グローバリゼーションは熟練労働者による労働集約的な産業の移転を通じ富裕国間での競争を増大させ、その利益は一部の限られた人々に分配されていたが、途上国の非熟練労働者と競争している労働力の割合はわずか3%でしかなかったとの視点や、中国やインドの科学技術の水準は西欧の水準を非常に迅速にキャッチアップしており、通信技術の高まりにより、労働力の直接的な競争は現在のところ中産階級(例えばコールセンターのアウトソーシング)やエンジニア(あらゆる主要なソフトウェア集団はインドに展開した支社を有している)を対象にしていたとの視点や、計量経済学におけるいくつかの研究によれば、労働の国際分業による富裕国の利益が損失(移転や産業の空洞化)を上回るとの結論や富裕国の問題とは本質的には収益の分配の問題であったとの視点や、規制、社会的保護、税制、教育を通じて国々の間における悲惨な競争を背景にした不平等や環境被害を生じさせ、ソーシャルダンピングや地域の社会運動に効力が存在しない状況(政治力は彼らに満足を与えることができない)を導き、「階級闘争」を妨げ、先進国での社会的保護を崩壊させる可能性があるとの視点が存在していた。
他方、最貧国にとってグローバリゼーションは彼らの主な経済的資源である農業が富裕国の保護主義的政策によって支配されたままであり、国際金融にとってゲームの本当の勝者は特に多国籍企業、国有財産、金融機関や機関投資家であったと気付く必要があるとの視点が存在していたが、金融のグローバリゼーションは市場のボラティリティを増大させ、金利や為替レートの不安定性の原因となっており、重大な経済的損失や信用の損失によるシステマティックなリスクが経済全体にさらに容易に波及するドミノ理論を導いており、国家や各機関(IMFや世界銀行)は大きな金融危機に対して何もできないことを示していたので、このグローバル化をコントロールする問題、つまり世界的な規制、ジェームズ・トービンによって提唱された税の導入、国際機関の改革、国家を超えた新たな共通の基盤の創造が指摘されていた。
問題を経済的側面に限定せず文化的側面に拡大すれば、文化的多様性とすべての個人の相互依存に対する認識の高まりに基づくNGOの台頭や、宗教と哲学の強力な混合による異教徒間の対話の促進や、他方で相対主義の拒絶に基づいた共同体のアイデンティティやある文化の別の文化に対する優位性を主張する見解の台頭や、共通文化の出現や文化的多様性の損失のリスクと一部の作家たちによるアングロ・アメリカの言語帝国主義を語ることを躊躇しない現状、つまりダニエル・リンデンベルクによる「ネオコンによって理論化された文化の戦争は始まったばかりである」との視点が指摘されていた。
問題を国家の周縁化といった側面に言及すれば、グローバル化は組織に対する新たな課題や世界の政治的権力の新たな分布を生み出し、国際システムの凡庸な概念に疑問を投げかけており、公共政策の伝統的なツールである課税や規制は地球規模でその効果を失っており、多くの国々の協調が求められていたが、その協調を手に入れ維持するのは難しい作業になり、グローバル化は国民国家の構造がコントロールできる規模をはるかに超えており、国際関係が国家の利益を代表する規制によって支配されていないので、結果として多くの政府がこれらの問題に対する無力感を嘆くのみであるといった視点が存在していた。
人の移動といった観点から眺めると、2002年にアメリカは史上最大の移民数を歓迎していたが、人口に対する比率は1920年代の比率より低く、それは戦争によって移動させられるか、能力を活かして報酬を求めるより良い訓練を受けた人々の特権になっているといった視点や、個人のライフスタイルにおける違いを反映しているものの、先進国間での(雇用者や被雇用者、能力のある人々や能力が不足している人々)または先進国、途上国、貧困国間での所得不平等を強調するのみであったといった視点が存在しており、インターネットや他のメディアを通じ、外国の文化的産物(日本の漫画、インドの映画、南米のダンス等)に触れることはもはやエリートの特権ではなくなっており、世界的に文化の多様性に対する意識が高まっているといった視点も存在していた。
哲学者であるミシェル·フーコーによれば、世界観は新しいエピステーメー(認識体系)に移っており、それを彼は超近代性と呼んでいたが、歴史家であるルネ・レモンによれば、15世紀や16世紀のルネサンスや活版印刷の技術の発展を通じて、啓蒙運動が「コペルニクス的転回」を伴う世界の表象の重要な変化を示しているように、インターネット技術の発展を通じて、新しい社会的表象を導く世界に対する表象の変化、情報や知識を拡散する方法の変化、基本的な科学書を読み、古代の文化に敬意を払うことといった特徴を有するサイクルを仮定するならば、私たちは、維持可能な開発の問題に直面しているグローバリゼーションが新しい歴史のサイクルに入ったことをぼんやりと認識しているとの視点が存在していた。
繰り返しになるがグローバリゼーションは「アングロ・アメリカンの言語」による支配を伴っており、それはインターネット上に最もよく表されており、1996年には世界のウェブページの75%が英語で書かれていたが、2003年にはこの比率は45%に低下しており、インターネット上ではいくらかの言語の多様性が確認されている反面、世界に6,000ある言語の大多数がインターネット上に表れていないといった事実や、英語の優位性はさらにヨーロッパの公共機関や特に欧州委員会で感じられており、2001年には、欧州委員会によって受け取られる文書の56.8%が英語で書かれており、29.8%がフランス語で、4.3%がドイツ語で、8.8%が他の8つの欧州の言語で書かれていた事実や、欧州連合の人口のわずか11.6%が第一言語としての英語話者で、他方12%が第一言語としてのフランス語話者で、18%が第一言語としてのドイツ語話者である事実や、ユネスコによれば、世界で話されている約6,000の言語の内2,500の言語が今日危機に瀕しているが、オルター・グローバリストや様々なプロジェクトを通じて、リベラルな世界化の媒介者として振る舞うアングロ・アメリカンの言語による支配に対する闘いが試みられていたとの視点が存在していた。
言葉の用法について、完全にグローバル化に反対し、グローバルな相互依存を減らしていく立場は反グローバル化運動と呼ばれており、例えば新自由主義に反対し、他のグローバル化を支持するような狭い意味でのグローバル化に対する批判は反グローバル化運動と区別されており、フランス語のオルター・グローバリゼーション等が挙げられるが、しばしば不正確にその言葉が用いられていたことが指摘されていた。
1997年の多国籍企業の広範な権利を示す、他国間投資保護協定(MAI)に関する最初の原案に対してカナダ、アメリカ、フランス、いくつかのアジア諸国の非政府組織は強く批判しており、とりわけハリウッドの商品との自由競争に晒されるため、フランスの文化産業は「MAI」を危険なものと感じていたとの指摘が存在していた。また1997年7月に生じたアジア通貨危機は「新自由主義的グローバル経済」に対する批判的な意識を高め、ル・モンド・ディプロマティークの編集総長であるイグナシオ・ラモネは1997年12月に社説の中で「市場の武装を解除せよ」と述べ、2001年のヨーテボリで行われたEUサミットに関して、2001年6月14日に20,000人以上のグローバル化に対する批判者たちは「ブッシュは歓迎されない」といったスローガンの下に集まっており、2001年ジェノバでのG8サミットではイタリア政府による運動の監視に対してメディアや一部の政治家は「内戦のような状況だ」と警告していた。
多くの国際的なネットワークによるグローバル正義運動に関して、ル・モンド・ディプロマティークの中でイグナシオ・ラモネによって述べられた考えとは、「トービン税」と呼ばれる国際的な「連帯税」を導入するために、NGOによる幅広い呼びかけによって、政府に圧力をかけることになり、それは、70年代の後半にアメリカの経済学者であるジェームズ・トービンによって提案された、国際的な資本取引に対する0.1%の課税を指していた。
国際農民連合であるビア・カンペシーナによれば、農業政策、農作物に関する遺伝子工学、特許法に焦点が当てられており、農民組織による食糧に対する主権の支持や個々の地域は世界において地域の農産物を通じて地域の人口を養っていくべきであるといったことを意味した地域の食糧安全保障のため農業の輸出志向に対する反対の見解が述べられていた。
多くの著者たちによって、現在のグローバル化を通じて先進国が東欧ブロックや途上国から利益を得ているだけでなく、他方で貧困や依存、自己決定権の制限をもたらしていることが批判されており、世界の全ての国々においてグローバル化や新自由主義から利益を得る人々と損失を被る人々が存在しており、国家とは、消費や生活のような人々の振る舞いによって引き起こされる問題を分離することに関して一層の困難さを抱える人工的な産物であることが明白になっており、世界経済は市場のグローバル化に伴う競争の激化の中に存在しており、国家がわずかばかりの整備された社会システムによって救われることはないとの批判が存在しており、「競争」や「国家予算の再編」のような議論とともに世界的な社会的果実(健康、教育、労働、最低賃金、年金、児童労働からの保護、女性の人権等)は削減されているとの視点が存在していた。
グローバル化の負の側面は中産階級や下層階級における購買力の変化や財政状況、個々の国民国家や全体としての世界人口における窮乏化を含む統計によって補強されており、全体の窮乏化が加速する現象は本質的には飽くなき利潤の拡大を目指す資本主義の当然の帰結であり、グローバル化は窮乏化のエンジンではないが、社会的倫理的に疑念を挟まざるを得ない世界人口の発展における触媒として作用しており、社会経済の基準や生活条件の変化はしばしば底辺への競争といった専門用語で語られ、私たちは人工的に造られた社会経済上のダーウィニズムや固有の原動力の中にますます巻き込まれていくことになっているとの視点が存在していた。
国際貿易において中央・南アメリカにおける園芸を例に取ると、バリューチェーンや技術革新に対する保護や活性化のための規制は与えられておらず、ビジネスモデルを通じて特許の間違った保護を維持しており、財産権の所有者は第三者を通じて彼らの考えを発展させることに関心を抱いておらず、財産権の所有者は関連した技術革新の発展を可能にする権利に対する損失を受け入れる必要が生じているとの視点が存在していた。
全ての国家による国際的な枠組みへの関与を支持し(例えばいわゆる「トービン税」を通じた資本移動に対する課税が挙げられるが、その効果はしかしながら経済学者たちの間で議論を呼んでいた)、社会の最低水準を保障し、人々の自己決定権を保障することを促し、途上国に有利になるような国際貿易協定や世界銀行やIMFといった機関における変化を促し、途上国が経済的な独立を達成することを可能にするように、貸し手となった機関がその条件を撤回することが求められていたが、経済的依存関係は輸出を強制することを促し、それによって国家に管理された経済政策は妨げられているとの視点が存在していた。
グローバル化の批評家たちは良い(生産的な)資本と悪い(非生産的な)資本のように金融資本を分割する批判を通じ、拒絶されることのない1つの立場から資本主義を批判する方法を採用しており、資本主義は弊害ではなく、新自由主義が弊害であると主張していたが、経済的次元のグローバル化に対する批判に対して、ドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックは「グローバリズム」とレッテルを貼り批判しているにすぎないと述べていた。
マーカートはハンナ・アーレントの意味でグローバル化の批評家たちは新たな始まりを模索していないと述べ、例えば新自由主義者であるマーガレット・サッチャーが「代替案は存在しない」と明らかに表明したことに対する代替の場を提供するならば、あなた方はより効果的で何かより公平な行政に対する疑問、言い換えればより良いグローバル化の管理に行き着くことができるだろうと述べ、これは過去の枠組みを変更する対話であるが、アーレントの意味で非常に非政治的なものであり、政治は想定される必要性だけでなく、新しく全く未知の始まりに基づく「自由の領域」(イマヌエル・カントの倫理によって示されている)における創造的思考にも従わなければならないとの視点が存在していた。
アカデミズムの世界では、社会運動の国境を越えたネットワークやグローバル正義に対するより一般的な要求を強調するためにグローバル正義運動について話が交わされており、他方フランスでは、オルター・グローバリゼーションの名称は反グローバル化の代わりに用いられる傾向があり、肯定的な活動を擁護する含意を示唆しており、グローバル化自体の概念ではなく発展しているある種のグローバル化に対してその拒絶が反対につながるといったことをそれは明確に強調する傾向にあったことが指摘されていた。
この運動は福祉の危機、大衆政党の危機、国家間の経済障壁の低下、製造業の移転、第三世界での労働の搾取、独占や企業の力の強化、経済や金融の世界における市民による政治的コントロールのゆっくりとした消失を背景にしており、その政治活動の技術は、他の民主的な政治力と比較すると、選挙に勝利することを目的としたコンセンサスの伝統的な集合と異なっており、階級闘争が必然的に収斂するだろう政治活動の時期を武力闘争の中に見出していたマルキストの教義からははるかに遠いものとなっており、運動のための政治闘争の道具は実際のところ主に不買運動、デモ、反論(メディアでの活動)、エネルギーを考慮した環境的に維持可能なライフスタイルを含んでいるとの視点が存在していた。
反グローバル化運動は世界中の作家や知識人の作品によって触発され、カナダのジャーナリストであるナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』といった著作は一部によれば運動のマニフェストであると考えられており、巨大産業の利益によって脅かされる現地の人々の自己決定権や生態系に対する敬意のために闘っているインドの知識人であるヴァンダナ·シヴァの著作や議論への参加は運動にとって説得力を増すものにさせると考えられ、フランスではル・モンド・ディプロマティーク紙が反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、それはATTACの登場と人気について好意的であり、アメリカの知識人であり言語学者であるノーム·チョムスキーは反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、同様に小説家でありエッセイストであるエドゥアルド・ガレアーノ、アメリカの詩人であり音楽家であるベック・エリザベート、マルクス主義の社会学者であり神学者であるフランソワ・ウタールが運動に肯定的であるとして挙げられており、またそれは例えばアメリカの経済学者であるジェームズ・トービン(資本取引に対する課税といった提案、トービン税はATTACの運動を触発していた)やジョセフ・E・スティグリッツを含んでおり、著作権に関する問題では、フリーソフトウェアやオープンなコンテンツの支持者であり、共有の実践として倫理的そして政治的に意味のあるものに寄付を行っていたリチャード・ストールマンの見方を主に共有しているとの視点が存在していた。
前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツ、イタリアのWikipediaの「世界化」、「グローバル化に対する批判」、「ノー・グローバル運動」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Globalisation
世界化
世界化は、世界における国家、人間の活動、政治システム間における相互依存の拡大や調和を指していた。この現象は一時的にせよ大部分の分野における人々に影響を及ぼしていた。それは財、労働、知識の国際貿易や移転を扱っていた。
この用語はとりわけ人間環境にとって今日しばしば経済の世界化やインターネットのようなデジタル形式の情報の世界的な拡散によって誘発される変化を示すために用いられていた。
1 定義
「世界化」という用語は1959年に初めてエコノミスト誌の中に登場し、その後フランスのル・モンド紙の中に登場していた。この用語は1960年前後に造られていたが、10年〜20年間使用されていなかった。「世界化」という用語が鮮烈な成功と使用を伴ったのは1980年代から1990年代以降のことだった。それは、世界的な財、サービス、労働、技術、資本の移動を含むフローの増加を意味しており[1]、1928年に登場した「世界化する」という動詞から派生していた[2]。それは元々冷戦時代の地理的ブロックを超えた工業製品に対する市場の拡大の動きを意味していた。長い間学術分野に限定されていたが、それは、最初にマーシャル・マクルーハンによって造られた「地球村」の登場に伴う理論の影響下で、1990年代に広まり、特にその現象の大きさに対して名前によって喚起を引き起こすことを狙った反世界化やオルター・グローバリゼーションに対する変更の運動を通じて広まっていた。
英語圏では、グローバル化という用語の普及や包括的な用語としての使用は学術的な議論で際だっていた。その用語が世界規模での相互依存の発展を示していることが現在では受け入れられていた。一般的な定義から、あらゆるアカデミズムの主流派が最も関連性が高いと思われる側面にフォーカスしていた。例えばマニュエル・カステルなどの一部の研究者たちは経済的、社会的側面との関係に焦点を当てていた。ジョン・アーリのような他の人々はすべての人間の交流を特徴づける複雑性(経済的、文化的、政治的)にフォーカスしていた。同様に用語やその普及は、ヤン・ネーデルフェーン・ピーテルスやその雑多な概念が示しているように、発展の問題に関連していた。英語圏の研究者の間で起こっていた論争は世界的な議論を反映していた。アーリはイギリス人だが、カステルはスペイン人であり、ピーテルスはオランダ人だった。
グローバル化や世界化という用語やその意味はその発言にまつわる思想の学派やその観点から定義されていた。
これらの問題を専門にしている地理学者であるローラン・カルーエはこれらの2つの用語に対してより明確な違いを求めていた。彼にとって世界化とは世界における地理的広がりに対する資本主義システムの歴史的拡大のプロセスとして定義されていた。彼はグローバル化に対する非常にあいまいな用法を批判していた。
1.1 起源と進化
これらの2つの用語の区別はフランス語特有のものだった。アメリカでの元々の語はグローバル化であり、他の多くの言語によって採用されていた。イギリスでは、グローバル化や世界化に対する異なったアプローチは異なった思想の学派によって探求されていた。英語圏におけるグローバル化という用語は仏語圏における異なった意味と同様の議論を主にカバーしていた。仏語圏のように、帰属、是非に対する意識、思想における学派に依存しながら、この用語に対し異なった人々は異なった意味を与え、経済、文化、政治の側面にフォーカスしていた。
語源的な観点によれば、世界や地球は、世界化やグローバル化がフランス語の中に最初に登場したときに同義語であった程度に十分に類似していた(最初は1964年であり、次は1965年であった)。
しかし英語における「グローバル化」に対する集約や世界化の特徴は意味論的に多様化していた。
フランス語では「グローバル化」という用語はあらゆる人間の活動に対する経済合理性を示唆するものに拡大されており、地球の限界が議論されていた。「世界化」という用語は文化、政治、経済、他の国際移動の拡大を意味していた。このためその表現は航空機、宇宙飛行機(衛星)といった手段によって世界を地球全体に近づけており、各々の文化(中華圏など)に固有の意味を与えていた。しかし「金融のグローバル化」という用語は統合された世界的資本市場の形成を説明するために登場していた。さらに生物物理学的環境の中に存在している問題は世界的に直面せざるを得なかった。産業の発展や人間活動による気候変動、生物多様性の損失、森林破壊、汚染は世界規模の経済、文化、政治上の活動の相互作用の例だった。
1.2 世界化
一般的に、世界化という用語は歴史的なプロセスを示しており、そのプロセスによって個人、人間の活動、政治構造は、相互依存や物質的もしくは非物質的な交換を地球規模において拡大してきた。またそれは経済における相互依存の拡大を含み、貿易や人間の相互作用の拡大を促してきた[3]。
1.2.1 世界化
この用語の起源は、このプロセスが経済の世界化や財・サービスの貿易における発展といった側面の1つとして非常に頻繁に考慮されてきており、1980年代後半以降の世界規模の金融市場の創造を通じて加速されてきたことを説明していた。また以下の事項を付け加えることにする。
世界人口の大部分が時として非常に離れた人口の文化にアクセスすることをもたらし、世界レベルでの文化の多様性の中に先進国の意識を定める文化的側面[4]。
国際組織やNGOの発展によって代表される政治的側面[5]。
ワルシャワ大学やリーズ大学の社会学者であり名誉教授であるジグムント・バウマンによって要約される世界化の社会学的側面。「世界化を避けることは不可能であり、元に戻すことも不可能であった。私たちはすでに地球規模の相互作用の中で暮らしていた。あらゆる場所で生じうるあらゆることがあらゆる人々の生活や将来に影響を及ぼしていた。人がある場所で採用された対処を評価するとき、残りの世界における反応を考慮する必要があった。広大で、人口が集積しており、豊かであり、いかなる主権が行使される領域であろうとも、それ自身の生活状態、安全、長期の繁栄、社会モデル、住民の存在を保護することができなくなっていた。私たちの相互依存は世界中で織り成されていた(…)」[6]。
地理的側面。世界化は今日ローラン・カルーエのような多くの地理学者によって研究されている空間的な状況だった。それは世界の標準化や領土の喪失というよりむしろ領土の階層化や大きな2極化をもたらす統合と分断の2重のロジックを指していた。
厳密に言えば、それは世界化のことを話すのが妥当であるが、関連する分野(経済、文化、政治)や想定されていた歴史的な時代を喪失させていた。
1.2.2 それは避けることができないものであるのか?
世界化のプロセスにおける避けがたく当然である特徴はしばしば先行するものであった(前述の引用を参照せよ)。
しかし極左運動による「信念」によって示されるこの考え方は、現象の商業的そして金融的な側面を良く眺めると、微妙な差異を存在させていた。事実一方で「1913年の世界生産における輸出のシェアは1970年の水準を超えておらず、それ以降停滞しており」、他方で「実際の純資本流入は20世紀初頭より小さいものであった」[7]。
このようにフィナンシャル・タイムズ紙の編集委員であるマーティン・ウルフは「世界化が神話でないのならば、少なくとも言葉の乱用である」と述べていた[8]。
1.2.3 世界主義
もし世界化が実際に行われているプロセスであるならば、世界主義は1つのイデオロギーであった。世界化の避けがたい特徴や国民国家の構造との不一致をこのことは主張しており、その固有の特徴は人道主義を通じて世界政府を設立することによって平和を永続させることをもたらすことを望んでいた。しかしながらそのような世界化は人工的なイデオロギーを形成していなかった。それは、新自由主義から極左の国際主義に至るまでの幅広いイデオロギーの中に見受けられていた。
新自由主義の採用に関する用語の意味のシフトは反グローバリゼーションやオルター・グローバリゼーションという用語を生み出し、世界化のプロセスを制限し、その内容を修正することを考慮した思想の潮流を示していた。
1.3 世界化の概念
世界化が地球的規模の現象になって以来、その定義を求めるようになっていた。「一体化」と「対立や多元性」と言われている2つの概念がこの現象の説明を巡って衝突していた[9][10]。
1.3.1 一体化の概念
一体化の概念によれば、世界化は単一の世界を示しており、世界は地球規模の村や国境のない世界を形成している。これは地理的、イデオロギー的、経済的アプローチに含まれていた。この見解は国際機関や組織(IMFやWTOを含む)によって支持されており、現在のイデオロギーによれば特に世界主義において顕著であった。それは同様に一部のアナリストによって共有されていた[11]。
世界の統合として世界化を定義すると、そのことは文化、技術、経済(世界経済の統合)の相互浸透を意味していた。したがって世界文化、世界文明、世界政府、世界経済のような表現は世界市民がますます必要とされることを認識していた。
もし、世界化に対する一体化のアプローチが21世紀の利点を有しているならば(例えば、物理的統合を促す技術の進歩や革新、資本移動の拡大や国際化、資本主義、単一の経済システム、世界経済の中心の位置づけ)、しかしながらそれは市場経済や資本主義への融合に対する批判をとりわけ引き起こしていた。
世界化を世界の統合とみなす考え方は同様に世界平和や国境の完全な撤廃を達成するためにさらなる開放を支持する知識層の立場を含んでいた。しかしながらこの考え方は人類の中に希望の火を認めている点で有利な条件を有していたが、一方で世界化に対する別の意味を無視している点でまだ限定的なものであった。
1.3.2 対立と多元化に対する概念
一体化の概念と反対に、対立と多元化に対する概念は、世界化の実際の形態を私たちの問題の源であるとみなしていた。それは、世界化における現在の形態にともなう基本原則として、競争的なアプローチよりむしろ協調的なアプローチを強調していた。この見解の強い支持者たちは現在のオルター・グローバリストたちであった。それは同様に一部の独立したアナリストたちによって共有されていた。世界化に対するこのアプローチが提起している問題は、異質なもの、調和しないもの、分断されるか統合されるか、秩序を保つか保たないか、不平等なもの、排除されるか連帯するか、支配するか搾取されるか、イデオロギー上の対立や人間関係が力関係によって支配されていることであった。
多様な側面を有するこの現象の多様な要素をやや明確に理解するための有利な条件をこの概念は支持者たちによれば示していたが、一方は単一の視点で構成されていた。オルター・グローバリストたちによって擁護される中、この概念は一般的に経済理論や社会主義に近い労働問題として把握され、特に多くの貧困層を擁護していた。オルター・グローバル主義における展望は人々の競争よりむしろ協調にあった。
2 歴史
「世界化」という用語が最近のものであるならば、それは歴史上の異なった期間を示しており、それゆえ幾つかは古いものになる[12]。
2.1 古代
最近まで議論されてきたことだが、古代に世界化に類似したある種のプロセスが行われていたという考え方が研究者の間でますます認知されてきている。
私たちは紀元前2000年に遡りこのプロセスの初期の形態を認めることができ、肥沃な三日月地帯を経由してインダスからミノア文明に広がる広大な商業地帯が例として挙げられる。この最初の試みは紀元前2000年代後期のインドヨーロッパの侵略者たちによる交易の停止によって短命に終わった。
2番目の試みは、フェニキアやギリシアの植民地、インドの各都市間、ジブラルタルとガンジス川の間で間接的な商業上の接触を確立したペルシア帝国の建国から生じていた。ギリシア人はヘロドトスやさらにペルシア大王の医師であるクニドスのクテシアスとの関連から見た世界の範囲を十分に認識していた。
古代の世界における商業面、文化面、外交面の統合のプロセスが終焉を迎え、ペルシア帝国が崩壊したことから離れて、ヘレニズム時代における国家の形成は大幅に進化していた。そしてヘレニズム時代における「世界化」は現代の世界化と同様の多くの特徴を有していた。
人口集団の混合:アレクサンダーの征服の結果、ギリシア人はペルシア帝国中を移動していた(特にバクトリアで)。その結果、ギリシア人、エジプト人、ユダユ人、東洋人はアレクサンドリアのような世界的な都市を形成していた。
世界文化の構築:コイネーが共通語になり、ギリシア文化が非ギリシア人を呼び寄せる普遍的な文化になった。ウェルト・リテラトゥーラ(インドや仏教のテキストを含むアレクサンドリアの図書館)の設立にそれはつながっていた。
貿易の激化や世界化:主にペルシア人によって蓄積された流動性をアレクサンドロスが投入したことにより、貿易は特に盛んになった。他方で、すべての帝国の権威の消失が税関の障壁を損なうよう作用していた。また「世界化した」経済に関する多くの典型的な現象が出現していた:ギリシア人は仏像をインドで制作し、日本にまで輸出していた。
多国間主義:多かれ少なかれ大きさや力において等しい国家を設立し、それは健全な競争を促していた。
技術革新:科学的発見や技術進歩に関し、以前からシラキュースやアレクサンドリアに匹敵するものは特になかった。
2.2 17世紀以前
17世紀以前の人間は現代とは異なった世界を代表していた。地球は7億人以下の人口を抱えていた。それゆえ実際の世界化について語ることはできなかった。
しかし大きな政治的、文化的出来事が歴史を彩っていた:
ローマ帝国の拡大、中国の統一、人口の大移動。
6世紀からのビザンチン帝国の拡大(ユスティニアヌス帝)。
9世紀におけるカロリング朝の形成や10世紀におけるムスリムの拡大。
ヨーロッパにおいて10世紀後半には貿易ルートが開拓され(ピエール・リッシュによれば、ヨーロッパという用語は用いられていなかった)、12世紀にはシャンパーニュの市が起こり、中国では宋の下で繁栄がもたらされていた。
中国はアフリカへの航海を1415年から1433年の間に行っていた(提督は鄭和)。
15世紀のルネッサンスは北海、バルト海(ハンザ同盟)の海上貿易を伴っており、それはスペインを経由して北海とイタリアの港の間で行われていた。16世紀には大発見が伴っていた。
これらの交易は文明間の経済的、技術的、文化的交流同様によく知られた空間的拡大を伴っていた。
これらの時代における財の貿易に関する研究は、19世紀の歴史学が中世後期までの離れた文明間における物質的、文化的交易の意義を過小評価していることを示唆していた。例えば:
シルクロードは13世紀以前に存在していた。
バルト地域とローマとの間で規則的に行われた貿易の証拠が存在していた。
ギリシアの壺が中国で発見されたことは古代において商品や思想が世界的に移動していたことを認めていた。
私たちは同様にアフリカのイスラム化におけるアラブの貿易ルートの基本的な役割を実例として与えることができた。
9世紀頃インドとアラブ世界の交易が同様に存在しており、それは1000年から始まる10進法の位置番号システムをヨーロッパに徐々に導入させることを促していた。
15世紀から16世紀にかけてルネッサンスの動きは大きな変動の要因となっていた:印刷が登場し、ヨーロッパは大きな発見を行っていた。
啓蒙運動の時代に、印刷の普及、地動説の発見、工業化と植民地化は他のタイプの変動を導いており、モンテスキューはこれらの用語を用いて分析していた:「今日私たちは私たちの父からの教育、私たちの師からの教育、私たちの世界からの教育のように異なったもしくは正反対の3つの教育を受けている。最後に述べたことは最初の考えを打ち消すものである」[13]。
2.3 産業革命
歴史家にとってフランス革命から第一次世界大戦に至る19世紀は産業革命によって特徴づけられていた。その後、輸送コストの低下、蒸気エンジンの普及、電信によるコミュニケーション・コストの低下を続けることができた。これらの2つの要素は世界の異なる部分における相互通信を可能にし、人間、財、知識の大規模輸送を可能にしていた。
19世紀は同様に世界的に大規模な人口の移動を経験していた。ヨーロッパでは、農業革命が田舎から農民を遠ざけていた。都市は、1750年から1900年にかけて4倍になった旧大陸の人口を困難を伴いながら吸収していた。西欧人は世界中に大規模に移住していた(アメリカ、オーストラリア、アルジェリア…)。これらの人口の移動は世界の労働の分布を大幅に変化させていた。
経済的に、工業化は先進国と途上国との間で工業製品を貿易することの発展を可能にしていた。植民地化は植民地からヨーロッパへ原料が流入する結果を促していた。これらの貿易の影響はしかしながら世界的な移住によって誘発されるものと比較すると低いものであった。
植民地化は同様に共通の政治空間で世界の大半が統合されることに影響を及ぼしており、植民地同様に諸国間で資本がシフトすることを促していた。
文化の分野では、オリエンタリズムやジャポニズムに対する旅行本や流行の多様化が他の文化に対するヨーロッパの想像力を刺激していたが、しばしばそれ自体植民地化によって損なわれていた。ヨーロッパの技術のおかげでジュール·ヴェルヌはフィリアス·フォッグに80日間で世界一周を行わせていた。当時、世界主義は国際的な寄付とともにマルクス主義に基づいた見方による最初の表現を考え出していた。
2.4 「短い20世紀」のカオス[14]
20世紀初頭は世界貿易に対する不信によって特徴づけられ、世界化のプロセスを犠牲にして多くの諸国に落ち込みや停滞をもたらす結果となっていた。
その現象は貿易や人間の交流が最も重要であった場所で始まっていた。ロシア革命がヨーロッパから重要な貿易相手国と金融機関を奪った一方、移民割当法によって(アジア人に対しては1911年、他の人口集団に対しては1921年に)アメリカが突然最大の移民を受け入れる姿勢を放棄していた。
大部分の国々が経済を保護するための重要な障壁に直面していた。物質的、金融的取り引きに対するこの突然の障壁は1930年の危機にとって不可欠な要素であり、それはほとんど全ての世界化にとってブレークポイントとなっていた。
このプロセスの拒絶は、国際連盟の崩壊や排外主義に変わる外国文化や外国人に対する拒絶を伴いながら、政治問題に拡大し、単なる経済的な枠組みを超えるものになっていた。
もし20世紀初頭の世界化がスローダウンしていたならば、20世紀後半の世界化はこのプロセスを刺激し加速させるものであった。1945年以降、それは分野にもよるが非常に不均一なものであった。ヨーロッパの再建、ソ連圏の登場、脱植民地化の動きは財やサービスの取り引きの範囲を制限していた。世界化はむしろ国際組織である国連、世界銀行、IMF、GATTの創設を含んでおり、同様にアメリカからの文化的製品、特に映画の普及も含んでいた。
世界化という用語はすでに用いられていたが、世界GDPのシェアで財の貿易が1910年の水準から脱し、実質的な経済上の世界化をもたらしたのは1971年以降のことだった。低い輸送コストに支援され、世界化は世界貿易の80%を占めている豊かな国々と新興工業国(韓国、台湾、ブラジル、アルゼンチン…)との間における製品の貿易の発展を本質的には意味していた。コメコンの中でも、計画経済は世界の他の国々と対峙しながら主に隔離された状態で、製品の貿易を促進していた。
1980年代初頭、広大な地理的区分(アフリカやアジアの大半)において、第1次産業(農業)や第3次産業(サービス)は経済的世界化のプロセスの外に置かれており、人の移動も低い水準だった。さらに情報通信技術の改善や外国投資に関する法律の緩和が国際的な金融市場の発展を促していた。
アメリカの軍事的世界化:戦闘の統合部隊の地理的分布について。この世界的なプレゼンスは、地理的戦略や戦術に必要とされるアクションに適した形で、1947年以降のすべての軍事介入の基礎を形成していた。この米軍の展開はアメリカ帝国の存在に気付いた世界的な世論の形成に大きく貢献していた。
3 現代の世界化の諸相
現代の世界化はいくつかの点でアメリカ型モデルの覇権を示していた。ジョン・セビジャは以下のようにこの世界化を説明していた。「理念はアメリカをイメージしており、理論は市場、透明性、移動性を有し、根差すものがなく、国境が存在しない社会のために作られており、経済力は王でもあり隔絶された立場でもあった」[15]。
3.1 経済的側面
経済の世界化の影響に対する評価は考慮される国々の富によって対比される多くの要素を抱えていた。
3.1.1 富裕国
富裕国にとって、経済的世界化は2つの基本的な便益を有していた。1つ目は消費者に対し便益をもたらし、もし製品が国内で生産されているならば、消費者はそれより広い幅の製品(多様性)にそれより低い価格でアクセスすることが可能であることを示していた。製品の豊富さは消費者社会にとって重要な視点になっていた。定量的にはこの影響は大きなものであり、中国の繊維製品の購入を通じ消費者に利益をもたらすことによって理解されることが可能だった。2つ目の便益は資本に利益をもたらされる資本家を対象としていた。
しかしながら富裕国は熟練労働者による労働集約的な産業の移転に直面し、富裕国間での競争を増大させていた。定量的には小さなものになるがこの影響は、ある個人やある地域に関連して産業を営んでいるが、その利益はその人々に分配されているといった問題を呈していた。言い換えると、途上国の非熟練労働者と競争している労働力の割合はわずか3%でしかなかった。
しかしながら中国やインドの科学技術の水準は西欧の水準を非常に迅速にキャッチアップしており、通信技術の高まりにより、労働力の直接的な競争は現在のところ中産階級(例えばコールセンターのアウトソーシング)やエンジニア(あらゆる主要なソフトウェア集団はインドに展開した支社を有している)を対象にしていた。
計量経済学におけるいくつかの研究は、労働の国際分業による富裕国の利益が損失(移転や産業の空洞化)を上回るとの結論を双方の側面が示していることを評価しようとしていた。経済の世界化が直面している富裕国の問題とは本質的には損失に見合った利益の分け前を与えることによって他の国々を補償するといった収益の分配の問題であった。
しかしながら一部の人々[16]はこれらの研究、これらの客観性、その著者とその結論を批判していた。これらの反対派は、世界化はヨーロッパの成長によって特徴づけられず、むしろ規制、社会的保護、税制、教育を通じて国々の間における悲惨な競争を背景にした不平等や環境被害(彼らの視点による)を生じさせ、ソーシャルダンピングや地域の社会運動に効力が存在しない状況(政治力は彼らに満足を与えることができない)を導くだろうと考えていた。この分析によれば世界化は「階級闘争」を妨げ、先進国での社会的保護を崩壊させる可能性があった。
3.1.2 新興工業国
アジア通貨危機までは新興工業国は経済の世界化における勝ち組と思われていた。熟練した労働力や低コストを利用して、彼らは、第二次大戦後のアメリカによって日本へ提供された財政援助のように、富裕国から多額の投資を受け、このことが近代経済や強固なシステムを構築し、貧困から脱出していった。しかしながらアジア通貨危機はパニックのような投機になりやすい金融市場への彼らの依存の程度を示していた。
これらの国々における経済の世界化のバランスは非常に対照的で、韓国や台湾のような国々は確実に富裕国の仲間入りをしており、他方タイやフィリピンは投資の波から回復するのに苦しんでおり、残りは概ね国レベルで世界化から便益を享受していたが、これらの収益の分配に関して非常に不公平であった(ブラジル、中国)。
3.1.3 貧困国
経済的に眺めると最貧国は主に世界化のプロセスの外に留まっていた。それらは実際に財産権が確立され、汚職がないことに加え、人間の生活(健康や教育)の点で、安定した組織を必要としており、それらはこれらの国々にはほとんど存在していなかった。彼らの主な経済的資源である農業は富裕国の保護主義的政策によって支配されたままだった。
3.2 金融的側面
第二次世界大戦後、金融市場は国ごとに規制され、分断されていた。IMFや世界銀行のような様々な主体(ワシントン・コンセンサス)の影響の下で、市場は「3つのD」と呼ばれる3重の進化を遂げており、規制緩和(為替支配や資本移動に対する制限の撤廃)、仲介なく金融市場に直接アクセスする中抜き、そして開放(存在していた壁を除くこと)が挙げられていた。そして1970年代後半から統合された資本市場が徐々に世界に導入されていった。
地理的側面から離れたので、新しい金融のためのロジックが生み出され、そういった理由で専門家たちは単に世界化というよりも金融の「グローバル化」と話していた。言い換えるならば、今日のグローバル化された金融の世界は世界経済の中に存在していた。
世界化は世界金融史上前例のない規模で拡大を続けており、それは主にインターネットを通じた情報端末によって生み出されていた。
金融のグローバル化はコーポレート・ファイナンスや支払い残高に対する融資を促していた。資本移動に対する障壁を取り除くことは金融市場において前例のない拡大を促していた。しかし現代の国際金融におけるゲームの本当の勝者は特に多国籍企業、国有財産、金融機関や機関投資家であると気付く必要があった。
金融市場の発達に対する主なリスクは以下になる。
市場の変化が増大し、金利や為替レートの不安定性の原因となっている。
重大な経済的損失や信用の損失によるシステマティックなリスクが経済全体にさらに容易に波及する(ドミノ理論)。
金融のグローバル化は新しい不安定性を生むことにより新たなリスクを生じさせていた。国家や各機関(IMFや世界銀行)は大きな危機に対して何もできないことを示していたので、このグローバル化をコントロールする問題が今日生じている。
世界的な規制は現在のところ達成できないように思われていた。ジェームズ・トービンによって提唱された税を導入するべきか。国際機関を改革することができるか。国家は共通の基盤を大きなシステムにおける危機のために見出すだろうか。
3.3 文化的側面
情報ネットワークや共通のコミュニケーション[17]に多くの個人がアクセスする現状は2つの影響を導いていた。
1つ目は文化的多様性とすべての個人の相互依存に対する認識の高まりであった。情報源の多様化を背景にして、このことは環境や世界の課題に対するより良い理解を通じて表現されてきた。世界の文化的遺産はその容貌を変えてきていた。ユネスコは文書化を促進し(世界リストの保存)存続を願う(人類の無形文化遺産)印象をまとっていた。少数民族の文化(ネイティブ・アメリカンやブッシュマン)は同様に可視性を見出されることが可能であり、国際的な次元で問題はキープレーヤーとしてNGOの台頭を眺めていた。同様に宗教と哲学の強力な混合は世界教会主義や異教徒間の対話を促進していた。しかし逆に、相対主義の拒絶に基づいた共同体のアイデンティティやある文化の別の文化に対する優位性の主張が付随して成長してきた。
2つ目は英語であるが語彙の少ないバージョンである「コミュニケーションのための英語」(時として世界における英語を示すためにグロービッシュと呼ばれる)の使用によって特徴づけられるある種の「共通文化」の出現であり、文化的産物(映画、音楽、テレビ、情報)やライフスタイル(西洋のスポーツ、イタリアン、チャイニーズ)によってもたらされるアメリカや西洋の文化になる。一部の人々は文化的多様性の損失のリスクや経済や社会関係におけるある考え方の支配のリスクを眺めていた。普遍的文明といった用語はそれ自体論争の対象になっていた。アングロ・サクソンの世界を含めると一部の作家たちはアングロ・アメリカの言語帝国主義を語ることを躊躇していなかった[18]。
ある作者たちは、主人公の思想的優位性を高めるために、文化によって伝えられる影響についての闘争や対立を呼び起こすことを躊躇しない。例えばダニエル・リンデンベルクによれば「ネオコンによって理論化された文化の戦争は始まったばかりである」[19]。中小企業のための易しい輸出の中でブリュノ・ベルナールのような作家たちはフランス語圏をフランス語話者の大きな財産としてみなしているが、それはしばしばフランス語話者自身によって無視されている[19]。
3.4 組織や政治の側面
規制の在り方で国家の国際的優位性を与える世界化は16世紀に始まった経済統合における世界的現象やタイムスケールを通じた地理的そして漸次的政策の不均一なプロセスの加速として眺められていた。それは組織に対する新たな課題や世界の政治的権力の新たな分布を生み出し、国際システムの凡庸な概念に疑問を投げかけていた。
3.4.1 国家の周縁化
公共政策の伝統的なツールである課税や規制は地球規模でその効果を失っていた。そしてそれらの実施は多くの国々の協調を求めていたが、常にその協調を手に入れ維持するのは難しい作業だった。
世界化は経済主体、情報伝達の方法、資本のフローを生み出しており、その大きさは国民国家の構造がコントロールできる大きさをはるかに超えていた。国際関係が国家の利益を代表する規制によって支配されていないので、結果として多くの政府はこれらの現象に対する無力感を嘆くのみだった。ヨーロッパのレベルでは、制度の単位の中で経済主体の標準的な類型を定義するために、国民経済を調和させるいくらかの意欲が存在していたことに留意すべきである。
3.4.2 国境を越えた主体を作る役割
世界化の最近の加速は国境を越えた主体の多様化や強化を導いていた。それは国際機関(世界銀行、IMF、OECD、世界経済フォーラム、G8)に彼らの言葉や行動を再定義するように求めていた[21]。
NGO(非政府組織)はその空白を埋めようとしていたが、世界の市民を代表していると主張するための正当性を欠いていた。彼らはしばしば偏向的な主張によって代弁され、彼らの活動としての業務において透明性を著しく欠いていた。
彼らとしては、例えば労働組合は世界化のアプローチによって労働問題を主張する意義を認識しており、国際労働組合総連合で共に連携していた。
3.5 人間と社会の側面
今日、世界人口の約3%が出生地の外の国で生活している。世界の70億人を考慮に入れると、祖国を離れた移民は約2億人とされている。
3.5.1 移住
永住のための人間の移動は世界化から除外されていた。2002年にアメリカは史上最大の移民数を歓迎していたが、人口に対する比率は1920年代の比率より低かった。そして世界中で人口の移動が数量として低下していた。国際的に維持可能な移動性は好ましくないままであり、戦争によって移動させられるか、能力を活かして報酬を求めるより良い訓練を受けた人々の特権になっていた。
3.5.2 所得の不平等
世界化は先進国の間での(雇用者と被雇用者、能力のある人々と能力が不足している人々)または先進国、途上国、貧困国の間での所得不平等を強調していた[22]。
現在この所得の不平等はライフスタイルにおける最も大きな違いを反映しているという事実を隠すべきではない。
3.5.3 観光
生活水準の向上と移動コストの低下は国際観光の発展に貢献し、それは1950年の2,500万人から2000年の5億人に成長していた。しかし国際観光は他の富裕国を訪れる富裕国の国民で主に構成されていた(ある対極が受け手になり、ある対極が送り手になっていた)。貧困国への観光はしばしば少数の地域に限定されており、ホスト国全体の開発に対して比較的小さな影響しか及ぼしていなかった。
3.6 環境保護の側面
環境保護に対するリスクは同様にグローバル化されており、全体のバランスを脅かしていた。生態系危機のいくつかの側面は世界的に進行しており、特に気候変動や様々な特徴が挙げられていた:温室効果、海流の変動のリスク、生物多様性の損失、森林の減少等である。
生態系危機に対する意識は科学者たちにグローバルな生態系を考えさせるように促し、ルネ・デュボスの言葉によれば「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」となり、グローバルな生態系の専門家たちは生態圏や生物圏等について話をしていた。NGOに促され、世界のリーダーたちは地球サミットに集まり、維持可能な開発政策を定めていた。これらの政策は国土と企業を想定しており、人間環境、社会、経済といった3つの側面を交差させることを求めていた。
いくつかのアプローチは彼らの生態的、社会的、経済的特徴に従ってグローバルなリスクを取り扱う傾向にあり、京都議定書、気候モデル、IPCCでの作業、グローバルなリスクに対する基準[23](ウェブ上で利用できるグローバルなデータベースによって示されている)等が挙げられていた。
資源の問題に直面して生じた世界は1つであるといった意識は20世紀後半や21世紀初頭の基本的な特徴であった。いくつかの出来事は確かに経済、環境保護、社会において新しいミレニアムを示しており、環境問題は現在企業の責任になっていた。それらはNGOの発展の中で表現の場を見出しており(WWF、国境なき医師団等)、利害関係者の間でビジネス・パートナーになっていた。
グローバル化におけるこれらの問題は技術革新に対する政策の必要性を示し、そこで知識や知的財産権は純粋なコミュニケーションのためのツールより重要になっていた。
4 現代の世界化の特徴
20世紀後半と21世紀における世界化の形態は2つの基本的な要因に基づいていた[24]。
生産費用(経済的意味で)の違いの点で低い輸送コストは物質的な財産に影響を及ぼしていた。
より低い世界的なコミュニケーションのコストは金融を含めてデジタル形式の情報の拡散に影響を及ぼしていた。
4.1 物質的な財産の取り引き
1つ目の要因は労働の国際分業を説明しており、背景としてある国で日用品を生産し、輸送し、別の国で販売することが利益になるからである。生産プロセス全体に対するこの方法の一般化は(製品は異なった別の国々で多くの段階を踏みながら生産されている)貿易より強い経済的相互依存の深化を促していた。フランスとドイツがその例になる。これは本質的に19世紀に始まった現象の継続であった。
このプロセスは、途上国の製品同様、富裕国の間の関税を低減する意思を反映していた。GATTやWTOでの交渉はこれゆえ貿易障壁の十分な低減を目指しており、農業やサービスでのこのプロセスの拡大を導いていた。
4.2 情報の世界化
21世紀初頭の世界化に関する大きなニュースは開かれたり閉ざされたりする情報源に対する世界的な情報技術(ITCs)の発展になった。これらのツールにアクセスして、個人によって非常に差がある認識を伴いながら、世界化は国家や企業と同じくらい個人に影響を及ぼしていた。
この技術変化に対する最初の影響は経済の金融化や多国籍企業の発展につながった。国家間におけるコストの違いに関する最良の情報は、国際的に統合された金融市場の成立により、銀行の仲立ちなしに資本が移動することを可能にしていた。
純粋に金融的な要因と対照的に、ウェブ、インターネット、他のメディアのような情報技術の世界化は直接個人に影響を及ぼしていた。外国の文化的産物(日本の漫画、インドの映画、南米のダンス等)に触れることはもはやエリートの特権ではなくなっていた。そして世界的に文化の多様性に対する意識が高まっていた。
4.3 表象の変化
私たちは、維持可能な開発の問題に直面している世界化が新しい歴史のサイクルに入ったことをぼんやりと認識していた。
哲学者であるミシェル·フーコーは世界観に対するエピステーメー(認識体系)について話をしていた。私たちの時代は、彼によれば、新しい認識体系に入っており、それを彼は超近代性と呼んでいた。
歴史家であるルネ・レモンは、新しい社会的表象を導く世界に対する表象の変化、情報や知識を拡散する方法の変化、基本的な科学書を読み、古代の文化に敬意を払うことといった特徴を有するサイクルが存在していると考えていた。
例えば15世紀や16世紀のルネサンスはギリシア語やラテン語の著者に対して敬意を払った期間だった。それは芸術や技術に対する古代の文化の再発見を普及させ、活版印刷の技術をもたらしていた。啓蒙運動は「コペルニクス的転回」を伴う世界の表象の重要な変化を示していた。現代は新しい宇宙論やインターネットの発展と共に違った世界の表象を同様に形成していた。
4.4 アングロ・アメリカンの言語の優位性
世界化は「アングロ・アメリカンの言語」による支配を伴っており、それはインターネット上に最もよく表されていた。1996年には世界のウェブページの75%が英語で書かれており、英語はほとんど独占的に存在していた。2003年にはこの比率は45%に低下していた[25]。したがってインターネット上ではいくらかの言語の多様性が確認されていた。このことは、世界に6,000ある言語の大多数がインターネット上に表れていないことを妨げるものではなかった。
アングロ・アメリカンの言語による支配とは、アングロ・サクソンの世界を含む一部の著者たちが言語的帝国主義を語ることを躊躇しないような状況を指していた[26]。オルター・グローバリストよる組織は、アメリカの言語帝国主義と考えられる全ての英語を批判しており、英語はそこではリベラルな世界化の媒介者として振る舞っていた[27]。
アングロ・アメリカンによる言語の支配はアメリカによる多くの社会文化的影響からも明らかであった。アメリカは、経済、金融、科学、コンピュータ、レジャー(音楽、映画)に強い影響を及ぼしていた。この影響は英語を普及させ、外来語(英語的語法)を促進させる傾向にあった。
英語の優位性はさらにヨーロッパの公共機関や特に欧州委員会で感じられてきた。1995年の欧州連合の拡大以来、英語の使用はヨーロッパの公共機関においてフランス語のそれを上回っていた。2001年には、欧州委員会によって受け取られる文書の56.8%が英語で書かれており、29.8%がフランス語で、4.3%がドイツ語で、8.8%が他の8つの欧州の言語で書かれていた[28]。しかし欧州連合の人口のわずか11.6%が第一言語としての英語話者で、他方12%が第一言語としてのフランス語話者で、18%が第一言語としてのドイツ語話者だった[29]。
ユネスコによれば、世界で話されている約6,000の言語の内2,500の言語が今日危機に瀕していた。世紀の変わり目に世界の言語多様性に対する大きな危機が存在していた。
様々なプロジェクト(多言語や公平なコミュニケーションの言語としてのエスペラントを促進している)を通じて、この言語の支配に対する闘いが試みられていた。
http://de.wikipedia.org/wiki/Globalisierungskritik
グローバル化に対する批判
グローバル化に対する批評家は、グローバル化の経済的、社会的、文化的、環境への影響を批判的に検証していた。批評の1つは、あいまいな用語であるが「新自由主義」で示され、世界銀行やWTOのような組織によって世界的に促進されてきた経済システムに対して行われていた。
1 区分
グローバル化に対する批評家は、例えば政党のような組織であるATTACのような多くの様々な非政府組織(NGO)、あらゆる種類の自由な主体や、アルンダティ・ロイ、ジャン・ジーグラー、ナオミ・クラインのような個人を含んでいる。完全にグローバル化に反対し、グローバルな相互依存を減らしていく立場は反グローバル化運動と呼ばれていた。例えば新自由主義に反対し、他のグローバル化を支持するような狭い意味でのグローバル化に対する批判は反グローバル化運動と区別されていた(フランス語のオルター・グローバリゼーションや英語の反グローバル化、オルターや他等)。一般的な用語やメディアでは、グローバル化に対する批評家はしばしば不正確に反グローバル化の活動家として呼ばれていた。
主に批評は、「公営企業の民営化や社会扶助と人間性や非人間性に対する「再評価」を通じて」、包括的な商業化やマーケティング(商品化)と同様に、規制緩和や社会権の削減に対する追求に焦点を当てていた[1]。
2 歴史
グローバル化に対する批判は解放の神学や資本主義に対する初期の運動に根差していた。彼らの考え方を受け継ぎ発展させ、現在の表れとなっていた。
1990年代の終わりに向けてグローバル化に対する批判は様々な運動に展開していった。多くの旧植民地でグローバルな条約に反対する様々な運動や植民地の支配者(新植民地主義を参照せよ)に対する抵抗を継続する機関が存在していた。
ラテンアメリカでは北米自由貿易協定(NAFTA)の制定に対する1994年1月のサパティスタの反乱が挙げられていた。サパティスタ国民解放軍は、最初の世界的に組織された会合である、いわゆる銀河間の出会い(会議)を開催していた。またすぐに国家の大部分を席巻したチアパス州の蜂起が存在していた。「新自由主義」に対する抵抗を普及させる試みは当時主にヨーロッパやアメリカの学生による政治的に小さなグループに限定されていた[2]。
1997年に、多国籍企業の広範な権利を示す、他国間投資保護協定(MAI)に関する最初の原案を与えられ、抗議は国際的な世論へと広がっていった。カナダ、アメリカ、フランス、いくつかのアジア諸国の非政府組織はこの原案を強く批判していた。とりわけハリウッドの商品との自由競争に晒されるため、フランスの文化産業は「MAI」を危険なものと感じていた。リオネル・ジョスパン首相の下でフランス政府が試みたプロジェクトは失敗に終わっていた。
失敗の直後にOECD諸国やビジネスリーダーは、多国籍企業や外国投資に最大の法的確からしさを保証するために投資協定のための新しい制度的なフレームワークを見出したいといったことを発表していた。この声明と1997年7月に生じたアジア通貨危機は「新自由主義的グローバル経済」に対する批判的な意識を高めていた。ル・モンド・ディプロマティークの編集総長であるイグナシオ・ラモネは1997年12月にATTAC運動と呼ばれた社説である「市場の武装を解除せよ」[3]を公表していた。
グローバル正義運動における重要な出来事は、警察とグローバル化に対する批判者たちが激しく衝突した後、1999年12月にシアトルで開催された第3回WTO会議をぶち壊したことだった。シアトルの後、グローバル化に対する批判の活動は各都市で展開され、世界規模の普及を経験していた。
ヨーロッパ大陸では2000年9月26日におけるプラハでの世界銀行と国際通貨基金に対する抗議が幅広い動員といった点で重要だった。約15,000人に及ぶグローバル化に対する批判者たちは会議が行われるビルに対して3色で覆われる抗議を行っていた。黄色の電車はトゥーテ・ビアンケ等で、青色の電車はアウトノーメ等で、ピンクとシルバーはリズムズ・オブ・レジスタンス等であった。
2001年のヨーテボリで行われたEUサミットに関して、2001年6月14日に20,000人以上のグローバル化に対する批判者たちは「ブッシュは歓迎されない」といったスローガンの下に集まっていた。それは暴力に発展していった。警察がデモに対して発砲し、1人が胃を撃ち抜かれ重体となる事態に発展していた。
数週間後、2001年ジェノバでのG8サミットで、デモとイタリア警察との間に深刻な衝突があった。イタリア政府はサミットの期間にシェンゲン協定の効力をなくし、全ての国境を隙間なく監視していた。ジェノバでは20,000人の警察とカラビニエリが配備されていた。メディアや一部の政治家は「内戦のような状況だ」と警告していた。深刻な人権侵害が存在し、デモに対する監督権の濫用も存在していた[4]。数百人のデモ参加者が怪我を負わされていた。イタリアの活動家であるカルロ·ジュリアーニが警察車両を攻撃したとき、警官の1人によって撃たれ、SUVが2回転がる事態になっていた。グローバル化に対する抗議に参加した人々は70,000人から250,000人と推定されていた。
3 グループ
ヨーロッパや北アメリカにおいてグローバル正義運動は、新しい社会運動、特に第3世界や1つの世界における運動そして労働組合による運動に回帰していた。抗議に対する注目は、イギリスのリクレイム・ザ・ストリーツやシアトルのダイレクト・アクション・ネットワークによって触発されたグループによって活動の新しい形態を通じて達成されていった。オランダでは1960年代末にアムステルダム条約に反対する「反グローバル化運動」等が形成されていた。この目的のために1967年に今日のユーロダスニー・コレクティブが設立されていた。
3.1 NGO/自由な主体
NGOはグローバル正義運動において重要な役割を担っていた。彼らは規則的に反対や代替の会議を組織し、その批判を公開するために現代の情報技術を活用していた。NGOは異なった視点や異なったネットワークで活動していた。多くのNGOが「グローバル・ガバナンス」の考え方を体現する機関としての国連を肯定していた。ヨーロッパでは彼らは欧州連合に依存していた。批評家は本質的にロビー活動に焦点を当てているとしてNGOを批判していた。超国家的な組織、政府、企業に金融の依存が高まれば高まるほど、運動のラディカルな層による批判は大きくなり、NGOが資本主義者による経済システムを改革する可能性を主張する声が大きくなっていた[5]。
いくつかの分野においてこれらはそうすることができる限りしばしばNGOのキャンペーンを現地の人々と接触させる役割を果たしていた。西洋の文明、植民地化、グローバル化に対する現地の批判は現在数世紀にわたって続いていた。
3.2 労働組合
シアトルでの出来事以来ますます国際機関の会合に対して労働組合は結集されるようになっていった。ヨーロッパで初めて大規模に彼らはニースやブリュッセルにおけるEUのサミットに対する抗議に参加するようになった。そこで労働組合は個々のケースにおける分離されたデモを組織していた。双方のケースにおける大規模な参加はフランス労働総同盟(CGT)の組織力に依存していた。
国際的に新しい運動の側に立っていたのは主に中進国からのいくつかの労働組合による組織だった。これはブラジルの中央統一労働組合(CUT)や韓国の全国民主労働組合総連盟を含んでおり、それは1999年に合法化されていた。ヨーロッパでは独立左派や労働組合による組織はイタリアのSinCobasやフランスのCUD(連帯・統一・民主労組)のように推進力となっており、それは、1997年アムステルダムでのEUサミット[7]に際して失業に反対してヨーロッパを行進したとき以来、国民国家的なフレームワークに基づき攻撃的な政策を採用していた。
3.3 ネットワーク
3.3.1 ATTAC
労働組合やNGOに加えて多くの国際的なネットワークがグローバル正義運動の中に生じていた。ヨーロッパではATTACが知られていた。ル・モンド・ディプロマティークの中でイグナシオ・ラモネによって述べられた考えとは、「トービン税」と呼ばれる国際的な「連帯税」を導入するために、NGOによる幅広い呼びかけによって、政府に圧力をかけることだった。それは、70年代の後半にアメリカの経済学者であるジェームズ・トービンによって提案された、国際的な資本取引に対する0.1%の課税を指していた。ラモネによって提案された「ATTAC」という名前はフランス語のattaqueに基づき、グローバル化に適応する年月の後の「反撃」への移行を示唆していた[8]。
フランスではこれらの呼び名は進歩的な人々に影響力のある新聞に喜んで受けられていった。1990年代中頃の大きなストライキの波は新自由主義に反対するフランスの人々の批判的な意識を先鋭化させ、その国際的な波及は1997年後半のアジア通貨危機によって再度示されることになった。
ATTACの活動はトービン税や「金融市場の民主的なコントロール」の領域やその外にすぐに広がっていった。現在ATTACの活動はWTOの貿易政策、第三世界の債務、国家による社会保険や公共サービスの民営化を含んでいる。組織は現在多くのアフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカ諸国に存在している。
2000年にドイツでは多くのNGOの下で世界経済・生態系・開発(WEED)がドイツATTACのイニシアチブをとっていた。
3.3.2 他のネットワーク
ATTACの次に大きなグローバルネットワークはピープルズ・グローバル・アクション(PGA)になる。PGAはヨーロッパではグループで活動しており、メキシコにおけるサパティスタの政策を理解することによりその行動を決定していた。1998年2月にジュネーブで設立されたそのネットワークはあらゆるロビー活動に反対しており、その代わりに定期的にグローバルな「アクション・デイズ」を開催していた。関連している最大の組織はインドの農民組織であるKRRS[9]になり、それは約1千万人を擁すると主張していた。このネットワークは独自の行動を通じて注目を集めていた。それは自発性、自己管理、抵抗の原則に依存していた。ATTACと異なり公式の個人会員は存在していなかった。全ての大陸に責任のあるグループを配置し、それはアクション・デイズを国際的にコーディネートするために派遣され、国際的な会議の準備を行っていた。
国際農民連合であるビア・カンペシーナは特に南の国々で主要な役割を果たしていた。ヨーロッパではフランス人のホセ・ボーブと自由貿易に反対する彼の行動やマクドナルドの行動がよく知られていた。ラテンアメリカでは特にブラジルの小作運動であるMSTがセンセーショナルな土地占拠を通じて知名度を得ていった。ビア・カンペシーナは農業政策、農作物に関する遺伝子工学、特許法に焦点を当てていた。彼らの扱っている分野の中には特にWTOの政策があった。農民組織は食糧に対する主権を支持しており、地域の食糧安全保障のため農業の輸出志向に反対していた。このことは、個々の地域は世界において地域の農産物を通じて地域の人口を養っていくべきであるといったことを意味していた。
ドイツでは、異議を唱えるネットワーク(Dissent!-Netzwerk)、左派介入主義者(Interventionistische Linke)、連邦における協調のための国際主義(BUKO)に対して言及する価値が存在していた[10]。
5.4 社会フォーラム
これらの様々なネットワークや組織は2001年1月にポルト・アレグレ(ブラジル)の最初の世界社会フォーラムで一同に会しており、ダボスでの企業経営者やビジネスリーダーによって1971年から開催されていた世界経済フォーラムと同時期の出来事であった。ポルト・アレグレではトータルで117の国々を10,000人以上の参加者たちが代表していた。また多くのNGOや市民組織に加えて、400人の議員が出席していた。ポルト・アレグレは会議のテーマにとって模範的なプロジェクトであると考えられていた。「もう1つの世界は可能だ」とブラジル労働者党(PT)は「家計の参与権」を紹介しており、都市の予算の内少なくとも20%を求める住民投票を計画していた。
この反対のサミットの結果として、より多くの社会フォーラムが登場し、最初に大陸レベルで(ヨーロッパ社会フォーラム)、そして後に地域や地方レベルで開催されるようになった。この運動は多様な中身を有すると考えられていた。焦点は「社会的なグローバル化」、「人権」(特に女性の権利)、環境問題に当てられていた。
4 内容
多くの著者たちが、現在の形態のグローバル化によって先進国が東欧ブロックや途上国から利益を得ているだけでなく、他方で貧困や依存、自己決定権の制限をもたらしていることを批判していた。例えばジョン・パーキンズはアメリカの諜報部による「経済的殺人」を示す多くのインタビューを告白しているベストセラーの中で1人のエコノミック・ヒットマンを描いていた。
1990年代からソ連圏の崩壊や冷戦の終わりに意識が向けられ、世界経済の中により多くの変化が生じ始め、それはグローバルな情報伝達のためのネットワークや資本(外国直接投資,FDI)と財およびサービスの流れの強化を意味していた。
分析のためのカテゴリーとして国家の違いはここでは当然短い間しか存在し得なくなり、世界の全ての国々においてグローバル化や新自由主義から利益を得る人々と損失を被る人々が存在していた。誇張して言えば、国家とは消費や生活のような人々の振る舞いによって引き起こされる問題を分離することをますます困難にする人工的な産物であることが明白になっていた。
もう1つの批判は市場のグローバル化に伴う競争の激化であり、世界経済はその中に存在していた。国家がわずかばかりの整備された社会システムによって救われることはないとの批判が存在し、「競争」や「国家予算の再編」のような議論とともに世界的な社会的果実(健康、教育、労働、最低賃金、年金、児童労働からの保護、女性の人権等)は削減されていった。
社会経済の基準や生活条件の変化といったこの現象はしばしば底辺への競争といった専門用語で語られるが、概して経済の不安定化の中にその特徴を見出すことができ、その特徴はグローバル化を通じ人工的に造られた社会経済上のダーウィニズムや固有の原動力の中にますます巻き込まれていくことを示していた。グローバル化の負の側面は中産階級や下層階級における購買力の変化や財政状況、個々の国民国家や全体としての世界人口における窮乏化を含む統計によって補強されていた。全体の窮乏化が加速する現象は本質的には飽くなき利潤の拡大を目指す資本主義の当然の帰結であり、グローバル化はそれを加速させていた。そしてグローバル化は窮乏化のエンジンではないが、社会的倫理的に疑念を挟まざるを得ない世界人口の発展における触媒として作用していた。この加速は、資産の集中が関連するグローバル化における効果的に形成された成長を通じて、また本質的には資本市場や株式市場における為替取引に対する貨幣供給量を増加させることを通じて、そして同様にすでに90年代に始まっていたより効果的な融合のプロセスやそれによる市場の融合、例えば大企業による独占を目指した合併(巨大企業の最盛期でもあるが)は以前の強い国内の反トラスト法を除外する形で行われたことを通じて、なされていった。
国際貿易において現在行われている形態は完全な財産権の保護を要求していた。バリューチェーンや技術革新に対する保護や活性化のための規制は与えられておらず、逆に明示的に禁止されてきた。それは、財産権の保護が多くの場合技術革新の目的に反していることが認識されていたからだった。古典的な例は中央・南アメリカにおける園芸になり、投資に対する良い収益を達成していたが、以前の小規模農業と比較して人々の暮らしは悪くなる一方だった。制限を受けない財産権の保護に対する技術革新の反目は主にビジネスモデルの中に観察されることがあり、特許の間違った保護を維持していた。財産権の所有者は第三者を通じて彼らの考えを発展させることに関心を抱いておらず、それは財産権の割合が全ての製品の中で小さなものであったからだった。市場で達成された最高収益と比較すると、このことは、財産権の所有者は関連した技術革新の発展を可能にする元々の権利に対する損失を受け入れる必要が生じていたであろうことを意味していた。
同様にこの問題は、国内的そして時には地域的に構成員や貢献者の利益に基づいて方針を定める労働組合が国際的に変化しダイナミックに発展する「グローバルな」分業に関与すべきか、もし関与するならどのような方法が妥当かについての議論を促していた。フランスやイタリアで1980年代後半に生まれた左派に基づく労働組合はグローバル化に対する批判運動にますます関与を深めていった。
この運動の一部としてみなされる重要なグループは、全ての国家による国際的な枠組みへの関与を支持し(例えばいわゆる「トービン税」を通じた資本移動に対する課税が挙げられるが、その効果はしかしながら経済学者たちの間で議論を呼んでいた)、それは社会の最低水準を保障し、人々の自己決定権を保障することを促していた。特にそのことは途上国に有利になるような国際貿易協定や世界銀行やIMFといった機関における変化を促していた。途上国が経済的な独立を達成することを可能にするように、貸し手となった機関がその条件を撤回することを要求していた。経済的依存関係は輸出を強制することを促し、それを通じ国家に管理された経済政策は妨げを抱えていた。
5 タイプ
政治学者であるクラウス・レゲヴィーはグローバル化に対する批判を5種類に区別していた。
「もう1つの世界は可能だ」といったモットーの下で別の社会システムを発展させることを求める基本的な運動。ここに環境活動家、女性の権利のための活動家、平和主義者、ついでに過激なグループを再発見することができる。
グローバル化の「欠点」に着目し、社会改革をグローバル化の中に含めようとしている内部の批評家たち。ここに特に、元世界銀行上級副総裁であったジョセフ・スティグリッツやその著作で有名な『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、ジョン・パーキンズやその経済ヒットマンの告白である著作、金融アナリストであるマイケル・ハドソンやそのアメリカの立場を批判した著作である『超帝国主義国家アメリカの内幕』が挙げられる[11]。
「新自由主義の文化的覇権」と特に闘っているアカデミズムの左派。
教会が社会改革の伝統と関連させた宗教運動(解放の神学を参照せよ)。
特に強い国民政府、国境や関税の再導入を求めている右派やナショナリストたちの運動。
6 批判
グローバル化の批評家たちは良い(生産的な)資本と悪い(非生産的な)資本のように金融資本を分割する批判を通じ、拒絶されることのない1つの立場から資本主義を批判する方法を採用していた。資本主義は弊害ではなく、新自由主義が弊害であった。
経済的次元のグローバル化に対する批判に対して、とりわけドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックは、この視点はそれに「グローバリズム」とレッテルを貼り批判しているにすぎないと述べていた。
マーカートは、議論が十分な範囲で行われておらず、経済的概念に止まったままであるとして、グローバル化の批評家を批判していた。彼は、ハンナ・アーレントの意味でグローバル化の批評家たちは新たな始まりを模索していないと述べることにより、このことを正当化していた。彼女はアウグスティヌスを引き合いに出し「これこそが始まりであり、人は創造され、それ以前には何もなかった」と述べていた(マーカート, P.31)。もしグローバル化に対する批評が、例えば新自由主義者であるマーガレット・サッチャーが「代替案は存在しない」と明らかに表明したことに対する代替の場を提供するならば、あなた方はより効果的で何かより公平な行政に対する疑問、言い換えればより良いグローバル化の管理に行き着くことができるだろう(P.95)。これは過去の枠組みを変更する対話であるが、このことはアーレントの意味で非常に非政治的なものである。政治は想定される必要性だけでなく、新しく全く未知の始まりに基づく「自由の領域」(イマヌエル・カントの倫理を参照せよ)における創造的思考にも従わなければならない。
http://it.wikipedia.org/wiki/Movimento_no-global
ノー・グローバル運動
ノー・グローバル運動や反グローバル化運動といった言葉は国際的なグループ、非政府組織、団体、比較的雑多な個人を政治的観点から示すイタリアのメディアで生まれたフレーズで、現在の新自由主義的な経済システムに対する批判を統合しており、その最初の登場は1999年頃アメリカのシアトルにあるWTO(世界貿易機関)の閣僚会合に際してのものとされていた。もともと「シアトルの人々」と呼ばれ、単一の名称を与えられていなかったが、シアトルに集まっていたのは非常に多くの多様な組織であった。他の国々では、元来雑多な要素に単一の名称を与えておらず、もしくは他の表現が用いられている。
この運動の主な批判は企業を対象にしており、メンバーによれば、企業の力は個々の政府の決定に影響を及ぼすほど強く、政策は環境保護の観点から維持可能でなく、エネルギー帝国主義的であり、地元の人々から敬意を払われず、労働条件にとって有害であるといったことが示されていた。
1 イタリア語や他の名称における起源:ニュー・グローバル、オルター・グローバリゼーション
「ノー・グローバル」といった用語は「ノー・グローバル・フォーラムのネットワーク」として対照的にイタリアのマスコミの中から生まれていた。単純に「G8に対してデモを行う人々」を位置づける単一の主体としてのこの用語はイタリアのメディアによって様々な言葉で広められたが、「ノー・グローバル」と宣言するグループは存在せず、その結果その時に疑問を抱かれながらも初めてその用語が用いられていたことが確認されていた[2]。
この運動に対する代替の名称は頻繁に用いられている。もしあなたが現在新しい自由や活動のような用語を用いるならば(それはより狭くよりラディカルでない含意を有しており、グローバル化の別の形態を支持することになる)、それは過去においてシアトルの人々によって用いられていた(1999年11月に開催されたWTO閣僚会合に関する疑惑を参照せよ)。
アカデミズムの世界では、一部の著者たちが2つの特徴を強調するためにグローバル正義運動について話していた。1つ目は社会運動の国境を越えたネットワークになり、2つ目はグローバル正義に対するより一般的な要求に沿うことができる多様な分野に対する注意になる。
他の国(フランス)ではオルター・グローバリゼーションの名称は反グローバル化の代わりに用いられる傾向があり、肯定的な活動を擁護する含意を示唆していた(もう1つの世界は可能だといったスローガンを参照せよ)。グローバル化自体の概念ではなく発展しているある種のグローバル化に対してその拒絶が反対につながるといったことをそれは明確に強調する傾向にあった。
2007年のドイツでのG8に対する抗議を通じて、グローバルクリティコという用語が一般に用いられるようになり、それは文字通りドイツ語のグローバル化に対する批判を文字通り翻訳したものだった。
2 歴史的文脈
この運動は冷戦の終わりから蓄積されてきた緊張に応じて部分的には90年代末には存在しており、福祉の危機、大衆政党の危機、国家間の経済障壁の低下、製造業の移転、第三世界での労働の搾取、独占や企業の力の強化、経済や金融の世界における市民による政治的コントロールのゆっくりとした消失が背景として挙げられていた。
経済のグローバル化や、それに関連し、国際貿易における協定によって可能とされ、WTOや議会と政府の意思決定によって認可されたプロセスに対する多くの抗議活動と共にこの運動は継続され、IMFや世界銀行のような国際機関と同様G8のような会合時に彼らは集まっていた。
運動はあらゆる言語に翻訳された「もう1つの世界は可能だ」といったスローガンと表裏一体で、ダボスでの世界経済フォーラムと対照的に、ポルト・アレグレで世界社会フォーラムを毎年2001年1月から開催していた。それは国際的なサミットで「反フォーラム」を組織し、メディアからの注目を集めていた。
ワールドトレードセンタービルが攻撃され、その後アフガニスタンで戦争が行われた後の2002年に、運動はより広い平和的な運動へと変化していた。抗議者たちによる「もう1つの世界は可能だ」という運動はブッシュ政権の軍事政策に反対する人々と合流し、運動の境界の輪郭を描くことはさらに困難になっていった。
3 境界と政治的活動
世界政治の伝統の外にあるグループや運動に言及するならば、ノー・グローバルは明白な境界を有していなかった。これは多くの市民社会の要求を含んでおり、しばしば政治的な表明を行っており、限られた分野で固有の特徴を示しながら機能していた。彼らは実際に、市民社会の再生、直接参加の民主主義を促進し、批判的な消費や維持可能な発展を促すことを望んでおり、平和主義者、環境保護主義者、反麻薬禁止主義者によって構成されていた。
伝統的な党派のロジックの外部にあり、その政治活動の技術は、他の民主的な政治力と比較すると、選挙に勝利することを目的としたコンセンサスの伝統的な集合と異なっており、階級闘争が必然的に収斂するだろう政治活動の時期を武力闘争の中に見出していたマルキストの教義からははるかに遠いものとなっていた。運動のための政治闘争の道具は実際のところ主に不買運動、デモ、反論(メディアでの活動)、エネルギーを考慮した環境的に維持可能なライフスタイルを含んでいた。
4 イデオロギー的基盤
反グローバル化運動は世界中の作家や知識人の作品によって触発されてきた。例えばカナダのジャーナリストであるナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』といった著作は一部によれば運動のマニフェストであると考えられていた。
巨大産業の利益によって脅かされる現地の人々の自己決定権や生態系に対する敬意のために闘っているインドの知識人であるヴァンダナ·シヴァの著作や議論への参加は運動にとって説得力を増すものにさせると考えられていた。フランスではル・モンド・ディプロマティーク紙が反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、ATTACの登場と人気について好意的だった。
アメリカの知識人であり言語学者であるノーム·チョムスキーは反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、同様に小説家でありエッセイストであるエドゥアルド・ガレアーノ、アメリカの詩人であり音楽家であるベック・エリザベート、マルクス主義の社会学者であり神学者であるフランソワ・ウタールが挙げられる。運動には直接関わらないが新自由主義に批判的な他の一部の研究者や経済学者は部分的に運動を触発してきた。言及されている中には例えばアメリカの経済学者であるジェームズ・トービン(資本取引に対する課税といった提案、トービン税はATTACの運動を触発していた)やジョセフ・E・スティグリッツが挙げられる。
著作権に関する問題ではこの運動において、リチャード・ストールマンの見方を主に共有しており、彼はフリーソフトウェアやオープンなコンテンツの支持者であり、共有の実践として倫理的そして政治的に意味のあるものに寄付を行っていた。
5 批判
この政策に対する批判は先取りした実践の欠如になり、長期の政策を計画する際に多様な政治力をコーディネートする能力に欠けていることが伝えられていた。運動は政治的リアリズムの欠如やイデオロギー的にお互いに相容れないユートピアの集まりであったことによってしばしば批判されていた。
別の種類の批判は、世界社会フォーラムで特に見られるノー・グローバルの経験はブラジルやベネズエラといったラテンアメリカの新しいラディカルな社会民主的政府によってコントロールされ、搾取されていると考える人々から生じていた。
軍事的右派や「レーテ・リリープトゥ(小人国のネットワーク)」のカトリックがグローバル経済の新しい秩序の中に含まれていたけれども、最も厳しい批評家たちはこの運動を破壊的な組織、ほとんどテロリスト、極左の集団とみなしていた。これらによれば、さらに極端で過激な一派に関連していると考えられ、十分な距離を取っていないことで非難され、さらに過激な出来事として1999年のシアトルでの最初の抗議から2001年のジェノバでのG8に至るまで大きな場所で警官との衝突を起こしていた。後者の出来事に関してしかしながらアムネスティ・インターナショナルは2002年にイタリアのサミットの間警備をしていた警察に関する調査を求める文書を公表し、過度な暴力を批判し、表現の自由を否定していた警察を非難しており、サミットで与えられていた指示に関しての調査を求めていた[3]。
6 イタリアでの運動
6.1 その主体
イタリアでの運動は世界やヨーロッパでの多様な主体を反映していた。2001年のジェノバ社会フォーラムにおける参加者の間にイタリアの社会的政治的風景の歴史的なシンボルを見出すことができるだろう。以下に示すと、
国の特徴に関する協会(ARCI, ACLI)
左翼政党(共産党再建派、緑の党、イタリア共産主義者党)
労働組合(Cobas, FIOM, SinCobas)
フェミニスト運動(女性のワールドマーチ)
宗教運動(パックス·クリスティ、解放の神学)
環境保護団体(レガンビエンテ、WWF)
社会センター(CS レオンカヴァッロ、C.S.O.A. テラ テラ、オフィチーナ 99、等)
そして新しい組織として、
レーテ・リリープトゥ(小人国のネットワーク)は様々な小さな主題を集め、南の国々と協調して活動している。
ATTACは新自由主義経済政策に反対する協会で、フランスで発展し現在世界中に存在している。
メディアで取り上げられたイタリア人の中には、ジェノバ社会フォーラムのスポークスマンであるヴィットーリオ・アグノレット、コンボーニの宣教師であるアレックス・ツァノテルリがおり、ルカ・カザリーニのような社会センターのスポークスマンはイタリア北東部におり、フランチェスコ·カルーソはイタリア南部で活動していた。後者は2006年の選挙で議員に選ばれた。
2009年のG8に反対する様々な場で政治的自主独立運動の分野に関連した政党やグループが企画や運動に参加していたことを同様に知るべきである(サルデーニャ・ナツィオーネ、ア・マンカ・プロ・シンディペンデンツィア[4]、「メーザ・サルダ-ア・フォーラス・ス・G8」に集まった別の小さなグループや、「反G8 シチリア」や「ノー・G8 シチリア」の場におけるシチリアの独立のための運動やシチリアの若い自主独立主義者たち[6][7]が挙げられる)。このことは運動の多様で不均一な特徴を示しているが、文化交流の枠組みと同様に言語の多様性や倫理を守る組織と魅力を有していたことも示していた。
6.2 デモ
イタリアでの「反対」運動やデモは1999年のシアトルでの有名な抗議以来成功を収めていた。これらの抗議がWTOサミットを失敗させた知らせはますます多くのデモ参加者たちがヨーロッパの都市における様々な「反対フォーラム」に参加することを後押ししていた(世界銀行のサミットに対する2000年9月のプラハや電子政府に関するグローバル・サミットに対する2001年3月のナポリが挙げられる)。
多くの参加者が押し寄せる出来事は2001年7月にジェノバで開催されたG8に対する反対サミットだった。デモの2日目と3日目は抗議者たちに強い衝撃を与える衝突の光景があり、(複雑な反応を伴いながら)イタリアの世論に影響を与えていた。
ジェノバでの事件の後、イタリアでの運動は2002年2月のポルト・アレグレでの世界社会フォーラムや2002年11月のフィレンツェでのヨーロッパ社会フォーラムに対して大規模に関わりを有するようになっていた。フォーラムはバッソ要塞で開催され、運動に関わるあらゆるヨーロッパの個人を集めていた。
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