リオタールの『ポストモダンの条件』によれば、合理主義やヘーゲル派の普遍主義に基づく歴史といったモダニティに関するメタナラティブはアウシュビッツの後に全ての信頼を失い、知識は単なる情報商品になっていた。そして合理性の解放や普遍主義に基づく歴史における権威はカントやルソーによる啓蒙思想に基づいていた。
デリダの脱構築によれば、エッセイ、小説、新聞の記事のようなテクストにおける意味はそれらが示す物に対する言及よりむしろ採用された語の間における差異の結果であると理解されており、言語学におけるソシュール派の差異の意味に例えられながら、対立する個々の語の意味を打ち消すように作用する能動的差異が問題とされていた。そして脱構築は方法や哲学の体系として存在することを意図している訳ではなく、むしろ実践を示しており、しばしば陰鬱で複雑な数式を批判されていた。
フーコーの『言葉と物』はエピステーメーという用語によって科学の変容を分析しており、16世紀のルネサンス期のエピステーメーを類似の時代、古典主義時代のエピステーメーを表象や同一性と差異性に関する秩序の時代、近代のエピステーメーを私たちが属していた時代として言及していた。
ジョルジュ・カンギレムがフーコーについて述べたように、エピステーメーを理解するために、専門家は専門性から抜け出し、一般論の専門家ではなく、複数の専門分野を行き来できる専門家を目指さなければならなかった。
そして進化論は生物学における理論を構成しており、その可能性の条件はキュヴィエのように進化を認めない生物学であり、マルクスの著作における可能性の条件はリカードであり、フーコーが言及していたことは与えられた時代に取って代わる言説の変容であった。
1972年のインタビューの中でフーコーは、『言葉と物』の中で示されているものは古典主義時代のあらゆる知であるが、古典主義時代の思想から離れたところに存在しており私たちのモダニティを構成している知の境界でもあり、私たちの思考の枠組みに課されている展望を抱くことは私たちが属しているエピステーメーに存在している制約に関する目に見えないネットワークの中にある枠組み自身を外部のエピステーメーとともに考慮することであったと述べており、古典主義時代のエピステーメーにおいてフーコーは人間が存在していないことを想起させており、『言葉と物』の中で、古典主義時代のエピステーメーは生命の力、労働の豊かさ、言語の歴史の深みを有しておらず、知におけるデミウルゴスがその手で200年かけてあらゆる近年の創造物を作り出していたと述べていた。
リオタールによれば、近代のナラティブは神や主観のようにその時その時の世界観に基づいて中心となる原理を構築しており、一般的な表象に対するその基礎を構成しており、一般的な考察において異質な存在を除外していた。そしてリオタールは神、主観、理性、理論体系、マルクスの社会理論のような一般的で絶対的な解釈のための原理の代わりに多様なナラティブを解釈のためのモデルとして提示する多数の言語ゲームを考慮していた。したがって彼は一般的に合理性と対立していたのではなく、むしろ合理性に関する特定の歴史的形態と対立していた。
この『ポストモダンの条件』は元々カナダ政府のためにポスト工業化社会における知識の役割について書かれたものであった。そして哲学、芸術、文化、社会科学における多くの展開の基盤を大きな物語の終焉といった主張で説明していた。
リオタールが述べていた大きなメタナラティブとは啓蒙主義、理想主義、歴史主義であり、これらはポストモダンにおいて全く正当性を有しておらず、ヘーゲルの意味で1つのイデオロギーに全体として束ねられた精神における自我、ユートピア、歴史において意味のある進歩が存在するといった思想はもはや信じられる存在ではなかった。したがって自由主義や社会主義といった大きな思想が影響力を行使できず、あらゆる社会的行為がそれらに一致することもなかった。合理的な科学、道徳的な行為、政治における正義の概念はかつてはその固有の役割を有していたが、それらに対して意見を一致させることができなかった。
カントは必然性の領域や判断力を超える自由を介して美学における美が約束されるものを与えていたことを強調していたが、この約束はリオタールによれば至高の中に登場する隔たりを通じて損なわれていた。
政治学や国際関係論においてポストモダンのアプローチはイメージやシンボルのようなテクストや出版物を分析することにフォーカスしており、カテゴリーに分類することについて懐疑的であり、理由としてある事実が言説的に伝えられると常にこの事実に関する1つ以上の見解が存在していたことが挙げられていた。
そして言説における形式の優劣は力の問題であり、リアリズムのようなアプローチにおいて力は国家に留保されており、資源においてはより有利な国際的な立場にあるものが支配的であったが、ポストモダンのアプローチは言説の表象が力の表現であることから出発するのではなく、言説自体に向き合っており、力は単に言説の一部に関連しているのではなく、ナラティブ全体の背景に広がっていた。
リアリズムは、ポストモダンの立場が非合理主義に偏っていることを批判しており、また自然科学の理論が観察を通じて正当性を築き上げ、それを用いることを可能にし、客観的な事実を記述していることを否定していることを批判していた。いわゆるソーカル事件は有名であり、その論文の中にある、量子重力理論は言語的そして社会的な構築物であり、科学的客観主義に疑問を呈することによって、量子力学はポストモダンの見解を支持するといった記述の意図は、ポストモダンの人文科学や社会科学における一定の知識水準の欠如と数学や自然科学のメタファーの濫用に起因していた。そしてリアリズムの支持者たちとポストモダンの支持者たちの対立は英語話者の国々ではサイエンス・ウォーズという用語で知られていた。
また保守主義やリベラリズムのような古典的な政治的イデオロギーは、ポストモダンの思想が文化や社会における裁量を欠いているとして批判しており、セイラ・ベンハビブによれば、ポストモダンの立場はフェミニズム理論の特殊性を失わせるだけでなく、女性運動の登場にも疑念を呈しているとされていた。
フーコーは、例えばカントやヴェーバーによる仕事を放棄するとき、私たちは非合理性の虜になる危険性と隣合わせにあるといったハーバーマスによって示された問題に同意していたが、私たちが用いている理性の特徴や起源によって支配されたままであるといった問題に出来る限り近づくことを求めており、合理性が有する二面性を問題として取り上げ、レイシズムにおける表現形式のように非合理性における典型的な表現形式が輝かしい合理性の表現形式として表象されており、それが社会進化論における一例に含まれていたことを指摘していた。
フーコーとハーバーマスの間で行われた論争は倫理的言説に関するコミュニケーション的行為等に対するハーバーマスの考え方とその系譜や力と知識の関係に対するフーコーのアプローチを問題の中心に据えていた。双方が双方の思想を大幅に変更していたことによって合意に達することは困難であり、例えばフーコーに対するハーバーマスの見解はとりわけ1970年代中盤のそれを代表していたが、フーコーは1980年代初め以降彼の理論における展望の外に彼を位置づけていたと回答していたことが指摘されていた。
ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』の中で、フーコーによる批判自体が力の表現形式として理解されるならば、その論証を損なうことなく力に対する批判を表象することは不可能であるといったことを示していた。
フーコーは『啓蒙とは何か』の中で、カントとの肯定的な関係やカントの批評に対するアプローチを表象させており、ハーバーマスとの違いや、近代におけるエートスや規範に関する見解の中で、何がその批評に対する哲学的見解であるのかを示していたが、ハーバーマスは『啓蒙とは何か』を読んだ後、フーコーが自身を近代における哲学と同列に論じており、それは同一ではないといったことを指摘していた。
ハーバーマスによる『現在の核心に対する批評』によれば、彼は社会に対するフーコーの分析の価値を認めていたが、力に対するフーコーによる批判はそれが依拠している規範的な基盤を損なっていたとの指摘が存在していた。
他方マイケル・ケリーによれば、フーコーとハーバーマスの論争における二次資料はしばしばハーバーマス派によって制作され、ハーバーマスの用語を一方的に採用していたことが書き記されていたが、アマンダ・アンダーソンによれば、そこではハーバーマスは理想的な合理主義者の立場からのみ発言するものとして描かれていた。
ハーバーマスは人間中心主義を対話を通じた偏見からの解放として理解していたが、フーコーは両価的な見解を示しており、多くのものを排除する自己の領域を拡大する力として理解していた。そしてハーバーマスは彼自身をルソーやその社会契約から生じた結果の中に位置付け、民主主義や人権の番人として理解していたが、フーコーの姿勢は明らかに両価的であり、確かに人間中心主義は女性、ヨーロッパ外の人々、困窮している人々のように不利益な立場に立たされている人々に解放を約束するものであったが、それは彼らに画一性を課すものであり、一般的なカテゴリーに当てはまらない人々を除外するものであり、合理性はテクノクラートによって支配されやすい明白な規範を押し付けるものであった。
フーコーにとって人間中心主義は人間の発展段階と関係しており、絶対主義を導き、主体の解体を導くものであり、このテーマを『監獄の誕生』の中で詳細に述べており、ロック、ルソー、カントによって定められた思考の枠は、人間中心主義がとりわけ豊かなヨーロッパの様式によって構成されており、豊かなヨーロッパの様式に類似したものとしての規律を教えられている限りにおいて、女性、ヨーロッパ外の人々、労働者といった他の人々に人間社会の構成員としての完全な立場を認めるといったことであり、批評の狙いはそのように理解されている人間中心主義を脱構築することであり、人間中心主義が作用する特定の歴史的条件を問題にしていた。
ハーバーマスの主張は、コンセンサスを指向するコミュニケーション的行為を通じて批判的実践が行われ、そのコミュニケーション的行為は力関係によって制限されていないこととして理解されており、フーコーの主張は、戦略的な行動が批判的実践を位置付け、その戦略的行動は力関係から明らかに影響を受けていることとして理解されていた。
フーコーは、人間中心主義についてハイデッガーの意味での直観を通じて認識や正義に対して疑問を呈しており、人間の有する普遍性に対しても疑問を呈していたが、ハーバーマスは、人間中心主義が力関係によって構築されていないことを認めることによって、コミュニケーション的行為を理想化していた。
前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツのWikipediaの「ポストモダンの条件」、「脱構築」、「言葉と物」、「ポストモダン」、「フーコーとハーバーマスの論争」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。
http://fr.wikipedia.org/wiki/La_condition_postmoderne
ポストモダンの条件
『ポストモダンの条件―知・社会・言語ゲーム』(1979年)は多くの大学においてポストモダニズムを普及させたジャン=フランソワ・リオタールの著作であった。これはケベック州によって委託された「20世紀の知・社会・言語ゲームについてのレポート」の典拠であった[1]。それは人間の歴史、経験、知識の統合を説明するための包括的なスキームであるメタナラティブに対する「不信」によって科学の進歩に関する問題が混乱していることを特に考慮していた。ナラティブな知識を科学知識と比較することによって、それはポスト工業化社会における情報化によって促される変化に関してこれらのカテゴリーを検討していた。再検討されたモダニティに関する2つのメタナラティブは合理的な主題の解放であり、ヘーゲル派の普遍主義に基づく歴史であった。しかしリオタールによればこれらの大きなナラティブは近代科学を推進する発案を正当化し、アウシュビッツや情報社会の後に、それらは全ての信頼を失い、そのため知識は単なる「情報商品」になっていた[2]。ではどのように科学を正当化できるだろうか?
1 ポストモダンの条件とポストモダニズム
おそらくリオタールの業績の中で最もよく知られ最も引用されていたのは『ポストモダンの条件』であり、それは「ポストモダンの哲学」を一般に開放した形で検討していた。アメリカ人たちがポストモダンに関する研究と呼ぶものにおける父としてリオタールを眺めることは問題を含むだろうが、この考え方は文学、芸術、建築におけるポストモダニズムの名の下における多くの批評に示されるように非常にさまざまな方法で扱われていた。このテクストはその定義やその考え方の始まりを提示しておらず、むしろ何がこの考え方に作用し、何がそれを批評のパラダイムにおいて構成していたのかを示していた。
2 知識の混乱
リオタールは20世紀後半に初めて知識の状況を再検討しようとしていた。それは認識論の観点による知識を遡上に挙げ、価値判断を挟まないようにし、知識における現代の言説の特徴を強調していた。彼の著作の全てを通じて、リオタールは現象学の用語によって彼の主張を展開しようとしていた。知識は20世紀において大きな変動を経験しようとしていた。リオタールにとってこの変動は彼がモダニティのメタナラティブと呼ぶもののヘゲモニーの終焉を示していた。
3 メタナラティブの終焉
リオタールは近代の2つの大きなメタナラティブの終焉に言及していた。それは合理的な主題の解放といったメタナラティブであり、普遍主義に基づく歴史に関するメタナラティブであった。近代の思想は長らく正義や社会の進歩を求めて進化する知識を主題にした歴史であり、かつては合理性の解放といったナラティブを求める権威を有していた。この権威はカント、ルソー他による啓蒙思想に基づいていた。
知識を主題にする考え方はその定義を与えることに困難をともなっており、リオタールがほとんど架空の歴史やそれ自体ナラティブな歴史学を主題にした方法を採用していたことを批判する分析哲学者たちは多数に及んでいた。モダニティは非常に幅広い概念であり、その試みは概念として知識が置かれた状態に関わり、人間の思想における原則の確立に基づいた重要な議論の中に記されていた。
リオタールはヘーゲルの哲学に起因している精神の歴史におけるメタナラティブと呼んでいるものの終焉を宣言していた。時代の知的産物が普遍的な精神による局所的史的具体化として見られなければならないとの見解の背景にある思想は、もはや近代を理想化する歴史に対する呼称に対応していないと思われている現代の思想ではなかった。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Déconstruction
脱構築
脱構築は現代哲学の学説を俯瞰する方法であった。テクストの分析は多くの文献(哲学、文学、新聞)に適用され、テクスト自身によって明らかにされるほのめかされた暗黙の前提や省略を中心に据えた分析によって示される見解の不一致や混乱を明示していた。
哲学や文学に組み込まれたこの考え方はアメリカで反響を及ぼし、そこでそれはポストモダンの哲学やさらに一般的にヨーロッパ大陸の哲学におけるさまざまなアプローチと同一視されていった。もし「脱構築」という用語が最初にハイデッガーによって用いられていたならば、デリダの仕事はその用法を体系化し、その実践を理論化したことに該当していた。
1 脱構築という概念の歴史
1.1 ハイデッガーの脱構築
脱構築という用語はハイデッガー派の用語を明示的に翻訳することなく『グラマトロジーについて』の中で初めてデリダによって示されていた。ハイデッガーが『存在と時間』の中で用いていた脱構築というドイツ語の訳語を「他の物の中に」与えることを望んでいたとデリダは説明していた。デリダは、どのように解体が確立されるのかを示すことほど形而上学における脱構築において無に還元することは問題とされないので、脱構築という訳語は解体という古典的な訳語より関連性が高いと考えていた[1]。
「双方がこの文脈の中である作用を意味し、存在論や西洋の形而上学の創設者たちによる概念の構造や伝統的な構築物を対象としていた。しかしフランスでは「解体」という用語は、非常に明白に消滅つまりおそらくハイデッガー派の解釈や私が提案した読み方のタイプよりニーチェの「解体」に近い否定的な還元を含意していた。したがって私はそれを拒否した。私は「脱構築」という語(私には明らかに自然に思われた)がフランス語として適当であるかどうか迷っていたことを覚えている。」--デリダ、『プシュケー──他者の発明』、p.338
実際には脱構築という語は1955年にハイデッガーの『存在の問題に対する寄与』(有への問い)をフランスの哲学者が翻訳する過程で登場していた。ジェラール・グラネルは「解体」という語と区別するためにドイツ語の「脱構築」を翻訳する際にこの語を選択していた[2]。
ハイデッガーの『存在と時間』の中で脱構築は時間の概念を対象としていた。その脱構築は、連続する段階のどこで、時間経験が形而上学に覆われ、一時的な存在として存在の本来の意味を忘却するのかを明らかにしていた。この脱構築の3つの段階は歴史の流れと反対であった。
「図式論におけるカントの学説や一時的な問題意識の予備段階としての時間」
「デカルト派の「我思う、ゆえに我あり」といった存在論的基礎や「思惟するもの」の問題意識の中における中世の存在論の再現」
「現象の基礎と古代存在論の限界の区別のような時間に対するアリストテレスの概論」
しかし、ハイデッガーが『存在と時間』(§8、p.40)の序章の最後にこの脱構築に触れていたとしても、1927年の構想をもとに次の著作で取り上げられなければならなかったこの部分はそのようなものとして書かれていなかった。せいぜい1929年に出版された『カントと形而上学の問題』から始まる他の著作や講演がそれと部分的に一致していると考えることが可能なぐらいであった。
「私たちが脱構築として理解しているこの仕事は存在の問題や古代の存在論における伝統的な蓄積にそって成し遂げられ、そのことは後の規定によって存在を最初に決定することを支配する原体験にまで導いていた。」--ハイデッガー、『存在と時間』[3]
1.2 デリダの脱構築
脱構築の概念を説明するとデリダは、与えられたテクスト(エッセイ、小説、新聞の記事)における意味はそれらが示す物に対する言及よりむしろ採用された語の間における差異の結果であると理解しており、言語学におけるソシュール派の差異の意味に例えながら、対立する個々の語の意味を打ち消すように作用する能動的差異を問題にしていた。この差異の能動的な特徴を(主題が偶然決定したことと関連する差異の受動的な特徴の代わりに)示すために、デリダは「差異」と「区別する」という動詞の現在分詞を組み合わた差延という用語を提示していた。また別にテクストにおける差異の意味はそれが書かれたものの中で言語の構造を分解することによって見出されていた。
脱構築は方法や哲学の体系として存在することを意図している訳ではなく、むしろ実践を示していた。その批判者たちはしばしば陰鬱で複雑な数式を批判していた。デリダが永眠した日にジョナサン・キャンデルによって書かれたニューヨーク・タイムズ紙の見出しは「難解な理論家が他界した」であった[4]。脱構築がデリダの人物像と関連付けられているフランスでは逆説的にあまり知られていないことだが、その脱構築が文学部で流行していた主にアメリカでは、それは激しい批判の主題とされていた。デリダはアメリカの哲学者であるジョン・サールからの批判に対して著書である『有限責任会社』の中で特に激しく論争を行なっていた(本のタイトルは哲学者の名前に関する言葉遊びであり、「会社」はフランス語におけるサールに類似した語の翻訳であった)。
2 脱構築によって影響された思想家たち
ジャン=リュック・ナンシー、フィリップ・ラクー=ラバルト、ベルナール・スティグレール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、アヴァイタル・ロネル、リチャード・ローティ、ルイス・デ・ミランダ、エドワード・サイード、ポール・ド・マン、フランソワ・ノー、ジョージ・スタイナー、イヴ・シトン、ジャック・エルマン、テオドール・アドルノ、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク
http://fr.wikipedia.org/wiki/Les_mots_et_les_choses
言葉と物
『言葉と物』(人文科学の考古学)は1966年にガリマール出版社より出版されたミシェル・フーコーのエッセイだった。『知の考古学』とともにこの著作の中でフーコーはエピステーメーの概念を展開していた。フーコーは彼の編集者であるピエール・ノラに同意してもらうためにそのタイトルを変更する以前に『言語表現の秩序』のタイトルをまず与えようとしていたように思われていた[1]。
1 著作の内容
ディエゴ・ベラスケスによるラス・メニーナスの絵と隠された構想やその影響に沿った複雑な構図における詳細な描写とこの著作は通じていた。フーコーは「それはベラスケスの絵の中における古典主義時代の表現における表象として存在しているだろう」と記述していた。
さらにこの著作の主な思想は展開しており、科学的な言説同様に考えられ容認されうるものを枠に嵌めた真理におけるいくつかの状況の存在によってあらゆる期間の歴史が特徴づけられていることを認知していた。フーコーは言説の「状況」は多かれ少なかれ段階的に途中で変化するといった主張を擁護していた。
彼は、認識論における用語と語源的に類似している「エピステーメー」という用語によってこれらの「言説の状況」に言及していた。フーコーはここでさまざまな科学の変容を分析していた。言語における変容:文法は一般的に言語学の観点で変容していた。生命の変容:自然の歴史は生物学の観点で変容していた。富の科学は近代経済学を生誕させた「エピステーメー」の変容に対応していた。エピステーメーの概念はディルタイによって擁護されていた世界観という概念と混同してはならず、それに対してフーコーは明示的に反対していた[2]。
「これは科学や私が時代のエピステーメーと呼んでいるものを形成しているさまざまな科学的なセクターの中における差異を有する言説間の関係におけるあらゆる現象であった。」
-- フーコー、『ミシェル・フーコー思考集成 I』、人民裁判について、p.1239
ミシェル・フーコーは3つのエピステーメーに言及していた。
16世紀のルネサンス期のエピステーメーは類似の時代であった。
古典主義時代のエピステーメーは表象や同一性と差異性(私たちをそれと分離するまさに時間的な隔たりによって定めることができる)に関する秩序の時代であった。
近代のエピステーメー(それに私たちは属しており、それゆえフーコーにとってはその限界を明らかにするための説明を与えることが問題であった)はその著作と同じ問題を抱えていた。
16世紀のエピステーメーは第2章の主題であり、最も短い分析であった。古典主義時代のエピステーメーは第一部の残り全てで分析されており、近代のエピステーメーは第二部であった。
古典主義の時代(17世紀)から20世紀までの移行において、フーコーは年代順によって近代のエピステーメーの代わりになるものの中に規定されていた何人かの思想家たちを特定していた。
『ポール・ロワイヤル論理学』(1662年に出版された)は論理学、文法、統語論における著作であり、そこにデカルトやパスカルが加わっていた。
アダム・スミスと『諸国民の富』。
アントワーヌ・デステュット・ド・トラシー(1800年頃)。
古典主義時代のエピステーメーにおいてフーコーは人間が存在していないことを私たちに想起させていた。
「それは生命の力、労働の豊かさ、言語の歴史の深みを有していなかった。知におけるデミウルゴスがその手で200年かけてあらゆる近年の創造物を作り出していた。」
-- フーコー、『言葉と物』、p.319
古典主義時代の人間について話をしていたが、「そこに人間に対する認識論上の意識は存在していなかった」[3]。さらにミシェル・フーコーは1955年を起点としてハイパーモダニティと呼ばれる新しいエピステーメーに入ったと考えていた。
2 著作の特徴
エピステーメーを理解するために、ジョルジュ・カンギレムがフーコーについて私たちに述べたように、科学や科学の歴史から始めなければならず、専門家は専門性から抜け出し、一般論の専門家ではなく、複数の専門分野を行き来できる専門家を目指さなければならなかった[4]。フーコーにとって必ずしも歴史上の期間を単に分類することは問題ではなく、エピステーメーはある種の下敷きになった大きな理論を与えられた時代に対するものでもなかった。これは「知識の総体や研究における一般的な様式」ではなく、むしろ「隔たり、差、対立、差異であり[...]、散らばりのある空間であり、開放された場であり、間違いなく無限に記述可能な関係であった」[5]。フーコー派のエピステーメーを理解するためには、「あらゆる科学を遥かな高みの中に包含する」歴史思想から始めなければならなかった[4]。
エピステーメーは逆説的だが認識論の主題ではなく、あらゆるものの前に存在しており、それ自身の展開の中に存在しており、このことを理由にして言説の状況が『言葉と物』を通じて研究されていた。その主題はエピステーメーについて発言したことを述べたものであった。したがってエピステーメーは思想史、科学史と衝突し、それは概念の形成における主題や結果であり、「考古学」は「歴史」に置き換わっていた[6]。
エピステーメーの概念や考古学との関連からフーコーは歴史の不連続に関する思想家や断絶の思想家として知られていた。フーコーは連続的に進歩するあらゆる歴史を拒否していたが、彼の著作は科学史や思想史に反対しておらず(それらが相対化され、批判されていようとも)、むしろ横に進歩しようとし、人が自身の考えとともにあると認識している可能性がある隔たりと同様にその内側に意味を導こうとする立場にいることを問題にしようとしていた。フーコーは彼の著作を「著者と読者が苦労して、結局真理の別の姿に至るといったある喜びを手に入れるように、知の分野において意味のある差異を導こうとする可能性があるもの」として定義していた[7]。『言葉と物』のサブタイトルは人文科学の考古学であった。彼の分析のオリジナリティは「言説が複雑でさまざまな実践であり、分析可能な規則や変容を受け入れ、むしろこの緩やかな確実性に価値を置き、世界、生命やそれらの「意味」を少なくとも自身によってしか起因していない言葉の影響によって変容していることを拒否することを好むもの」と対立していた[8]。例えば生物学にとって「進化論は生物学における理論を構成しており、その可能性の条件はキュヴィエのように進化を認めない生物学であったこと」が指摘されていた[9]。フーコーがマルクスの著作における可能性の条件としてリカードを挙げていたように、ダーウィンの著作における可能性の条件としてキュヴィエの著作が挙げられていた(もっともフーコーは「著者たち」に対するこの分類を前にして不安を感じており、1970年には「キュヴィエの変容」や「リカードの変容」について言及することを好んでおり、というのはフーコーが価値を置くために求めていたのはこれらの著者たちの「著作」ではなく、与えられた時代に取って代わるそれらの変容であったからであった[10])。
構造主義が構造の概念を発達させたように、構造の概念とフーコーの概念の歩み寄りは全体としてうまく進まなかった。それらの構造は変容と安定を仮定していた。ところがフーコーが定めたさまざまなエピステーメーは「難解な不連続」に従って並置されていた[11]。ジャン・ピアジェはそれらの「偶発的な登場」[12]が構造の考え方と矛盾していることを的確に指摘していた。
3 認容
『言葉と物』はほとんどすぐにミシェル・フーコーに知識人としてのステータスを与えていた。ジャック・ラカンの『エクリ』やロラン・バルトの『批評と真実』と同じ年に出版されたこの著作は同時代の読者たちにとって構造主義者の運動に加わっているように思われたが、フーコーはそこに加わることに抵抗していた[13]。最初に2万部が販売され、20年間で11万部以上に及んだ[13]。1990年のコレクション・テルの出版を通じて、編集者によれば、その著作は1年あたり5000部ほど販売され続けていた[13]。この同時代におけるジャン=ポール・サルトルの論文は「ブルジョワジーの最後の砦」としてフーコーを批判していた。アルチュセールが『マルクスのために』を出版した1年後、新しいエピステーメーは人文科学の主題である限り「波打ち際でさらわれた砂のように」人間の実像を消し去ることが可能であることを主張し、この本の中におけるフーコーの最後の言葉はフーコー自身を「理論的に反人間中心主義の立場」[14]であると推測させ、論争を引き起こしていた。同様にジャン・ラクロワはルモンドの中の『人間中心主義の終焉』と題された記事の中でコメントを述べていた[13]。ジル・ドゥルーズはそれについてル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥールの記事に『人間、疑わしき存在』とタイトルを付け、一方ジョルジュ・カンギレムは1年遅れてそれに対するタイトルとしてクリティーク誌の中で『人間の死か「我思う」の終焉か』を選んでいた[13]。しかしフーコーにとって実際のところ人文科学に対する「批判」は、例えばカントの『啓蒙とは何か』で示されるような人間中心主義に対する批判と共通している部分はほとんどないと思われていた[15]。
エピステーメーの概念は問題をともない、誤解を引き起こしていた。フーコーは1972年のインタビューの中で私たちにこう述べていた。「私が『言葉と物』の中でエピステーメーと呼んでいたものは歴史的なカテゴリーとは全く関係がなかった。私は科学におけるさまざまな領域の間である時代に存在しているあらゆる関係を調べていた[...]これは私が時代のエピステーメーと呼んでいるものを構成するさまざまな科学の領域におけるさまざまな言説や科学の間における関係に関するあらゆる現象であった」[16]。時代のエピステーメーを確認することは、与えられた時代の知における主題を歴史的に段階的に分類することではなく、私たちの思考の枠組みに課されている隔たりに対する考古学的な展望(そして批評)を抱くことは私たちが属しているエピステーメーに存在している制約に関する目に見えないネットワークの中にある枠組み自身を外部のエピステーメー(この場合ここでは古典主義時代のエピステーメー)とともに考慮することであり、フーコーは明示していないが、「変異」、「根源的な出来事」、「微細だが本質的な差異」[18]として示しているように知の一般的な位置付けが「難解な不連続」[17]から影響を受けていると私たちが認識することは不可能であった。『言葉と物』の序文の中でフーコーは考古学の仕事とそれがこの方法で追求している青写真を定めていた。「考古学の分析に示されているものは、古典主義時代のあらゆる知であるが、古典主義時代の思想から離れたところに存在しており私たちのモダニティを構成している知の境界でもあった。この境界の上に初めて、人間と呼ばれ、人文科学固有の領域を開放した知の奇妙な実像が登場していた」[19]。
またカンギレムはこの本の出版直後にコメントを述べていた。「人類学という一般的な名称の下で19世紀に形成されていたこれらの科学の総体は18世紀の遺産としてではなく「知の秩序における出来事」として示されていた[20]。人文科学に関する現在の担い手が、前もって彼らの段階的な研究に与えられた主題として、始めから構成の青写真でしかないものを当然視していたことの背景にある静かな自信を当時のフーコーは「人類学の休眠状態」と名付けていた[...]『言葉と物』は例えるならば『純粋理性批判』が自然科学に対して果たした役割を人文科学に対して果たしていた」[4]。
「反人文科学」を起点にして、言い換えるならば精神分析、民俗学、言語学[21]に及ぶだけでなく、文学[22]をも起点にして、フーコーはその思想を入念に練り上げていた。
http://de.wikipedia.org/wiki/Postmoderne
ポストモダン
ポストモダン(ラテン語のポストは「後」を指す)は西洋の社会、文化、芸術に関する近代の「後の」状態に対する一般的な意味の中に存在していた。特別な意味としてそれは政治的、科学的、芸術的方向性を有しており、近代を構成する特定の制度、方法、概念、前提に反対しており、これらを解決し、克服しようとしていた。ポストモダンの代表者たちは近代の革新指向を惰性で自動的な産物でしかないとして批判していた。彼らは近代が全体主義の原理によって正当さを欠いた支配を受けており、その原理は社会に独裁の波及をもたらし、克服されなければならないことを示していた。近代の重要とされるアプローチは一元的であり、破綻を示していた。並存している展望が平等に正当性を求める多様さの可能性が近代と対立されていた(相対主義)。また芸術を原則として開放する要求とともに近代の美学が批判的に取り上げられていた。
現在やその実情を決定づけるものについての議論が、それ自体十分にポストモダンであるが、それは1980年代初頭から行われていた。ポストモダンの思想は単なる時系列の分析として理解されておらず、むしろ批判的な思想の運動として理解されており、それは近代の前提に対して批判的であり、代替となる選択肢を示していた[1]。
1 概観
この概念を特徴付けたのはジャン=フランソワ・リオタールの著作である『ポストモダンの条件』であり、そこで彼は近代の哲学体系を破綻したものとして説明していた。「大きな物語の終焉」についての彼の発言がよく知られており[2]、そこで彼の分析における核になる議論を展開していた。リオタールは哲学体系についてではなく、「ナラティブ」について述べていた。個々の近代の「ナラティブ」はリオタールによればその時その時の世界観に基づいて中心となる原理を構築しており(例えば神や主観)、一般的な表象に対するその基礎を構成していた。しかしながらそれに関してそれらの「ナラティブ」は一般的な考察においてナラティブの1つ1つから異質な存在を除外しており、力によってナラティブの1つ1つの特徴を平準化していた。リオタールは一般的で絶対的な解釈のための原理(神、主観、理性、理論体系、マルクスの社会理論等)の代わりに多様な「ナラティブ」を解釈のためのモデルとして提示する多数の言語ゲームを考慮していた。したがってリオタールは一般的に合理性と対立していたのではなく、むしろ合理性に関する特定の歴史的形態と対立しており、その合理性は異質な存在を排除することを基礎に据えていた。
これは社会的な結果を導いており、メタナラティブはモダニティの中で社会制度、政治的実践、倫理、思考の方法を正当化することに対して適用されていたが、ポストモダニティの中でこのコンセンサスは消失し、多くのお互いに調和しない真理や正義といった概念の中で解消されていた。同時に差異、異質な存在、複数性に対する感受性の寛大さが高まり、差異の影響や言語ゲームと調和しない状況に直面していた。
リオタールに関連したポストモダンの時代における論争は1980年代に非常に活発になり、知的に開放された状況で大きな注目を集めていたが、1989年以降後退し、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり(上・下)』の中で示したように他の論争にシフトしていった[3]。この用語はさらに時代を示す確かな特徴を喪失し始め、それはとりわけその一部の支持者たちがモダニティに対する関連を考慮していたからであった。他方で例えばウンベルト・エーコのようにそれに対してモダニティとのあらゆる関係を示す概念を解放し、その用語を一般的な芸術家の営みとして広めることが行われており、それはあらゆる歴史上の時代において生じているかもしれなかった[4]。
2 用語の歴史
2.1 起源
1870年前後に初めて用いられたポストモダンという用語に関して、さまざまな哲学者たちによってその非常に異質な社会的文化的展開が確認され、部分的に議論が重ねられていた[5]。1870年前後にイギリスのサロン画家であるジョン・ワトキンス・チャップマンはフランス印象派の作品より近代的なポストモダン・スタイルを提示していた[6]。
1917年にルドルフ・パンヴィッツは哲学における「文化用語」としてこの用語を用いていた[7]。パンヴィッツはポストモダンに対する彼の思想をデカダンスやニヒリズムといった予想される結末に関する近代に対するニーチェの分析に依拠していた。したがって近代を乗り越えることは新しい「ポストモダンにおける人間」を生み出し、ニーチェが述べている「超人」を生み出すことを示唆していた。パンヴィッツの概念は民族主義的で神話的な要素を含んでおり、それは一方でニーチェを回想し、しかしながら他方でその後の用語の展開と一致していなかった。
数年後の1926年にアメリカの神学者であるバーナード・イディングズ・ベルは新しい宗教的世界を描き、それはキリスト教徒の枠組みの中で新たな知見を「ポストモダニズム」として解放していた[8]。
文学を対象にして文学者であるフェデリコ・デ・オニスは1934年にその用語を用いていた。彼は1905年から1914年におけるヒスパニック系アメリカ人の文学作品を「ポストモダニズム」として示しており、それは短期間における近代からの乖離によって新たに近代を指向する中間段階として特徴づけられていた[9]。
1947年にアーノルド・J・トインビーはこの文化の段階を「ポストモダン」として言及し、その始まりに1875年を想定していた。この意味におけるポストモダンはグローバルな展開における初期の政治思想を特徴付け、民族主義的な展望を克服することにおいて過去の政治認識と区別されていた。トインビーの後、ポストモダンとともに西洋の文化の新たな段階が導かれていた[10]。
1959年における北米の文学界ではアーヴィング・ハウがポストモダンに関する現代文学を近代の衰退現象として示しており、それはイノベーションの欠如として特徴づけられていた。ハウは今日の意味で初めてこの用語を用いていた[11]。その再評価は特に1960年代にアーヴィング・ハウやハリー・レヴィン同様とりわけスーザン・ソンタグやレスリー・フィードラーによっても行われていた[12]。
芸術、文化史、哲学、神学、文学におけるこれらのアプローチは共通して近代やその展開に対してそのつど抱かれた不信を形式化し、そこから結論を導き出していた。その最初の形成の段階はハウに見出すことができ、この概念はその後の展開における基礎として眺められることが可能であった。
後のポストモダンにおける理論の形成や方法の発見にとって重要な哲学者たちの中にミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ロラン・バルトがおり、彼らは脱構築主義、ポスト構造主義、言説分析によって新しい分析の方法を展開しており、他方でリュス・イリガライは精神分析医であるジャック・ラカンの研究を基礎にしてフェミニストによる理論の形成を展開していた。しかしながらこれらの理論を主張する人々はポストモダンという用語に対して批判的であった。
2.2 概念の形成
「ポストモダン」をこの用語の下における知的文化的運動として語ることによって、最初に名を挙げられる先人はジャン=フランソワ・リオタールであり、彼の著作である『ポストモダンの条件』はよく知られていた。この著作は1979年に最初に出版された。それは元々カナダ政府のためにポスト工業化社会における知識の役割について書かれていた。ここでリオタールは哲学、芸術、文化、社会科学における多くの展開の基盤を大きな物語の終焉といった主張で説明していた。「極端に言えば「ポストモダンはメタナラティブを人はもう信じることができないといったことを意味している」といったことが述べられていた」[18]。
リオタールによれば3つの大きなメタナラティブが存在していた。
啓蒙主義
理想主義
歴史主義
これらはポストモダンにおいて全く正当性を有しておらず、その目標を達成していなかった。個人の登場、ヘーゲルの意味で1つのイデオロギーに全体として束ねられた精神における自我、ユートピアに加え歴史において意味のある進歩が存在するといった思想は大きなメタナラティブであり、それを人はもう信じることができなかった。したがって近代のいかなる構想も存在することができず、自由主義や社会主義といった大きな思想が影響力を行使することはできず、あらゆる社会的行為がそれらに一致することもなかった。
上位に位置する言語も一般的に認容される真理も存在せず、それらは形式的なシステムを正当化していなかった。合理的な科学、道徳的な行為、政治における正義の概念はかつてはその固有の役割を有していたが、それらに対して意見を一致させることができなかった。
この観点からリオタールは「理性」による理論や実際における行為の形成は間接的なものではないことを示していた。彼によって体系立てられた著作である『文の抗争』においてリオタールはこのことを特に言語行為の機能に適用していた。理論的でも実践的でもない理性は関係を形成することに関連しており、そこではせいぜい入念になされた妥協が可能であり、「美学的な」判断力を用いなければならず、その固有の機能を規則に基づいて考察することを付随させていた。また至る所で分断された群島における航海の風景が1つの例として有名であった。
リオタール自身や他は、ここでは特定の「言語ゲーム」における特定の方法におけるウィトゲンシュタインの思想と関連させることが可能かもしれないが、いずれにせよこの視点によれば、言語ゲームの限界を超えたコミュニケーションを除外することを考えていた(ウィトゲンシュタインのテクストとの関連を妥当とすることに対して多くの専門家たちは疑念を呈していた)[14]。また類似の意味で部分的にトーマス・S・クーン(しかしながら彼は科学上の理論に見られる哲学に基づいていた)に関連して、さまざまな言語ゲーム、文化、小規模な「言説」における「矛盾」つまり共有している部分における欠陥が語られていた。
問題を含む理性の分析においていずれにせよリオタールが示す断片化と自己矛盾はさらに深刻化しており、彼自身はそれをカントの思想の中に含めており、部分的には公正で詳細な研究を行なっていた。なぜならカントはすでに必然性の領域(理論的に理解された自然における)と場合によっては(美学の)判断力を超える(実践的な)自由を仲立ちしていたが、例えば少なくとも美学における美はその主題に約束されるものを与えていたことを強調していた。しかしながらこの約束はリオタールにとって「至高」の中に登場する隔たりを通じて損なわれていた。カントの『判断力批判』に対するリオタールの解釈やバーネット・ニューマンの作品に対するその適用は一時的だが高い注目を集めていた。
3 要素
ポストモダンでは(芸術的な)関心の核心におけるイノベーションは存在しておらず、組合せの再構成や既存のアイデアの新しい適用が存在していた。世界は段階的な目標を与えられておらず、むしろ複数性を有し、無秩序で、カオス的で、その衰退を示す時代の中に眺められていた。同様に人間のアイデンティティは不安定なものと考えられており、多くの、部分的には調和しない、文化的要素を通じて特徴付けられていた。マスメディアや技術は文化の媒介者として重要な役割を担っていた(メディア理論を参照せよ)。
ポストモダンアートは芸術の概念を拡大することを通じて精彩を放っており、過去のスタイルを多く参照しており、部分的にはアイロニーを生じさせていた。アイロニーがうまく行かず、利用できない場では、その全体的な傾向は折衷主義と比較されていた[15]。
ポストモダンの思想や判断の要素は以下の通りになる。
理性の優位性を強調する啓蒙主義や合理性の拒絶(それらは既に近代において揺らいでいた)。
合理的に振る舞う単位としての自律的な主体の喪失。
人間の情緒や感情に新たに目を向けること。
哲学や宗教的見解における普遍的真理や知識体系に対する拒絶や批判的検討(いわゆるメタナラティブや道徳のような神話ーそれゆえポストモダンはアモラリズムとされるー、歴史、神、イデオロギー、ユートピア、宗教同様に(この点でそれらは真理を示す言説や普遍的な言説を支持しているが)科学が挙げられる)。
連帯や共同体における伝統的な絆の喪失。
対立した幅広い多数の集団や個人の社会生活における細分化。
社会、芸術、文化における寛容性、自由、根源的な複数性。
新たな文化的技術としてのルールの脱構築、再利用、再構成。
世界における記号の使用の増加(記号論的三角形やボードリヤールを参照せよ)。
フェミニズムや多文化主義。
ポストモダンの人文科学では、言説分析、ポスト構造主義、脱構築の方法が一般的であった。
脱構築の哲学的基礎についてはジャック・デリダを参照せよ。
4 芸術と建築
音楽
音楽学者であるイェルク・ミシュカはポストモダンの下で音楽における多様な思考と実践の方法に関して明らかに拡大している複数性を理解しており、それはライフスタイルにおける多様化を伴っていた[16]。コラージュ、クロスオーバー、モンタージュ、パスティーシュのような技法は音楽におけるポストモダンに拡大されていた[17]。無調性、セリエリズム、十二音技法、のような作曲における伝統を打ち破ることや音楽におけるポストモダンの言説の継承、例えばポストフェミニストであるライオット・ガールなどが音楽におけるポストモダンに含まれていた。
ジョナサン・クレイマーによればポストモダンの音楽には16のさまざまな特徴が存在していた:例えばそこには伝統の打破、アイロニー、境界を超えること、音楽におけるドグマの軽視、断片化、音楽の引用、折衷主義、不連続、伝統と遊び半分に付き合うこと、曖昧さなどが挙げられていた[18]。音楽のスタイルや体裁の形成においてポストモダンの用語を用いることは論争の対象となっていた。
音楽におけるポストモダンの典型的な例として非常にさまざまなスタイルがあるが、ローリー・アンダーソン[19]、ルチアーノ・ベリオ、ジョン・ケージ[20]、フィリップ・グラス、ソフィア・グバイドゥーリナ、チャールズ・アイヴズ[21]、ギヤ・カンチェリ、オルガ・ノイヴィルト[22]、アルヴォ・ペルト、アルフレット・シュニトケ、キング・クリムゾン、ザ・シネマティック・オーケストラ、アモン・トビン、フランク・ザッパ[23]、ジョン・ゾーン、ヴァレンティン・シルヴェストロフなどがよく知られていた。
芸術
フルクサス
ハプニング
ビデオ・アート
パフォーマンス
ランド・アート
ボディアート
メールアート
ジャン=ミシェル・バスキア
アプロプリエーションアート
新しいフォーヴィズム
至高(リオタールにとってのポストモダンの美学における至高)
建築
文学
5 政治学
政治学とりわけ国際関係論において例えばリアリズムとリベラリズムの比較におけるポストモダンのアプローチは理論の形成においてまだ成熟していなかった。ポストモダンのアプローチは2つの主要な特徴を有していた[24]。
出来事自体よりもむしろイメージやシンボルのようなテクストや他の出版物を分析することにフォーカスしていた[25]。
「客観的な」真実やカテゴリーに分類することについて懐疑的であった。
「なぜなら私たちが出来事から知ることが言説的に伝えられると、常にこの出来事に関する1つ以上の見解が存在していたからであった」[26]。
言説におけるどの形式が優れているかは他方で力の問題であった[27]。リアリズムのような他の理論的なアプローチでは力は国家に留保されていた。より良い国際的な立場にあるものが支配的であった(例えば資源)。ポストモダンのアプローチはそれに対して言説の表象が力の表現であることから出発するのではなく、言説自体に向き合っていた。したがって力は単に言説の一部に関連しているのではなく、ナラティブ全体の背景に広がっていた[28]。
6 批判
ポストモダンは特にイデオロギー的なコミットメントに反対していたが、文化的な行動様式にも反対していた。したがってポストモダンの哲学者たちは少なくとも激しい攻撃に晒されていることを認識していた。
6.1 リアリズムによる批判
リアリズムは科学的な機関が政治的に左派の見解を広めることを乱用しているとしてポストモダンの代表者たちを批判していた。ポストモダンの立場についてその内容から非合理主義に偏っていることが批判されており、同様に自然科学の理論が観察を通じて正当性を築き上げ、それを用いることを可能にし、客観的な事実を記述していることを否定していることが批判されていた[29]。いわゆるソーカル事件は有名であり、ソーカルのテクストに関して査読のないポストモダンの雑誌が掲載のためにその論文を受理し、意図的に自然科学における意味のない説明や物理学における同様の説明を混在させていたが、ポストモダンの世界から共感を得るためにボードリヤールの著作に対して言葉使いの面で寄り添い、リアリズムにおいてポストモダンに対する批判を行なっていた[30]。著者であるアラン・ソーカルは論文の中で、量子重力理論は言語的そして社会的な構築物であり、科学的客観主義に疑問を呈することによって、量子力学はポストモダンの見解を支持すると記述していた。ソーカルによるこの試みの成功は、ポストモダンの人文科学や社会科学における一定の知識水準の欠如と数学や自然科学のメタファーの濫用を示していた[31]。リアリズムの支持者たちとポストモダンの支持者たちの対立は英語話者の国々では「サイエンス・ウォーズ」という用語で知られていた。
6.2 政治的批判
保守主義とリベラリズムのような古典的な政治的イデオロギーや政治的左派の一部は文化や社会における重要な問題に関する裁量を欠いているとしてポストモダンの思想を批判していた[32]。セイラ・ベンハビブは例えば「ポストモダンの立場はフェミニズム理論の特殊性を失わせるだけでなく、女性運動の登場にも疑念を呈している」と批判していた[33]。
6.3 ハーバーマスや批判理論の代表者たちによる批判
同様に批判理論の立場から反論がなされていた[34]。
これと対照的に新左翼の一部やフェミニストたちの論争においてポストモダンの考え方は現在の社会の展開を理解するために役立つものとして見なされていた。
6.4 フーコーによる批判
時として「ポストモダン」の枠組みに分類されていた多くのポストモダンの哲学者たちはこのことについて批判的に意見を述べていた。例えばフーコーは「攻撃される傾向」にあることを強調し、「いつも抑圧の対象から解放されるように、相手に出来事を説明していた」と述べていた。リオタールと反対にフーコーは「ハーバーマスによって示された問題:例えばカントやヴェーバーによる仕事を放棄するとき、私たちは非合理性の虜になる危険性と隣合わせにある」ことに「全面的に同意」していた。しかしフーコーは「私たちが用いている」理性の特徴や起源によって支配されたままであるといった問題に「出来る限り近づくこと」を求めていた。理性が敵であり、私たちはそれを取り除かなければならないといった考えから離れて、フーコーは「合理性が有する二面性」を問題にしており、そこではレイシズムにおける表現形式のように非合理性における典型的な表現形式が「輝かしい合理性」の表現形式として表象されており、社会進化論における一例に含まれていた[36]。
http://de.wikipedia.org/wiki/Foucault-Habermas-Debatte
フーコーとハーバーマスの論争
論争は哲学者であるミシェル・フーコーとユルゲン・ハーバーマスの間で行われていた。基本的には倫理的言説に関するコミュニケーション的行為等に対するハーバーマスの考え方とその系譜や力と知識の関係に対するフーコーのアプローチを問題の中心に据えていた。ここではどちらのアプローチが哲学的によく説明されているかといった問題同様にどちらのアプローチが哲学において力の役割を適切に説明しているかが問題であった。
より広い意味では議論に参加することによって、彼らは世界における人間中心主義、啓蒙主義、モダニズムの位置付けや役割に関する議論を展開させていた。特にハーバーマスの支持者たちはそれらをモダニズムとポストモダニズムに関する基本的な議論として眺めていた。
1 経過
フーコーとハーバーマスはたびたびお互いの研究成果について議論を行なっていた。ハーバーマスが『近代の哲学的ディスクルス(1・2)』の中でミシェル・フーコーに2つの章を割いている一方、フーコーに関するハーバーマスとの多様な短い議論がさまざまなテクストの中に散りばめられていた[1]。論争の大部分は論点を並置しながら連続して行われ、論争に対する二次資料を通じて再現されていた。さらに双方の思想家たちは彼らの論争の中身がどれほど正確であるのかについて合意していなかった。同様に双方が双方の思想を大幅に変更していたことによって合意に達することが困難なこととされていた[2]。したがって例えばフーコーに対するハーバーマスの見解はとりわけ1970年代中盤のそれを代表していたが、一方フーコーは1980年代初め以降彼の理論における展望の外に彼を位置づけていたと回答していた[3]。
1.1 フーコー:2つの講義
マイケル・ケリーは本当の論争を4つのステップから再現していた。1976年にフーコーがコレージュ・ド・フランスで行った2つの講義に対しハーバーマスは特に反応を示していなかったが、主題とされていた内容を論じており、後にそれは中心的な問題とされていた。彼はそこで法的権力と規律権力の間の区別、特定の批評についての彼の見解、力に対する批評に関して系譜を辿る方法を取り扱っていた[4]。
1.2 ハーバーマス:近代の哲学的ディスクルス
数年後ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』における2つの章で回答を与えており、それはミシェル・フーコーに対して捧げられていた。このテクストはフーコーの講義に由来していたが、ハーバーマスはフーコーの存命中その公表を止めており、それは彼の他界後になって初めて出版されていた。その中で彼はフーコーの哲学や規範への影響に対する力の役割について特に関心を抱いていた。フーコーによる批判自体が力の表現形式として理解されるならば、その論証を損なうことなく力に対する批判を表象することは不可能であった[4]。
1.3 フーコー:『構造主義とポスト構造主義』そして『啓蒙とは何か』
フーコーは再度その主題のために2つのテクストを公表し、そこで彼は付随的にハーバーマスに関して言及しており、1983年に公開されたインタビューである『構造主義とポスト構造主義』や1984年に公開された講義である『啓蒙とは何か』が挙げられていた。ハーバーマスが彼に賛同していないことをフーコーに知らせるテクストは存在していたが、フーコー自身はハーバーマスについて何か意見を有している訳ではなかった[4]。
『啓蒙とは何か』はフーコーにイマヌエル・カントとの肯定的な関係やカントの批評に対するアプローチを再度表象させていた。しかし同時に彼はハーバーマスとの違いがどこにあるのかを示しており、近代におけるエートスや規範に関する見解の中で、何がその批評に対する哲学的見解であるのかを決定付けていた。その後ハーバーマスはフーコーの『啓蒙とは何か』を読んだ後、そこから取り除かれた論争の核心を見出していた。そこではフーコーは自身を近代における哲学と同列に論じており、それが同一でないといった重要な点が除かれていた[4]。
1.4 ハーバーマス:現在の核心に対する批評
論争の内幕について述べたハーバーマスによる最新のテクストは『現在の核心に対する批評』になり、彼はそれをフーコーの他界に寄せて書き記していた。そこで彼は社会に対するフーコーの分析の価値を認めていたが、力に対するフーコーによる批判はそれが依拠している規範的な基盤を損なっているとの観点に立っていた[4]。
1.5 予定されていた個人的な論争
1984年11月にカリフォルニア大学バークレー校で予定されていたハーバーマスとフーコーとの公式の論争は早すぎたフーコーの他界によって開催されることはなかった。そしてその論争の形式と中身についての発言はさまざまであった。フーコーによれば、アメリカ人たちがその論争を提案しており、近代の要点を理解することを望んでいたのは、フーコー自身がアンチモダニストやポストモダニストと同じ重要性を有していたからであった。これは理解の欠如に起因しており、というのはフーコーは自身をモダニストとして眺めており、近代の終焉を問題として見做していなかったからであった[3]。
ハーバーマスによればフーコーは『啓蒙とは何か』という講義を直接行なっており、その後1983年3月に彼はハーバーマスに共同シンポジウムを提案していた。その後リチャード・ローティ、チャールズ・テイラー、ヒューバート・ドレイファスがシンポジウムの企画に参加していた[1]。
1.6 二次資料に関して
フーコーが他界して数年後、論争は二次資料を基にして再構成され継続されていた。そしてその見解は分かれていた。マイケル・ケリーは彼の論集の序文の中で、二次資料はしばしばハーバーマス派によって制作され、しばしばハーバーマスの用語を一方的に採用していたと書き記していた。さらにそれはハイデッガー流の解釈によって強く歪められていた[4]。しかしアマンダ・アンダーソンはその論争を「フーコー派に対する無血クーデター」として記しており、そこではハーバーマスは理想的な合理主義者の立場からのみ発言するものとして描かれていた[1]。
さらなる論争の主な参加者たちの中には例えばアクセル・ホネット、ナンシー・フレイザー、リチャード・バーンスタイン、トーマス・A・マッカーシーが含まれ、彼らはフーコーに対する批判を展開しており、またジェームズ・シュミットやトーマス・ヴァルテンベルク、ジル・ドゥルーズ、ヤナ・サビツキ、マイケル・ケリーはフーコーに対する批判はそうでないにもかかわらずハーバーマスがそれを必要なものとして見做していたように説明されていることを論証していた[5]。
ハーバーマスの支持者たちによってフーコーは主に彼が規範に関する批評について見解を説明する立場にないことを批判していた[5]。
2 議論の要旨
2.1 人間中心主義
双方の思想家たちは人間中心主義について異なる見解を有していた。ハーバーマスが人間中心主義を対話を通じた偏見からの解放として理解している一方、フーコーは両価的な見解を示しており、多くのものを排除する自己の領域を拡大する力として理解していた[2]。ハーバーマスは彼自身をルソーやその社会契約から生じた結果の中に位置付け、民主主義や人権の番人として理解していた。フーコーの姿勢は明らかに両価的であった。フーコーにとって人間中心主義は女性、ヨーロッパ外の人々、困窮している人々のように不利益な立場に立たされている人々に解放を約束するものであったが、それは彼らに画一性を課すものであり、人間中心主義において一般的なカテゴリーに当てはまらない人々を除外するものでもあった。合理性はテクノクラートによって支配されやすい明白な規範を押し付けていた。社会の形成と同時に個人の自己認識やセルフコントロールが生じ、主体のように内部に存在するアイデンティティが外部の主体の内部に存在するアイデンティティとともに機能し、したがって自由や連帯について感情が生じ、ルソーのような古い思想家たちにとっては広範囲にわたる外的な行動を必要としていたことが認識されていた[6]。
フーコーにとって人間中心主義は人間の発展段階と関係しており、絶対主義を導き、主体の解体によって置き換えられるものであった。認識や正義はある段階で根拠のないものとされていた。彼は特にこのテーマを『監獄の誕生』(1975)の中で詳細に述べており、『言葉と物――人文科学の考古学』における彼の思想にまで遡っていた[7]。『批判とは何か――批判と啓蒙』の中でフーコーは普遍的な人間中心主義に反対していた。このことは人間中心主義の重要な思想家であるロック、ルソー、カントによってある思考の枠の中に決定づけられており、その思考の枠とは、人間中心主義がとりわけ豊かなヨーロッパの様式によって構成されており、豊かなヨーロッパの様式に類似したものとしての規律を教えられている限りにおいて、女性、ヨーロッパ外の人々、労働者といった他の人々に人間社会の構成員としての完全な立場を認めるといったことであった。批評の狙いはそのように理解されている人間中心主義を脱構築することであった[8]。例えば人間のような現実に対して一般原則を定め、その一般原則によって何が真実であり何が偽であるのか、何が根拠を有し何が根拠を有していないのか、何が現実であり何が幻影か、何が科学であり何がイデオロギーか、何が正当であり何が不当かを決定付けることを可能にしていることを批判することによって、特にハーバーマスについてフーコーは同じテクストの中で言及していた。批判は人間中心主義固有の真理に対して優先的に関連付けられていなかったが、人間中心主義が作用する特定の歴史的条件を問題にしていた[9]。
2.2 力とコミュニケーション
さまざまな立場の標準的な解釈は、ハーバーマスの主張を、コンセンサスを指向するコミュニケーション的行為を通じて批判的実践が行われ、そのコミュニケーション的行為は力関係によって制限されていないこととして理解しており、一方フーコーの主張を、戦略的な行動が批判的実践を位置付け、その戦略的行動は力関係から明らかに影響を受けていることとして理解していた[2]。
フーコーは人間中心主義についてさまざまな見解を述べており、例えば直観(ハイデッガーの意味)を通じて認識や正義に疑問を呈していた。そして人間の有する普遍性は系譜によって疑問を呈されていた。人間中心主義が力関係によって構築されていないことを認めることによって、ハーバーマスは人間中心主義に関して達成されるコミュニケーション的行為を理想化していた。