が東京や東京周辺の10の県にまで拡大され、魚貝類に対する検査が公開されていた。
4月13日に菅直人は福島東部で椎茸を流通させることを禁止していた[173]。
7月26日に日本政府は放射性物質で汚染された稲わらで飼育されたと疑われる3,000頭の肉牛の肉を買い取り焼却する計画を発表していた[174]。20億円(17ユーロ)に及ぶこれらの対策はTEPCOによって支払いがなされる予定であった[174]。
3月23日に東京(江戸川)に集荷された小松菜は法定限度を超えるセシウムによって汚染されていた(500Bq/kgに対して890Bq/kgであった)[175]。
2011年12月22日に1540Bq/kgのセシウムを含む米が福島県内の市町村の集荷場で検出されていた。これは日本政府によれば500Bq/kgの暫定規制値を超える農産物において測定された最大値であった[176]。日本政府が汚染された食品の暫定規制値を引き下げることを発表し、米の暫定規制値が100Bq/kgにまで引き下げられたときに、これが検出されていた[177]。数日後農水大臣の鹿野道彦は福島県内の8つの地区で集荷された米の販売を禁止し、すべての米が汚染の上限を超えていた。農水省は農家から米を買い取ることを約束し、それは4,000トンに及ぶと推定され、少なくとも部分的にこれらの買い取りに資金を供出することをTEPCOに求めていた[178]。
2011年12月に厚労省は2012年4月からセシウムをさらに制限する新基準値を適用することを決定していた。そして乳児用食品や牛乳は50Bq/L、他の一般食品は100Bq/Lであった[179]。国際基準より10倍から20倍厳しい新基準値は、地方自治体が正確に測定できる機器を購入することを促していた[179]。
4.3 水道水の摂取制限
飲料水に対する暫定規制値はセシウムに対して200Bq/Lであり、ヨウ素に対して300Bq/Lであった[163]。この限度は原子力緊急事態における国際的な勧告や手続きに一致していた(最大で1年であった)[180]。2011年3月19日の土曜日以来、放射性物質が東京の水道水から検出されていた。
厚労省は地域の人々に対して放射性ヨウ素に汚染された水道水を摂取しないように勧告していた。東京の水道水も同様に低レベルの放射性ヨウ素を含んでいた[181]。
2011年3月23日に、都知事である石原慎太郎は東京の1歳未満の乳児に対して水道水を摂取しないように勧告していた。東京都水道局の担当者によれば、210Bq/kgのヨウ素131が都の中心街の水道水から検出され、日本政府によって定められた限度は乳児に対して100Bqであった[182]。3月28日に厚労省は日本全土の飲料水の水道事業者や工場に対して降雨後の表流水の取水を抑制し[183]河川からの取水を停止することを要請していた。3月27日以来、大気に晒されている貯水池が防水布によって覆われていた。
2011年12月に厚労省は2012年4月からさらにセシウムを制限する放射性物質に対する基準値を定めることを決定していた。それは国際基準より約10倍厳しい10Bq/Lであった[179]。
5 住民に対する防護措置
5.1 3km圏、10km圏、20km圏と広がった避難
TEPCOは日本政府に対して「15条通報」を行い、3月11日中に避難指示が出されていた[184]。そして3km圏内の住民が避難していた。
避難区域は3月12日の朝に10km圏に拡大していた[185][186]。土曜日の8時30分に[187]、首相である菅直人は福島第一原発周辺の45,000名の住民に対して原発周辺から速やかに離れるように指示を出していた。
避難区域は3月12日の夜に20km圏に拡大していた[188][189]。IAEAによれば、3月13日の5時10分に、10km圏内の30,000名以上が避難を行い、20km圏内の約110,000名が避難を行なっていた[191][192]。
避難区域が限定されており、3月15日の16時に[193]、1号機で爆発と火災が生じた後、菅直人はNHKを通じて屋内退避している福島の住民に対して、窓や扉のすき間をふさぎ、空調のスイッチを切り、マスクや湿ったハンカチで口を隠し、水道水を飲まないことを勧告していた[194]。
2011年3月16日22時にIRSNは何よりもフランス自国民に東京より南に避難する防護措置を促していた[195]。3月17日にASNのマリー=ピエール・コメは、事故が悪化した場合には、避難区域が最大で70km圏に拡大する可能性が存在していたと主張していた[196]。2011年3月25日に日本政府は(強制性を伴わせず)住民に対して30km圏内から避難することを促していた。したがって公的な汚染地域は30km圏をカバーしていた。しかしながらリスクに対する同心円状のアプローチは実際の放射性物質の分布を反映していなかった。
5.2 20km圏外への避難区域の拡大
4月11日に避難区域は原発から20km圏外の地域に拡大していた[197]。飯舘村が空間線量の高い地域であることを公表し、日本政府は、立入禁止区域の北西に位置する市町村や飯舘村を当初の避難区域に追加する指示を出していた[198]。避難区域を決定するために、日本政府は公衆の線量限度が年間1mSvであることを知りながら、20mSv以上を採用していた。計画的避難区域は原発の北西方向(高い汚染地域)に位置する5つの市町村を対象としており、浪江町、葛尾村、南相馬市、飯舘村、川俣町が挙げられていた[199]。これらの市町村の広がりに対応して、20km圏内を含むいくつかの地域ではすでに3月中旬までに避難が行われていた(例えば浪江町にとって原発までの距離は沿岸部の4km圏内から北西部の35km圏内とさまざまであった)[200]。これらの避難措置にもかかわらず、IRSNは、年間10mSvの限度を参照すると、5月24日の時点で避難すべき約70,000名の住民が避難していなかったことを指摘していた[201]。
4月22日に首相は、5月15日から31日にかけての[203]市町村による避難が[202]妊婦、子供、体が弱い人に対して優先的に行われることを確認していた。避難すべき10,000名に対して約6,000名がすでに避難していた。さらに原発から20kmから30km圏内にある広野町、楢葉町、川内村や田村市、南相馬市の一部の住民が避難の準備をすることを促されていた。3月末に日本政府は強制的ではないが住民が自宅待機することや避難することをすでに勧告していた。保安院は4月から年間被曝線量が10mSvから20mSvの地域で生活している人々に対して自宅待機することや避難することを勧告していた。4月22日から20km圏内の避難指示区域は立ち入りを禁止する警戒区域に変更されていた[204]。それまで住民は時々避難指示区域に戻っており、特に農家が家畜を世話することが認められていた。現在そこへの立ち入りは禁止されており、罰則が課されている。避難した家族は時々生活上の理由により立ち入ることが認められており、厳格な条件の下にあった。1家族あたり1名が警察官による監督のもとで2時間まで立ち入ることが認められていた。この権利は3km圏内で生活している家族には適用されていなかった。この立ち入り禁止に先立って、警察官は避難指示区域を検査し、まだ生活している家族を避難させていた[205]。4月24日に日本政府は、立ち入りを禁止された地域や制限された地域とは別にフォールアウトによって影響を受けた北西部の住民に対して、5月末までに避難させることを決定していた。この避難は主に原発から40km圏内にある飯舘村に影響を及ぼしていた[206]。
原発の100km圏内に対して6月と7月に文科省が行った研究は、30ヶ所以上の敷地が148万Bq/m²以上のセシウムで汚染されていたことを示しており、それに基づくとその地域に居住することはチェルノブイリでも許されていなかった。さらに132ヶ所の敷地が55万Bq/m²以上のセシウムで汚染されており、それはチェルノブイリにおいて自主的な避難や農業の禁止を促すための基準値であった。しかしながら日本政府は、このレポートは避難区域に関する新たな情報を与えるものではないと述べていた[207]。
5.3 除染
9月30日の時点で3機のリアクターが2011年末までに冷温停止に近づくものと見られていた[208][209]。そして日本政府は20km圏から30km圏に位置する5つの市町村に避難を求めていた[210]。一方汚染地域は同心円状ではなく、30km圏外に位置する2つの市と1つの村が2011年12月末に避難区域に分類されていた[211]。さらに住民は、原発から3km以内の立入禁止区域に立ち入ることが許されていたが、留まることは許されていなかった[212]。
経産省による長期的な除染の方針は、住民に対する追加的な被曝線量を1mSv/年に抑えることを目標としていた(世界における自然放射線による被曝線量の平均は2.4mSv/年であった)[212]。しかしながら2年間で汚染の50%から60%を減少させる目標(放射線の60%が自然に減少するはずであった)を実行に移すことの効果に対して一部の専門家たち[213]が懸念を示しており、その懸念はセシウム134の半減期と一致した削減目標を批判していたジャパンタイムズ紙[214]によって引き継がれていた。
彼らは、世田谷のようなホットスポットに関して、完全に洗浄し、汚染された地表を剥がし、芝生を張り替える必要があると考えていた。放射性セシウムをケルヒャーによって洗浄することは、腐食した金属、剥げ落ちたペンキ、物質に生じた裂け目を完全に除染できなかった[214]。さらに洗浄されたセシウムの一部は大気中に再び戻り(エアロゾル)、土壌や排水口を汚染していた。同様に空間線量率を減少させるために、舗装された道路、歩道等を張り替える必要があり、それは汚染された大量の土壌を保管することを意味していた[214]。結局のところ影響が及んだ地域において、可能であれば10%から20%でなく90%程度放射線のレベルを減少させること[215]が必要であり、というのは弱いが一定のレベルの放射線が存在している地域に人々を生活させることは政治的に許容されるものではなかったからであった[214]。しきい値のない内部被曝の影響は100mSv以上の急性被曝を除いて統計的に有意ではなかったけれども、100mSvといった数字は放射線防護におけるベンチマークとされていた。日本の一大原子力組織であり、国内のあらゆる原子力エネルギーに対して責任を有しており、英文と和文で日本原子力学会論文誌を刊行している日本原子力学会[216]の元会長である田中俊一は、2011年11月に同様に、日本政府が立入禁止区域を除染する手順をまだ示していなかったことを批判していた(そこでは被曝線量が20mSv/年を超えており、住民が立入禁止区域に帰還するタイムテーブルも存在していなかった)[214]。
除染に関わる作業員の被曝限度は20mSv/年であり、放射線業務従事者の被曝限度と同様であった[217]。日本の首相は、「コントロールを回復するまでに3、5、10年かかり、事故の影響から回復するまでに数十年を要する」ことに言及していた[218]。
5.4 他の措置
安定ヨウ素剤の配布。IAEAは、2011年3月12日の12時40分(UTC)に出した声明の中で、日本政府が事故をIAEAに通知し、甲状腺癌を予防するために住民に対して安定ヨウ素剤を配布することを準備していることに言及していた[219]。住民に安定ヨウ素剤を配布することが公表され[192]、1号機周辺にセシウム137やヨウ素131が存在していることが確認されていた[191]。3月16日に、避難時における安定ヨウ素剤の管理についての指示が、県の担当者や関連する市町村長(富岡町、双葉町、大熊町、浪江町、川内村、楢葉町、南相馬市、田村市、葛尾村、広野町、いわき市、飯舘村)によって監督された「地元の災害対策本部」によって20km圏の避難区域の人々に対して出されていた。
ノータムによれば、原発から20km圏内の航空交通が制限されていた[220]。
BBCやNHKによれば、3月12日の13時49分(GMT)に、防護策として放射線医学総合研究所のチームがヘリコプターによって福島の原発から5km離れたオフサイトセンターに派遣されていた。放医研のチームは医師、看護士、放射線防護の専門家によって構成されていた[190]。
除染はまず6,000cpm以上の被曝線量を検出された個人に対して行われていた。日本の原子力の専門家やIAEAからの助言に基づいて、除染が行われる基準値が、3月21日の月曜日に、6,000cpmから100,000cpmに引き上げられていた[221]。
外国人の避難。3月16日に多くの大使館(ヨーロッパ、アメリカ、ロシア)が自国民を避難させるための勧告を出し、準備を進め、突発的なパニックに対する懸念を強調していたが、日本政府は、東京に在住する日本人に対する避難の手順を考慮していなかった[222]。
2011年3月30日に途方に暮れた一部の日本人は女川原発の建物の中に避難していた[223]。
5.5 ヨーロッパ
7月初旬に公開されたイギリス政府内で交わされた電子メールは、フランス電力会社、アレバ社、ウェスティングハウス社からの支援によって、世論に対する福島原発事故の影響を最小限に抑えるための断固とした意思を示しており、新たに8機の原発を建設する協定に署名する準備を行なっていた[224]。アンディ・マイルズは当時のエネルギー・気候変動大臣のクリス・ヒューンに辞任を求めていた[225]。
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