以下はオリバー・ストーン、ピーター・カズニックよる"Untold History of the United States"における第4章の概略を紹介したものである。
第4章におけるピーター・カズニックの主張は、第一に、なぜ日本のリーダーたちがすぐに降伏せず、兵士や市民の苦しみを和らげなかったのかという問題に対する答えが、アメリカでの降伏条件を巡る議論の中に存在していたことや、第二に、なぜアメリカが2つの原爆を使用したのかという意識の下で、どのような政治環境や道徳意識の中で原爆投下の決定がなされていたのかを理解する必要性が存在していたことを描き出している。
個人的な願望であるが、以下の概略が上記の作品に直接手を触れてみる契機として位置づけられ、私たちの歴史的展望を広げる参考材料に含まれることを期待している。
第4章の概略
アメリカでは、数十万人の若者たちの命を救うために仕方なく第二次世界大戦末期に日本に原爆を投下したと教えられていたが、この話は本当はもっと多大なる困惑を伴うものであった。
統合参謀本部は、太平洋戦争に勝利するために2つの戦略を採択しており、まず空と海を封鎖し日本を封じ込め、集中的な空爆によって国を揺さぶり、次に日本の軍事力を弱体化させ、士気が低下したところで侵攻するといった内容であった。
7月9日にアメリカ軍はサイパンを奪取し、その死傷者数は甚大であった。大半の日本のリーダーたちにとって、その悲惨な敗北は軍事的勝利を勝ち取ることができなかった決定的な証拠を示しており、7月18日に首相である東條英機と彼の内閣は総辞職していた。
戦局に対する見通しが悪化し、日本のリーダーたちは一億玉砕を求め始め、国家が降伏するよりむしろ滅びるまで闘うことを好んでいたが、マーシャルやスティムソンを含むアメリカのリーダーたちはそのような説を退け、敗北を重ねさせれば日本が降伏するだろうといったことを確信したままであった。スティムソンは、徹底抗戦するために狂信的に抵抗する日本の潜在能力にもかかわらず、日本はそのような危機において合理的であり、狂信者たちによって全体を構成されている国家ではないと信じていることをトルーマンに述べていた。
ボロボロの幹線鉄道、困窮した食料供給、低下した公共のモラルに直面して、日本のリーダーたちは民衆の蜂起を恐れており、近衛文麿は裕仁に対して、日本の敗北が避けられないと言わねばならないことを残念に思っていると述べ、懸念しなければならないことは敗北に乗じて生じるかもしれない共産革命であると警告していた。ヘンリー・ルースによれば、日本は敗北しており、そのことを日本人は知っており、日々戦争終結のためのサインを示していた。リチャード・フランクでさえ、原爆投下がなくても、海上封鎖と空爆戦略の累積効果によって、鉄道輸送網に対する被害の拡大が国内の秩序に対して深刻な脅威を与えており、それゆえ実際に戦争終結を求める方向へ天皇を駆り立てていたことを認識していた。
遡ること1943年1月のカサブランカでローズベルトはドイツ、イタリア、日本に無条件降伏を求め、チャーチルでさえ驚きを示していた。そしてその要求にこだわった場合の影響は甚大であった。無条件降伏が国体の解体や天皇が戦犯として処刑される可能性を意味していると日本人は考えており、多くの人々はトルーマンに降伏条件を和らげるように促していた。ジョセフ・グルーによれば、無条件降伏は、その制度の保持を望んでいるならば、現在の皇室の排除を意味しないだろうという大統領によるコミットメントなしに、軍事的敗北に関わらず現実的なものでないだろうと認識されており、リーヒによれば、無条件降伏に対する主張が日本人の絶望を深めるだけに終わり、それによって死傷者リストが増加することが懸念されていたことが指摘されていた。
アメリカの当局者たちは降伏条件に対する懸念がどれほど重大かを理解していた。そして5月に日本の最高戦争指導会議構成員会合が東京で開催されたとき、アメリカによる降伏条件を変更するためにソ連の支援を得る決定がなされ、見返りにソ連の領土に対する譲歩が示されていた。その決定は、ソ連の当局者たちに日本人が戦争から離脱する道を探っていることを確信させるのに十分なものであったが、連合国が太平洋戦争参戦の見返りにソビエトにもたらす譲歩を確かめたかったソビエトのリーダーたちを喜ばせるものではなかった。6月18日に天皇は最高戦争指導会議構成員会合に迅速な平和への回帰を希望していることを知らせており、最高戦争指導会議構成員会合は、天皇を擁護し皇室を保護するために、降伏の仲裁を行うことについてのソ連の意思を確認することに同意していた。7月12日に東郷は佐藤に公電を打ち、アメリカとイギリスが無条件降伏を主張する中、私たちの国は祖国の生き残りと名誉のために全力で戦争の早期終結を目指す他はないと述べていた。しかしトルーマンはバーンズの言うことに耳を傾け、バーンズはアメリカ国民は妥協の産物である降伏条件を許容できないだろうと主張し、大統領に対してもし妥協するならば大統領自身が政治的に葬り去られるであろうことを警告していた。
すでに敗北していた国に対して2つの原爆を投下することは道徳的に非難されるべきことであると思われており、天皇をそのままに据えることに対してトルーマンが代価を支払わなければならないと考えるべき理由はほとんど存在していなかった。共和党のリーダーたちはトルーマンが必要としている政治的な全ての援助をトルーマンに与えていた。6月の社説でワシントン・ポストは、無条件降伏が戦争を終結させることにおいて障害となっているとの懸念に対して、無条件降伏が致命的なフレーズになっていることを非難していた。
他方で降伏条件を変更することは、原爆を使わずに、日本の降伏を早める唯一の方法ではなく、日本人が何よりも恐れていたことはソ連の参戦であった。1945年4月の初めにソ連は1941年の中立条約を更新しないことを日本側に伝えており、ソビエトが参戦することに対する日本側の不安を高めていた。5月に日本の最高戦争指導会議構成員会合は、ソ連が参戦するならば、戦争における絶対的な敗北が避けられないものであることを全ての日本人は理解するだろうとの結論に達しており、7月6日に合同情報委員会は、ポツダムで会談するであろう合同参謀本部に対して、すでに希望がない日本人に対してソ連の参戦が効果的であることを記していた。
日本を支配しているリーダーたちは絶望的な軍事情勢を認識しており、妥協を伴う平和を求めていたが、まだ無条件降伏を受け入れがたいものとして眺めており、政府の基本方針は完全な敗北を避け、和平交渉においてより有利な交渉上の立場を獲得するために、可能な限り長期間にわたり絶望的に戦い続けることであったが、かなりの日本人は絶対的な軍事的敗北の可能性が高いことを認識していた。そしてソ連の参戦は完全な敗北が避けられないことを日本人に納得させていた。
他方でクリスチャン・センチュリー紙によれば、強制収容所に対する政策の全体像は、憲法上の権利を破壊し、アメリカ政府が原則として人種差別主義を確立する方向へ向かっており、それはドイツが歩んだ道と同じであることが指摘されていた。フランク・マーフィーの補足意見によれば、いかなるグループであっても同化することができないと述べることは、偉大なるアメリカの実験が失敗したことを認めることと同義であり、人種や祖先によってアメリカ市民の自由を実質的に制限することを支持することが、ドイツや他のヨーロッパの地域におけるユダヤ人に対する処遇と憂鬱なほど類似していることが指摘されていた。
都市部の爆撃は第一次世界大戦中から行われており、それは戦間期においても残忍な方法で継続されており、1937年にアメリカは中国の都市を日本が爆撃していたことを非難しており、1939年に戦争がヨーロッパで始まったときに、ローズベルトは無防備な一般市民を爆撃する非人間的なバーバリズムを控えるように戦闘員たちに懇願していたが、大規模な民間の死傷者を生じさせることに対する無関心が市民の間で増大傾向にあった。
歴史学者である田中利幸によれば、アメリカは100以上の日本の都市を爆撃しており、スティムソンはトルーマンに対して、アメリカが虐殺においてヒトラーを超えているとの悪評を得ることを避けたいと述べるように促していたが、スティムソンが虐殺を止めさせるためにしたことはほとんどなく、民間人への被害を制限するとのアーノルドの約束を信じることで自分自身を騙しており、ロバート・S・マクナマラは、もしアメリカが戦争に敗北すれば、全員が戦争犯罪人として裁かれ、有罪の宣告を受けるだろうといったルメイのコメントに同意していた。スティムソンは空爆を実施するべきではなかったとは述べていなかったが、それを疑問に思うものが誰もいない国というのは何か間違っていると考えていた。
シラードによれば、バーンズは戦争に勝つために日本の都市に対して原爆を使用することが必要であるとは主張しておらず、日本は実質的に敗北していたということを当時の彼は知っており、ヨーロッパでロシアの影響力が拡大することを非常に懸念しており、原爆投下がヨーロッパにおけるロシアの態度を柔軟にさせるだろうと主張していた。グローヴスも心の中でソ連が常に敵であったことを認めていた。
ポツダム会談における太平洋戦略情報部のサマリーによれば、日本が現在正式でないにせよ公式にその敗北を認めており、勝利を放棄し、国家のプライドとその敗北という現実を融和させ、その最善の手段を見出す方向へ日本を転換させることが促されていた。そしてトルーマンの目的は約束通りソビエトが参戦することを確認することであった。トルーマンには選択肢が存在していた。核実験成功の知らせは、ソビエトからの援助なしに、アメリカ側からの条件による日本の降伏を加速させ、それによってソ連から要求されていた領土や経済面に対するアメリカ側の譲歩を拒否できることを意味していた。しかしトルーマン、バーンズ、グローヴスと異なり、スティムソンは原爆の使用について深刻な懸念を抱いており、日本人に対して天皇制を保障するようにトルーマンやバーンズを繰り返し説得していたが、それは無駄であった。
核実験が成功していたので、トルーマン、バーンズ、スティムソンはもはやソ連の参戦を歓迎しておらず、ソ連の参戦はローズベルトがヤルタで約束したソビエトに対する譲歩を示しており、チャーチルによれば、その時のアメリカは日本との戦争にロシアが参加することを望んでいなかった。スターリンは、アメリカ人たちはヨーロッパで主導権を握るために原子力を独占的に利用するだろうが、アメリカ人たちからの脅しに譲歩するつもりはないと述べており、ソビエト軍に対して対日参戦を加速させるように命じ、ソビエトの科学者たちに対して研究を加速させるように指示していた。
降伏条件の実質的な変更、原爆についての警告、ソ連の参戦を含んでいないポツダム宣言が日本によって受諾されることはないだろうということをトルーマンは知っており、7月25日にポツダムで、8月3日以降天候がよければすぐに原爆を投下することを指示するスティムソンやマーシャルによって署名された指令を承認していた。
トルーマンの行動は、アメリカが早期に戦争を終結し、ソ連と約束した譲歩を反故にするとのスターリンの見方を立証しており、スターリンはトルーマンに対して、ソビエト軍が8月中旬までに攻撃を行う準備があることを伝えていた。トルーマンは平和を望んでいたが、まず原爆を使用することを望んでいた。
ソビエトのリーダーたちは歓喜どころではなかった。すでに命乞いをしている国家を敗北させるために、原爆が必要でないことを理解しており、ソ連が原爆の真の目標であると結論付けており、アジアにおけるソビエトの利益を先取りするために、アメリカ人たちは日本の降伏を加速させることを願っていると考え、明らかに必要でないにもかかわらず広島で原爆を使用することによって、もしソビエトがアメリカの利益を脅かすならば、アメリカはソビエトに対しても原爆を使用するシグナルを送っているとソビエトのリーダーたちは結論付けていた。
アレクサンダー・ヴェルトによれば、広島の知らせは皆を意気消沈させており、原爆がロシアに対する脅威を形成していたことが明確に認識されており、ロシアのドイツに対する絶望的なほど困難であった勝利が今やその価値を失っていたと、ロシアの悲観主義者たちが憂鬱そうに述べていたことが回想されていた。
ジューコフは、アメリカ人たちの本当の目的が何であったのかを確かめており、冷戦における強い立場を確保する帝国主義的な目標を達成するために、アメリカ政府が原爆を使用する意図を有していたことは明らかであり、軍事的な必要性と関係なく、アメリカ人たちは広島や長崎といった平和で人口密度の高い地域に原爆を投下していたことを指摘していた。アナトリーによれば、広島の原爆投下はソビエトの軍事力に狙いを定めたものであり、連合国側に対する不信が急速に増大し、原爆を投下されることによる潜在的な損失を低下させるために、拡大した領土に対する支配を確立し、大規模な地上軍を維持することが必要であるといった見解が広まっていた。
広島での原爆投下の後、8月9日にソ連軍はほとんど抵抗を受けることなく満州、朝鮮、樺太、千島列島に侵攻していた。そして日本がソビエトによる侵攻に対処する前に、アメリカは長崎にファットマンというプルトニウム爆弾を投下していた。テルフォード・テイラーによれば、広島での原爆投下に対する善悪が議論されているが、長崎での原爆投下に対する正当な根拠を聞いたことがないとの指摘が存在しており、それは戦争犯罪であると考られていた。
日本政府の関係者たちはソ連の侵攻に意気消沈しており、緊急閣議を開いたが、そこで長崎での原爆投下を知っていた。ソ連に対する日本の外交的なアプローチと、アメリカによる侵攻に対して徹底的に抗戦する決号作戦の双方が、完全に崩壊していることが示されていたが、降伏を検討している日本のリーダーたちにとって、原爆投下は追加的な誘因を与えていたけれども決定的な誘因を与えるものではなく、天皇はポツダム宣言を受諾し降伏する意思を表明していたが、それは統治者としての大権を損なういかなる要求をも含んでいない限りにおいてであった。
日本が即時降伏することを宣言しなければ、ソ連が満州、朝鮮、樺太のみならず北海道も奪い、それは日本の基盤を破壊するがゆえに、アメリカと取り引きを行い戦争を終結しなければならないといった状況で日本側に選択肢は存在しておらず、一旦天皇による決定が明確になると、自己による軍備放棄、戦争犯罪を裁かない、占領を行わないといった3つの追加的な要望によって抵抗していた最高戦争指導会議構成員会合のメンバーの内の3人が、降伏に反対することを取り下げていた。彼らはアメリカが天皇制を維持することを許容しそうであると眺めており、ヨーロッパの一部で生じているように、侵攻しているソ連軍が日本国内における共産主義者の蜂起につながることを恐れていた。
トルーマンは日本側による降伏の申し出を検討しており、バーンズは、天皇制を維持することが大統領を政治的に葬り去るであろうといったことを警告しており、スティムソンは、たとえ日本人が疑念を抱いたとしても、天皇以外の他の権威を認めない各地に散らばった兵士たちを降伏させ、硫黄島や沖縄のような大量の犠牲からアメリカ側を救うためにも、私たちは天皇制を維持する必要があると主張していた。そして議論の後、ポツダム宣言に従って、最終的な政府の在り方は自由に表明された日本人の意思によって確立されなければならないとの曖昧な声明で妥協が成立していた。
河辺虎四郎によれば、ヨーロッパにいる大量のソ連軍が攻撃の矛先を向けていることを絶えず恐れ続けていたので、ソビエトの参戦ははるかに深刻な衝撃を与えていたとの指摘が存在していた。1946年1月にアメリカの陸軍省によって行われた研究も同じ結論に達しており、そこでの議論を通じてアメリカによる原爆の使用が降伏の決定を促したことを指摘しているものはほとんどなく、日本はロシアが参戦した時に降伏していたということがほぼ確実であったとの指摘が存在していた。
バチカンは即座に原爆を非難していた。カトリックの世界は原爆の使用を凶悪で忌まわしいものとして表現しており、キリスト教による文明や道徳観がこれまでに直面してきた中で最も強力な咆哮であったと表明していた。ジョン・フォスター・ダレスは、もし私たちキリスト教徒の国がそのような方法で原子力エネルギーを用いることに道徳的な自由を感じているならば、どこかで人はそれに対する審判を受けるであろうし、原子力兵器は通常兵器であると見做されているが、ある段階で人類に対して突発的で終末的な破壊を用意するだろうといったことを懸念していた。
ロバート・ハッチンスによれば、原爆は最後の手段として用いられるべき兵器であり、この爆弾が投下されるときに、アメリカの当局はロシアが参戦する予定であることを知っており、日本は封鎖され、その都市は焼夷し尽くされていたことを考慮すると、すべての証拠がこの爆弾の使用は不要であったという事実を示しており、アメリカがその道徳的地位を失墜していたことが指摘されていた。
もし広島や長崎に原爆を投下していなかったならば、ソ連はもっと柔軟に対応していただろうし、アメリカは自分の願望を押し通すためにどんなことでもするだろうといったことや、ソビエトがアメリカに対する抑止力として自身の原爆を開発することを加速させなければならないことを、スターリンに確信させることもなかったであろう。
ドワイト・マクドナルドは、広島の荒廃以前から戦争が有する非人間性を指摘しており、1938年にフランコによる爆撃機が数百人に及ぶスペインの民間人を殺害したときに、人々が感じていた信じがたい恐怖と怒りが、東京における数十万人の被害者に対して絶望的なほどの無関心へと変化していたことを考察しており、この10年間において徐々に恐怖心を増大させることが、個々の私たちに対して、ミトリダテス6世に関する言い伝えを道徳意識に関して適用するように、人間に対する同情心に対して耐性を身に付けさせていったのだろうと述べていた。
チャーチルでさえ原爆を擁護することの困難さを認識しており、もしペトロが、原爆の投下を退けることができたことに対して責任があると理解しているが、どういう弁護がなされえるだろうかと尋ねることがあるならば、トルーマンがトルーマンなりの答えを用意していることを望んでいると述べており、原爆はアメリカとイギリスがソ連と対決するためにトルーマンやチャーチルが用意していた唯一の対処法ではなかったとの指摘が存在していた。
上記の第4章の概略に関する詳細な邦訳は、2013年4月4日に早川書房から出版されており、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史1』といった邦題からなる作品の中に収録されていることを追記する。