デヴィッド・ハーヴェイによれば、「1945年以降、先進国に高い成長率をもたらした埋め込まれた自由主義は明らかに疲弊し、1960年代の終わりに崩壊を始め、もはや機能しなくなっていた」とされており、ケインズ主義に疑念を投げかけていたスタグフレーションの危機を経て、戦後の女性やマイノリティを除外した社会から、政治的および経済的統合を果たすことにより、企業やビジネスを解放し、自由市場を再構築することに関心がある人々が、1980年代までに新自由主義として知られる世界経済システムを擁護していた。また、アンテ・マルコヴィッチの指導によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国や鄧小平の指導による中華人民共和国に見られるように、1980年代における慢性的な経済危機や1980年代末の共産圏の崩壊は、国家の介入主義に反対し、自由市場改革の政策を擁護する政治的立場を促進させていた。
シカゴ学派は政府の非介入を強調し、非効率なものとして放任主義の自由市場に対する規制を拒否していた。それは新古典派の価格理論やリバタリアニズムと関連しており、1980年代まではマネタリズムを擁護しケインズ主義を拒否しており、その後合理的期待形成に変わって行った。またシカゴ学派は効率的市場仮説の展開により金融の分野に影響を及ぼしていた。そして世界有数の経済学部の1つであると広く考えられていたシカゴ大学の経済学部は、他のどの大学よりもノーベル賞やジョン・ベイツ・クラーク賞の受賞者を擁立していたため、アメリカの経済学部の教授のおよそ70%がシカゴ学派の考え方に関連していると見なされており、シカゴ学派に見られる新自由主義は、アカデミズムの世界において経済学者たちが数十年にわたり規制緩和を主張し続け、アメリカの政策を形成する手助けをしていたことや、その経済学者たちが、2008年の危機の後でもなお、金融改革に反対していたこと、これに関与していたコンサルティング会社に、アナリシス・グループ、チャールス・リバー・アソシエーツ、コンパス・レクシコン、LECGが挙げられていたことなどに影響を及ぼしていた。
1980年代後半にアイスランドは新自由主義経済政策を採用し始めていた。世界経済自由度によれば、アイスランドは1975年には53番目に「自由な経済」であり、ヨーロッパで最も貧しい国の1つだったが、2004年には9番目に自由な経済になり、最も裕福な国の1つになった。しかし2009年までにアイスランドは深刻な金融危機に直面し、その多くはアイスランドの過度な規制緩和に起因していたとされるが、当時のエコノミストたちは正確に実体を把握することなくマクロ経済の指標から判断してアイスランド経済を賞賛していたことを、時価会計を利用して、利益を上げていないにもかかわらず、収益を上げているとの客観的な体裁を整えていたエンロンの事件と重ねて眺めることがあった。
ジェームズ・キャラハンによって需要サイドの管理に対するケインジアンのアプローチが失敗であったと結論づけられた後、サッチャーはマネーサプライの伸びを低下させるために利子率を上昇させるといった経済改革を始め、1982年までにインフレーションを以前のピークの18%から8.6%に低下させていたが、イギリス国内では失業率が増加しており、より低い数字を示すために失業率の定義を31回も変更することもあったが、1960年から1973年までの1.9%や、1973年から1979年にかけての3.4%と比較して、イギリスの失業率は1979年から1989年にかけて9.1%を示していた。
エマニュエル・サエスによれば、レーガン政権の経済政策に関してインフレーションが大幅に減少したものの、1920年以来初めて格差が大幅に拡大していたとの主張を、ウィリアム・ニスカネンのような一部の人々が無視して、80年代を通じて労働者の平均報酬が上昇し、すべての社会のパーセンタイルのパフォーマンスが改善していたとの主張が存在していたことは、富裕層への課税の削減を肯定するトリクルダウン経済学(現実にそぐわない)を想像させるが、この大企業や富裕層に対する減税と防衛支出の増大によって、国内の債務が7000億ドルから3兆ドルに膨れあがり、アメリカが世界最大の債権者から最大の債務者へと立場を変えていたことに異論は少ないだろうと考えることがある。そして大企業や富裕層に対する減税を通じて債務残高が膨れあがったことはインフレーションに対する懸念が少なかったにもかかわらず新自由主義政策を採用していた日本政府も同様であると考えることがある。
ピーター・ゴーワンによれば、ドルが国際準備通貨であるため、アメリカの銀行はアメリカ国外の銀行と比較して競争上優位にあり、アメリカ国外の銀行はドルで直接貸すことができないため、アメリカ国外の銀行は外国為替リスクをともないながら、アメリカの銀行と競争するために(少なくとも短期では、他の通貨を保有することより、ドルを保有することの方がリスクが少なかった)、一旦アメリカが金融市場や金融機関に対する規制を自由化したら、他の国々も追随することを余儀なくされていた現状は、各国がその過ちを十分に認識しながらもアメリカの新自由主義政策を採用していた一因として挙げられていた。
アレハンドロ・ポルテスやブライアン・ロバーツによれば、ラテンアメリカの地方自治体において都市部の人口の増加が観察されるものの、成長率に関して大幅な落ち込みが示されており、「主要都市の魅力の損失により...要因の複雑なセットにもよるが、疑いなく輸入代替工業化(ISI)時代の終焉に関連していた」との認識は、市場の開放と都市のシステムの変化との関係を1対1に対応づけるものではないものの、新自由主義政策の採用が都市化のパターンにある影響を与えていることを示唆していた。
またポルテスやロバーツによれば、特権を享受する上位10%に属する人々はラテンアメリカの貧困ラインの平均所得の40倍に等しい平均所得を手にしており、所得不平等の直接の影響として、各々の国々において都市部や郊外で犯罪や被害が増加していることが挙げられていた。
国家中心的アプローチは国家のアクターが新自由主義を実施する政治的起業家であったと主張しており、以下に同意していないものの、一般人に対して「他に代わるものがない」と主張する高度に組織化された富裕層の集票マシーンによって新自由主義政策がプロパガンダされ、減税、社会支出の削減、規制緩和、民営化等を有権者の選好に訴えかけ、一般への普及に成功していたとの視点が存在しており、同時に、フランスやドイツにおいて、政府による課税が逆進的であり、産業政策がビジネスに好まれており、福祉国家の概念が中産階級に恩恵をもたらすために広く認められており、その結果、新自由主義政策がビジネスや中産階級によって広く好まれていなかったことを通じてモニカ・プラサドによる主張が反証されている視点も存在していた。
ロバート・ポーリンによれば、新自由主義政策は、税や政府支出の削減、自由貿易に対する関税や障壁の撤廃、労働市場や金融市場に対する規制の緩和、雇用の拡大を刺激するよりむしろインフレーションをコントロールすることにマクロ経済政策をフォーカスしていたことによって、ケインジアンや積極的労働市場政策(ALMPs)に存在していた
階級間の妥協を拒絶していたことから、経済的格差をもたらしており、いくつかの実証分析によれば、ジョージ・H・W・ブッシュやビル・クリントンのような新自由主義の支持者たちによるあらゆる時代であらゆる所得階層が暮らし向きを改善していたとの主張は現実にそぐわないことが示されていた。
ハウエルやディアロによれば、新自由主義政策が、労働者の30%が「低賃金」に留まり、労働力の35%が「パートタイム」であり、アメリカの労働世代人口の40%しか正規雇用されていないことの原因となっており、ジョン・シュミットやベン・ジッペラーによれば、アメリカの経済社会モデルは社会的排除と関連しており、それは高いレベルの所得格差、比較的高く絶対的な貧困率、乏しく不平等な教育成果、貧弱な健康状態、犯罪や投獄率の高い割合を含んでおり、アメリカ型の労働市場の柔軟性が劇的に労働市場の成果を改善するとの見解に対する支持をほとんど与えておらず、アメリカ経済はヨーロッパ大陸の国々よりも低いレベルの経済的移動性を示していた。
ポーリンによれば、アラン・グリーンスパンやロバート・ルービンによるビル・クリントン政権下における新自由主義は、政府によって支持された金融市場や住宅市場に対する投機を通じて経済成長を促す一時的で不安定な政策であり、低い失業率やインフレーションを特徴としていたが、労働者階級の解体や搾取によって可能になっており、アンジェラ・デイビスやブルース・ウェスタンによれば、アメリカ成人の37人に1人が刑務所のシステムの中にいるといったアメリカにおける高い投獄率は、失業率を統計上低く保つための新自由主義的な政治的手段であったとの視点が存在していた。
前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「新自由主義」「インサイド・ジョブ(映画)」「エンロン(映画)」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Neoliberalism
新自由主義
新自由主義は、民間企業の効率性、自由貿易、比較的開放された市場を強調している新古典派経済学に基づいた経済・社会政策に対する市場主導[1]のアプローチであり、国家の政治的・経済的優先事項を決定する際、民間部門の役割を最大限に活用することを求めていた。財政・金融政策、所得分配政策、景気介入策、政治的自由化の程度に対して言及するか否かについてはかなりの曖昧さが存在していた。このようにこの用語は明確なイデオロギーに関連づけられておらず、通常自己表明として用いられるよりむしろ、他者を批判し軽視するときに用いられていた[2][3]。
1 政策的含意
政府をより効率的にし、国家の経済状況を改善するとの考えの下で、新自由主義は経済に対する支配を公的部門から民間部門に移すことを求めていた[5]。新自由主義によって擁護される具体的な政策に対する明確な声明はしばしばジョン・ウィリアムソンによる「ワシントン・コンセンサス」になると考えられており、提唱された政策のリストはワシントンを拠点とする国際経済組織(国際通貨基金(IMF)や世界銀行)で承認されたコンセンサスになると思われていた。ウィリアムソンのリストは以下の10項目を含んでいた。
財政政策について、政府は将来の世代によって支払われなければならない巨額の赤字を出すべきではなく、そのような赤字は短期の雇用水準に影響を及ぼすにすぎない。赤字の常態化は高いインフレや低い生産性を促すだろうから、回避されるべきである。赤字はその時々の安定化の目的のために用いられるべきである。
公的支出の使途は、補助金(特に新自由主義者たちが「無差別な補助金」と呼んでいるもの)や新自由主義者たちが無駄であると考えている他の支出から、初等教育、医療サービス、インフラ投資のような重要な成長を擁護し、貧困を擁護するサービスを広範に提供する方向へシフトすべきである。
税制改革について、技術革新や効率性を促すために、幅広い課税ベースや適度な限界税率を採用すること。
利子率は市場によって決定され、実質ベースでプラス(しかし適度)であること。
変動為替レートの採用。
貿易の自由化について、輸入の自由化が、量的制限(許認可等)を撤廃し、低く比較的均一な税率によって貿易を保護することを特に強調するのは、競争や長期の成長を促すからである。
国際収支における「資本収支」を自由化することは、人々が海外のファンドに投資する機会を与え、外国ファンドが自国に投資する機会を与える。
国営企業の民営化は、多くのプロバイダーが選択と競争を促される電気通信のように、効率性を政府が与えることができない財やサービスを市場に提供することを促している。
規制緩和について、市場参入を妨げ、競争を制限する規制を廃止するが、安全、環境、消費者保護の理由や金融機関に対する慎重な監督により正当化されるものは除外される。
財産権の法的保障
資本の金融化。
2 歴史
2.1 埋め込まれた自由主義
埋め込まれた自由主義という用語は第二次世界大戦の終わりから1970年代まで共産主義でない世界経済を支配した経済システムを指していた。デヴィッド・ハーヴェイは第二次世界大戦の終わりに、この主な目的は1930年代の世界大恐慌を繰り返さない経済計画を発展させることであると述べていた[7]。ハーヴェイは、この新しいシステムの下で自由貿易は規制されており、「その制限には固定価格で金と交換できるUSドルによって裏打ちされた固定為替レートが挙げられ、固定為替レートは資本の自由な移動と共存していなかった」と記していた[8]。ハーヴェイは、埋め込まれた自由主義は1950年代や1960年代に明確にされた経済的繁栄の高まりを促していたと主張していた。
世界の多くの地域において、政府が自由市場を安定化させ、微調整する手段を策定するように努めていたジョン・メイナード・ケインズの仕事は非常に有力なアプローチになっていた。発展途上国では、脱植民地化、民族の独立に対する願い、戦前の世界経済の解体に対する進展や、国々は自由市場のシステムの下で効率的に工業化することができないとの見解(例えばプレビッシュ=シンガー命題)は共産主義、社会主義、輸入代替政策によって影響された経済政策を促していた。
1950年代や1960年代に政府が介入主義を採用していた時代は、経済成長が一般的に高かったので、例外的な経済的繁栄によって特徴づけられており、経済の分布は比較的均一であった[10][11]。この時代は「栄光の30年」や「黄金時代」として知られており、第二次世界大戦と1973年の間の高いレベルの繁栄を経験した国々を指していた。
2.2 埋め込まれた自由主義の崩壊
デヴィッド・ハーヴェイは、埋め込まれた自由主義は1960年代の終わりに崩壊を始めていたと記していた。1970年代は資本の蓄積、失業、インフレーションの増加(スタグフレーションと呼ばれている)や、さまざまな財政危機によって特徴づけられていた。彼は「1945年以降少なくとも発展した資本主義諸国に高い成長率をもたらした埋め込まれた自由主義は明らかに疲弊し、もはや機能しなくなっていた」と記していた[12]。新しいシステムに関連した多くの理論が発展し始めており、そのことは「社会民主主義や中央計画を一方で」擁護する人々や「他方で企業やビジネスを解放し、自由市場を再構築することに関心がある」人々の間で大きな論議になっていた。ハーヴェイは、1980年代までに後者のグループはリーダーとして台頭しており、新自由主義として知られる世界経済システムを擁護し、創造していたと述べていた[13]。
一部は、生じた結果は国際金融システムにおけるものであり[14][15]、ブレトン・ウッズ体制の崩壊で最高潮に達していたと主張しており、またそのことがある程度英語圏でケインズ主義に疑念を投げかけていたスタグフレーションの危機をお膳立てしていたと一部は主張していた。さらに一部は、戦後の経済システムは女性やマイノリティを除外した社会を前提としており、これらのグループに対する政治的および経済的統合は戦後のシステムを変革するものであると主張していた[16]。
3 1970年代以後の経済自由主義
3.1 世界的広がり
1980年代における慢性的な経済危機や1980年代末の共産圏の崩壊は国家の介入主義に反対し、自由市場改革の政策を擁護する政治的立場を促進させていた。1980年代以降、共産主義や社会主義を採用する多くの国々はさまざまな新自由主義的市場改革を行い、例えばアンテ・マルコヴィッチの指導の下におけるユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1990年代初頭の国家の崩壊まで)や鄧小平の指導の下における中華人民共和国が挙げられる。
変化は1970年代から1980年代にかけて生じていた。多くの民主的な世界で行われていたことに、政府が比較的自由な貿易を促すことにおける経済主体の権利、法規制、政府の役割の優位性に焦点を当てていたことが挙げられていた。そのことは同時にほぼ国民の自己決定であるとされていた。
ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーが政府の役割を低減させる意図で貿易障壁をなくすために強い立場を取っていたときに、組織化された労働者の立場は変更を及ぼされ、市場がさらに重要になるとの立場を許容していた。したがって産業界はますます経済を活性化する統合された知識へと世界的にシフトしていた。
3.2 シカゴ学派
経済学のシカゴ学派は、シカゴ大学の教員にフォーカスし、経済学界で見られる考え方に含まれている新古典派を説明していた。
シカゴ学派は政府の非介入を強調し、非効率なものとして放任主義の自由市場に対する規制を拒否していた。それは新古典派の価格理論やリバタリアニズムと関連しており、1980年代まではマネタリズムを擁護しケインズ主義を拒否しており、その後合理的期待形成に変わって行った。シカゴ学派は効率的市場仮説の展開により金融の分野に影響を及ぼしていた。方法論の面では「実証経済学」を強調しており、理論を証明するために統計を用いる研究に対して経験的に基づいていた。
アメリカの経済学部の教授のおよそ70%がシカゴ学派の考え方に関連していると見なされていた。世界有数の経済学部の1つであると広く考えられていたシカゴ大学の経済学部は、他のどの大学よりもノーベル賞やジョン・ベイツ・クラーク賞の受賞者を擁立していた[17][18][19]。
シカゴ学派に属する人々は、競争法、教育バウチャー、中央銀行、知的財産権といったものを好み、既存のシステムの代替手段として、ミルトン・フリードマンの負の所得税を好んでいた。
3.3 オーストラリア
オーストラリアでは新自由主義的経済政策は1983年以来労働党や自由党の両方の政権から支持されていた。1983年から1996年までボブ・ホークやポール・キーティングの政権は経済自由化やミクロ経済改革のプログラムを推進していた。これらの政府は政府企業を民営化し、要素市場の規制を緩和し、オーストラリア・ドルを変動相場制に移行し、貿易の保護を削減していた[20]。
財務大臣としてキーティングは、国民貯蓄を増加し、老齢年金のための将来にわたる政府債務を減らために、義務的な退職年金の保障制度を実施していた[21]。大学の資金調達は規制緩和され、高等教育費用負担制度(HECS)として知られる返済型のローンのシステムを通じて、大学に貢献するよう学生に求め、外国人学生を含めて全授業料を支払っている学生を入学させることによって大学が収入を増やすよう促していた[22]。公立大学に全授業料を支払って国内の学生が入学することはラッド労働党政権によって2009年に中止された[23]。
ジョン・ハワード首相の下で1996年3月に自由党が権力の座に戻ったときに、経済自由化のプログラムはより多くの政府企業の民営化、特に電気通信のプロバイダであるテルストラの売却とともに継続され、オーストラリアの準備銀行は金融政策を決定する際に政府から独立することになった。10%の物品サービス税(GST)(ヨーロッパの付加価値税に類似している)が、システムをより効率的にするために以前の関税や他の税を組み合わせて簡素化する意図で導入されていた。一連の改革は労働市場の規制を緩和するために制定されていた[24]。
3.4 カナダ
カナダでは、新自由主義と同一視されている問題(税や福祉に対する支出を削減し、政府を最小化し、公的医療や教育を改革すること)はしばしばブライアン・マローニー、マイク・ハリス、ラルフ・クライン、ゴードン・キャンベル、スティーブン・ハーパーと関連づけられていた[25]。
アルバータ州の広大な石油や天然ガスの埋蔵からの採取を支持していたラルフ・クラインは、オイルサンドの生産量の増加と比較して少額ではあるが州の収入を生み出したために、ペンビナ研究所によって信任を与えられていた。1995年から2004年の間に生産量は133%増加したが、政府の歳入は30%落ち込み、企業の手に多額の富を残していた[26]。
1990年代のオンタリオ州におけるマイク・ハリスの下で、産業や社会的責任が市に移転されていた。この時期のトロントは合併し、発展段階に入ることを余儀なくされていた。トロントの合併はコスト削減の手段としてみなされており、2000年にマイケル・R・ギャレットは年間1億3620万ドルの削減の可能性を示していた(CDN)[27]。しかし2007年にバリー・ヘルツは保守的な全国紙であるナショナル・ポスト紙の中で、コスト削減は実現しないだろうと報告していた。彼はまた政府のスタッフが増加しており、1998年と比較して、市は4,015人多い人々を雇用していたことを指摘していた[28]。
同様にカナダの政策も影響を受けていた。関税は終焉を迎え、貿易における緩やかな制限のみが許容されていた。政府の大きさは縮小し、産業界に対する権力も制限されていた[29]。連邦政府はその間に規制を行っていたが、市町村には権限がなかった。
3.5 チリ
ミルトン・フリードマンは「シカゴ・ボーイズ」によって実施されたチリにおける自由主義経済の変化に対するアウグスト・ピノチェトの支持に言及する際、「チリの奇跡」という用語を用いていた。彼らの実施した経済モデルには3つの主要な目的があり、経済の自由化、国有企業の民営化、インフレーションの安定化が挙げられていた。これらの市場志向の経済政策は、ピノチェトの辞任後、歴代政権によって継続され、強化されていた[30]。同時にミルトン・フリードマンは、チリの経験は「戦後のドイツ経済の奇跡に匹敵する」と述べていた[31]。
ピノチェトの新自由主義政策の一部は、彼の17年にわたる独裁の終焉後も継続されていたが、より社会的な政策が大きな社会経済的不平等に対抗していた[32][33]。ヘリテージ財団やウォール・ストリート・ジャーナルによれば、2007年にチリは世界で11番目に「自由な」経済であり、アメリカ大陸では3番目だった。
2009年の国連開発報告書によれば、チリは高い競争力、生活の質、政治的安定性、グローバル化、経済的自由、低いレベルの汚職、比較的低い貧困率を有していた[34]。
国際通貨基金によれば、チリは報道の自由、人間開発、民主主義の発展において「その地域における高いランクに位置していた」。同様にIMFによれば、チリは1人あたりのGDPに関し地域で最も高い値(市場価格[35]や購買力平価で)を示しており[36]、またジニ係数で測定された高いレベルの所得格差を示していた[37]。
1970年代と1980年代のチリの経験や特に元労働大臣であるホセ・ピニェラによるチリの年金モデルの輸出は中国の共産党の政策に影響を与え、他国における経済改革者たちのモデルとして引き合いに出され、ロシアのボリス・エリツィンやほぼすべての東欧の共産圏が例として挙げられていた[38]。
チリにおける銅の採掘は公に所有されていた(チリの銅の国有化を参照せよ)。チリは世界最大の銅の産出国であり、銅はチリ最大の輸出財であった(輸出額の40%以上を占めていた)。
3.6 香港
ミルトン・フリードマンは自由放任主義の国家として香港を示しており、50年間において貧困から繁栄へと急速に移行した政策に対して信任を与えていた[39]。香港のGDPは1897年から1997年までイギリスの植民地支配下で成長していたが、中央銀行を所有し、学校を規制し、環境を規制し、住宅を政府が所有するといった、経済的介入のすべての例を示していた[40]。しかしこれらの規制は他の多くの国々と比べて軽いものであり、経済的規制の点で、香港を自由放任国家としてみるフリードマンの分析は正しいものであると思われていた。香港には、キャピタルゲインに対する課税、利子に対する課税、売上に対する課税がなく、15%の均一な所得税があるのみだった。また関税、国際的な自由貿易に対する法的規制、最低賃金法(2010年まで)、価格や賃金のコントロールは一切なかった。さらに失業給付、労働法、社会保障、国民健康保険も一切なかった[41]。
1994年の世界銀行の報告書は、香港の1人あたりのGDPが1965年から1989年までに実質値で年率6.5%ほど成長しており、ほぼ25年間を通して一貫した成長率だったと述べていた[42]。1990年まで香港の1人あたりの所得は支配しているイギリスを公式値で上回っていた[43]。1960年における香港の1人あたり平均所得はイギリスの28%だったが、1996年までにはイギリスの137%に上昇していた[44]。
1995年以来ヘリテージ財団やウォール・ストリート・ジャーナルによれば、香港は世界で最も自由な資本市場を有していると認識されていた[45]。2007年にフレイザー研究所もそのことに同意していた[46]。
3.7 日本
史上最大の民営化は郵便局のことだった。それは国内で最大の雇用者であり、日本政府職員の3分の1は郵便局に勤務していた。
2003年9月に小泉内閣は郵便局を4つの別々の会社に分割することを提案し、銀行、保険会社、郵便サービス会社、他の3つの小売店としての郵便局を経営する4番目の会社が挙げられていた。民営化が参議院で否決された後、小泉は国政選挙を予定し、2005年9月11日に行われた。小泉はその結果改革に必要な圧倒的多数を得てこの選挙に勝利し、2005年10月に、郵便局を2007年に民営化するための法案が通過していた[47]。
3.8 メキシコ
メキシコは現在第8位の貿易国である。メキシコは1986年に関税と貿易に関する一般協定(GATT)に参加し、1990年から北米自由貿易協定(NAFTA)の一部となった。メキシコが参加した他の貿易パートナーシップはウルグアイ・ラウンド(UR)であった。
NAFTAによってもたらされた改革はメキシコ経済にとって大きな開放であり、「貿易政策の失敗という政治的そして経済的コストを増大させ、NAFTAと関連する他の国々(仮に従属していないにしても)との貿易政策を頓挫させていた」(メーナ, p.48)。関税は経済のほとんどのセクターにわたって削減されていた。彼らはアメリカとメキシコの国境沿いの工場に門戸を開いていた。マキラドーラはメキシコの輸出市場のほとんどを説明していた。また1973年の外国投資法である「外国投資が石油産出や精製に対して許可されていなかったこと」における改革が存在していた(メーナ, p.49)。
メキシコはウルグアイ・ラウンドや世界貿易機関から大きな恩恵を被っていた。メキシコの財に対する関税は低いものであり、メキシコはウルグアイ・ラウンドのメンバーに対する関税を変更することに縛られていなかった。「非農業部門の補助金に対するメキシコの選好は主にウルグアイ・ラウンドの協定によって裏付けされていた」(オルティス・メーナ, p.60)。メキシコは外国所有権に制限を設け続けており、政府調達に関する協定に署名しないことで批判されてきた。NGOは同様になされた改革を批判していた。
NAFTAに参加した後で、メキシコは30の自由貿易協定(FTA)を締結していた。メキシコは同様に欧州連合(EU)とのFTAである欧州自由貿易協定(EFTA)や日本とのFTAに署名していた。これらの協定の結果として輸出が増加し、工業製品はさらに重要になり、メキシコはアメリカの第2の貿易相手国になっていた。
先進国によるウルグアイ・ラウンドの協定に基づく政策が実施されなかったことにより、自由主義の恩恵が緩やかなものになっていると、メキシコ政府は感じていた。また環境問題や労働問題が貿易の議題に影響を及ぼす可能性があることを政府は恐れていた。彼らは先進国にドーハ後の作業プログラムに問題なく移行することを支援することを求めていた。メキシコが将来焦点を当てるだろう11の分野が存在しており、農業、輸出補助金、貿易関連の投資手段、サービス、知的財産権、紛争解決、海外直接投資、競争政策、政府調達、工業製品、労働と環境が挙げられていた。またメキシコは、ウルグアイ・ラウンドの協定を完全に遵守することにより重要な輸出品目に対するアクセスを改善することを求めていた[48]。
3.9 ニュージーランド
ロジャーノミクスという用語は、1984年以来ニュージーランドの財務大臣であるロジャー・ダグラスによる経済政策を説明するためにレーガノミックスからの類推によって生み出されていた。
政策は、農業補助金や貿易障壁を削減し、公共資産を私有化し、マネタリズムを通じてインフレーションをコントロールすることを含んでおり、ニュージーランドにおけるダグラスの労働党について、伝統的な労働党の理念を裏切るものとしてみなされていた。労働党はその後純粋なロジャーノミクスから離れたが、ロジャーノミクスは多くの右派のアクト党の核心的な教義となっていた。ロジャー・ダグラスは、ニュージーランドで15%の一律課税を行い、学校、道路、病院を民営化することを計画し、当時そのことは労働党内閣によって穏健に進められていたが、改革の結果は今なおグローバルな背景の中で一般的にラディカルであるとみなされていた。ダグラスは労働党を去った後、1993年にアクト党を設立し、それはニュージーランドの新しい自由主義正統派としてみなされていた。
1984年以来、農業補助金を含む政府補助金は撤廃され、輸入規制は自由化され、為替レートは自由に変動し、利子率、賃金、価格に対するコントロールは撤廃され、限界税率は縮小された。金融引き締め政策や政府の財政赤字を削減する努力は、1987年の年率18%以上のインフレーションを低下させていた。1980年代と1990年代における政府所有企業の規制緩和は経済における政府の役割を縮小させ、一部の公的債務の償還を促したが、同時に多額の福祉支出を必要とし、以前の10年を基準にするとかなり高い失業率を導いていた。しかしニュージーランドの失業率は2006から2007年にかけて再び低下し、3.5%から4%を前後していた。
規制緩和は非常にビジネス向きの規制の枠組みを生み出していた。2008年のサーベイはニュージーランドを「ビジネスの自由」に関して99.9%に、全体としての「経済的自由」に関して80%にランクしており、他の事項として、概してニュージーランドではビジネスを立ち上げるのに12日しか要しないが、世界平均では43日要することを記していた。他の指標は財産権、労働市場の状態、政府のコントロールや腐敗になり、最後に関してヘリテージ財団やウォール・ストリート・ジャーナルの調査によれば「ほとんど存在しない」と考えられていた[50]。
ドゥーイング・ビジネスの2008年のサーベイでは、世界銀行(ニュージーランドをその年に世界で2番目にビジネス向きの国であるとしていた)はニュージーランドを、雇用法におけるビジネス向きの点で、178ヶ国中13位にランクさせていた[51]。
ニュージーランドは国際的な調査によれば生活満足度に関し高いレベルを示しており、このことは他の多くのOECD諸国と比較して1人あたりのGDPが低いにもかかわらず生じていた。ニュージーランドは識字や公衆衛生といった非経済的要因から説明される2006年の人間開発指数で第20位にランクされ、エコノミスト誌による2005年のクオリティ・オブ・ライフ インデックスでは第15位だった[52]。さらにニュージーランドは2007年のレガタム研究所の繁栄指数によれば生活満足度で第1位になり、全体的な繁栄度では第5位に位置していた[53][54]。加えてマーサー『2007年世界生活環境調査』はそのリストによればオークランドを第5位に、ウェリントンを第12位に位置づけていた[55]。
3.10 スカンディナヴィア
北欧諸国は多くの新自由主義政策を受け入れていた[7]。
デンマークの元首相でありヴェンスタのリーダーであるアンダース・フォー・ラスムッセンは市場での活動に関する最小国家を擁護する著作を記していた。デンマークは経済的自由の指標においてヨーロッパのリーダーだった。ウォール・ストリート・ジャーナルやヘリテージ財団による指標や2008年の経済自由度によれば、デンマークは世界162ヶ国中、11番目に「自由な経済」としてランクされていた。
スウェーデンのカール・ビルトの政策プログラムは、スウェーデン経済を自由化し、公共サービスを民営化し、国を欧州連合に加盟させた政策群の1つであった。1994年6月23日にギリシアのコルフで開催された欧州連合のサミットでカール・ビルトは加盟条約に調印した。経済的な変化が立法されており、公有企業の民営化同様、教育バウチャー、電気通信やエネルギーにおける市場の自由化が例として挙げられていた。ビルトの政権は(ほとんどの国がこれを行っていないのだけれども)健康保険を民営化することを可能にし、スウェーデン経済の自由化に貢献していた。また国有企業の民営化やビジネスの規制緩和は社会民主労働党政権によって実施されることになった。
1980年代後半にアイスランドは新自由主義経済政策を採用し始めていた。世界経済自由度によれば、アイスランドは1975年には53番目に「自由な経済」であり、ヨーロッパで最も貧しい国の1つだった。2004年には9番目に自由な経済になり、最も裕福な国の1つになった[56]。しかし2009年までにアイスランドは深刻な金融危機に直面し、その多くはアイスランドの過度な規制緩和に起因していた[57][58][59][60][61]。
3.11 南アフリカ
アパルトヘイトを廃止した1994年の新政府の樹立以来、南アフリカのGDPは成長を続けていた。一部は成長率を押し上げる要因を南アフリカの新自由主義政策の中に眺めていたが、他は経済成長を実際に損なうインフレーションを鎮圧するために高い利子率を維持するような政策を引用していた。一方GEAR(成長、雇用、再分配の戦略)に基づいた政策の実施は1994年の新政府後に始まった雇用の落ち込みの原因となり、南アフリカの貧困のレベルを拡大する原因となっていた[62]。
3.12 イギリス
1979年に政権に就くと、マーガレット・サッチャーの政治経済哲学は国家の介入の縮小[63]、より自由な市場[64]、さらなる企業家精神[65]を強調していた。彼女はかつてフリードリヒ・ハイエクの『自由の条件』のコピーを影の内閣の会議の最中にテーブルの下で閉じ、「これこそが私たちが信じるものである」と述べた[66]。サッチャリズムに関連づけられた思想家たちはキース・ジョセフ、フリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマンを含んでいた[67]。
サッチャーの政治経済哲学は自由市場同様国家の介入の縮小や「企業家精神」を強調していた[67]。彼女は経済に対する政府による過度の介入を終えることを明言し、国有企業の民営化を通じこれを行おうとしていた。ジェームズ・キャラハンによる政府が需要サイドの管理に対するケインジアンのアプローチが失敗であったと結論づけた後、サッチャーは、経済が自己修復することはなく、財政上の判断がインフレーションを収束させるためになされる必要があると感じていた[68]。彼女は、マネーサプライの伸びを低下させるために利子率を上昇させるといった経済改革を始め、インフレーションを低下させていた[69]。「政府によるより小さな介入」を目指した考え方にしたがって、彼女は特に住宅や産業界に対する補助金について公的支出を削減することを導入していた[70]。また彼女は通貨の発行に対する制限や労働組合に対する法的規制を実施していた。
1982年までにインフレーションは以前のピークの18%から8.6%に低下していた。1983年まで世界経済は強い成長を続けていたが、インフレーションや住宅ローンの金利は1970年以来最低の水準だった[71]。「サッチャリズム」という用語は彼女の倫理的な見解や個人的なスタイルが示す側面同様に彼女の政策に触れており、道徳的絶対主義、ナショナリズム、全体としての社会よりむしろ個人にフォーカスすること、政策目標を達成するために妥協しないアプローチを含んでいた。
1983年の選挙で保守党の多数派が拡大した後、サッチャーは彼女の経済政策を実施し続けていた[70]。イギリス政府は国家の大規模な施設の多くを売却していた[70]。民営化の政策はサッチャリズムの主要な部分を占めていた。サッチャーが1990年に辞任を余儀なくされていたとき、イギリス経済の成長は概して他のEU諸国(ドイツ、フランス、イタリア)よりも高かった。しかしこのことはEUの残りの国々と比較すると貧しい社会的条件を伴っていた。
これらの経済政策による代償は、サッチャー政権を悩ませた失業率における一時的だが激しい増加になり、失業率の定義はより低い数字を示すために31回も変更されていた。これにもかかわらず、1973年から1979年にかけて3.4%になり、1960年から1973年までは1.9%になった後のことになるが、イギリスの失業率に関する公式発表は1979年から1989年にかけての9.1%を示していた[72][73]。
2001年にイギリス労働党の議員でありトニー・ブレアと緊密に関係していたピーター・マンデルソンは「私たちはみな現在もサッチャリズムを支持している」と言い放っていた[74]。現代のイギリスの政治文化によれば、「ポスト・サッチャリズムの支持者の間におけるコンセンサス」が経済政策に関して存在していることが語られていた。1980年代には今はなき社会民主党は、サッチャリズムの支持者による改革を福祉と結びつける「一面では厳しく一面では優しい」アプローチを採用していた。1983年から1992年における労働党の党首であったニール・キノックは、サッチャー政権の経済政策を支持することによって労働党の政治的言動の幅を右へシフトさせていた。経済政策の多くがサッチャーの政策をまねていたので、トニー・ブレアによる新しい労働党政権は一部によって「新サッチャリズムの支持者」として説明されていた[75][76]。
2010年のキャメロンとクレッグによる連立政権は新自由主義的立場であると説明されており、新自由主義的な自由民主党の若手市場主義グループが重要な閣僚としての役割を果たしていた。
3.13 アメリカ
1981年から1989年にかけてロナルド・レーガン政権はアメリカ経済を自由化するために幅広い決定を行ってきた(現代のアメリカの用語ではリベラルという用語は本来のリベラルよりむしろ保守的な経済学として説明されており、この記事でのリベラルの意味はほとんど規制のない経済システムを指している)[78][79]。これらの政策はレーガノミックスとしてしばしば説明されており、サプライサイド経済学と関連づけられていた(その考え方として、価格を低下させ、経済的繁栄を促すために、政策は消費者よりむしろ生産者に対して訴えかけられるべきであることが挙げられていた)。
レーガンの在任中、GDPは年率2.7%で推移していた[80]。1989年の1人あたりの実質GDPは$31,877で、1981年の$25,640から24%上昇していた。失業率は1983年の高い水準から下落していたが、以前の10年間やその後の10年間に比べて概して高いものであった。またインフレーションが大幅に減少していた[81]。1920年以来初めて不平等が拡大し始めていたので、平均実質賃金は停滞していた。ウィリアム・ニスカネンのような一部の人々は2つの事実を指摘しており、まず80年代を通じて労働者の平均報酬(賃金と福利厚生)は上昇していたことや、次に80年代を通じてすべての社会のパーセンタイルのパフォーマンスが改善されていることが挙げられていた。不平等が大幅に拡大しており、2007年を通じてそのトレンドは継続していたとの主張を彼は無視していた(エマニュエル・サエスの著作を参照せよ)。富裕層への課税を削減することにより、その政策は「トリクルダウン経済学」として軽視されていた[82]。巨額の財政赤字[83]や貿易赤字[83]の原因であり、貯蓄貸付組合の危機[84]につながった冷戦期の防衛支出の増大が存在していた。連邦予算の赤字をカバーするために、アメリカは国内や海外から巨額の債務を負い、国内の債務は7000億ドルから3兆ドルに膨れあがり[85]、アメリカは世界最大の債権者から最大の債務者へと立場を変えることになった[86]。ピーター・ゴーワンは、アメリカが他の世界に新自由主義政策を採用させる背後にある主要な力になっていると主張していた。基本的な議論は、ドルが国際準備通貨であるため、アメリカの銀行はアメリカ国外の銀行と比較して競争上優位にあり、アメリカ国外の銀行はドルで直接貸すことができないため、アメリカ国外の銀行の業務は外国為替リスクをともなうものであるといったことであった(ドルは基軸通貨であるので、たいていの外貨準備はドルを用いて行われ、石油のような一次産品の価格はドルで設定されており、少なくとも短期では、他の通貨を保有することより、ドルを保有することの方がリスクが少なかった)。このように一旦アメリカが金融市場や金融機関に対する規制を自由化したら、他の国々も追随することを余儀なくされていた[87]。
4 影響や結果
新自由主義の動きは多くの方法で世界経済を最終的に変えていたが、世界が自由化した程度はしばしば誇張されているかもしれないと一部のアナリストは主張していた。過去30年間の変化ははっきりとしており、以下のようになる[88]。
国際貿易や国境を越えた資本の流れの成長。
貿易障壁の撤廃。
公共部門の人員削減。
国有企業の民営化。
人口の上位のパーセンタイルを占める経済への国々の経済的富のシェアーの移転[89]。
他の変化はそれほど明確ではなく、以下の文献の中で議論されている[88]。
政府の大きさにおける縮小。政府は大規模にその役割を縮小させているように思われなかった。例外的に高い政府支出を除いて、政府支出(GDPに占める割合)は1980年から同じままであると見られていた。大半の政府支出の削減は1990年代に行われた一時的現象であると思われていた。
4.1 ラテンアメリカの都市化の影響
1930年代から1970年代後半にかけてラテンアメリカの多くの国々が、産業を育成し、外国からの輸入依存度を減らすために、輸入代替工業化のモデル(ISI)を採用していた。これらの諸国におけるISIの影響は、1〜2の大都市の急速な都市化、労働階級である都市人口の増加、労働組合や左派政党による頻繁な抗議活動を含んでいた[90]。経済危機への対応では、これらの国々のリーダーはプロスペクト理論によってすばやく新自由主義政策を採用しそして実施していた。
ラテンアメリカの6ヶ国における新自由主義の結果としての都市での生活やシステムの変化に基づく研究がアレハンドロ・ポルテスやブライアン・ロバーツによって発表された。この比較研究はセンサス・データの分析やサーベイを含んでおり、フィールドワークはアルゼンチン、ブラジル、チリ、メキシコ、ペルー、ウルグアイにフォーカスしていた。新自由主義の予測は4つの分野におけるこれらの6ヶ国に拡大されており、都市のシステムと優位性、都市の失業と非正規雇用、都市の不平等と貧困、都市の犯罪と被害が挙げられていた。集められたデータは新自由主義に基づく経済政策と結果として得られる都市化のパターンとの関連を支持していた。
都市のシステムと優位性の分野では2つの傾向がデータによって明らかにされた。1番目の傾向は都市部の人口に対するトータルのサイズにおける拡大が継続していることを示している一方、2番目の傾向はこれらの地方自治体に対する移民の流入が減少している主要都市のサイズにおける縮小が見られていることを示していた。そのため都市の成長率を計算するとき、これらの国々の個々の地方自治体のすべてが成長における最低限のもしくは大幅な落ち込みを示していた。ポルテスやロバーツは、その変化は「主要都市の魅力の損失により...要因の複雑なセットによるが、疑いなくISI時代の終焉に関連していた」ことを理論化していた[90]。市場の開放と都市のシステムの変化との間の関係は完全な1対1の関係であると証明されていないが、事実は、新自由主義的変化の後、これらの2つの傾向を加速させるかもしくは促すことを支持していた[90]。
また6ヶ国の間における不平等や貧困においてバリエーションが存在していた。これらの国々における人口の多数が貧困にあえいでいる一方、「上流階級」は新自由主義的なシステムの恩恵を手に入れていた。ポルテスやロバーツによれば、「特権を享受している第9十分位数に属する人々」はラテンアメリカの貧困ラインの平均所得の14倍に等しい平均所得を手にしていた[90]。著者たちによれば、所得不平等の直接の影響は、各々の国々が都市部や郊外で犯罪やその被害が増加していることに苦労していることであった。しかし警察内の腐敗が原因で、犯罪や被害のデータからトレンドを正確に外挿することは不可能だった[90]。
5 支持
5.1 政治的自由
『資本主義と自由』(1962)の中で、フリードマンは自由全体の中で重要な位置を占める経済的自由は政治的自由の必要条件でもあるとの議論を展開していた。彼は、経済活動に対する中央集権がいつも政治的抑圧を招いているとコメントしていた。
彼の見解では、自由な市場経済でのあらゆる取引における自発的な特徴やそれが許容する幅広い多様性は、抑圧的な政治的リーダーにとって原理的な脅威であり、強制する力を大幅に減少させるものだった。経済活動に対する中央集権の排除を通じて、経済的な力は政治的な力から分離され、一方が他方への抑制力として機能することが可能であった。生産性と関連性がないといった理由で、人間的でない市場の力は経済活動における差別から人々を守るといったことを背景にして、競争的な資本主義はマイノリティのグループにとって特に重要であると、フリードマンは感じていた[91]。
しかし、初期の新自由主義体制が軍事独裁であり深刻な社会的抑圧の下でのチリで行われていたことを考慮に入れることは重要である。だが、経済的自由の実現にとって非常に不快な背景になると考えられるかもしれないが、チリは現在ラテンアメリカで非常に高い1人あたりのGDPの成長率を享受しており、このことは経済的自由は民主的な制度以上に繁栄にとって重要かもしれないことに対し、根拠はないものの、強い信用を与えているかもしれなかった。また経済的自由の拡大は時間を掛けながら独裁政権に対し圧力を加えるものであり、政治的自由を拡大するものであった。『隷従への道』の中でハイエクは「経済のコントロールは分離されることが可能な人間の生活におけるある分野を単にコントロールするのではなく、私たち皆の目標のための手段をコントロールすることである」と主張していた[92]。
5.2 国家中心的アプローチ
新自由主義に対する国家中心的アプローチは重要ではないが、新自由主義の考えがケインズ主義を倒した本物の放任主義のリベラルな対処法である重要なアプローチであるといった点で一致していた。国家中心的アプローチの理論家は、新自由主義は「減税、社会支出の削減、規制緩和、民営化を通じて国家の役割を減らす試み」だったことに合意していた[93]。しかし、新自由主義の批評家が主張するように、資本主義的政治組織、エコノミスト、経済部門、シンクタンク、政治家すべてが、階級を意識した資本家によって支持されていたというよりむしろ、国家のアクターが新自由主義を実施する政治的起業家であったと、国家中心的アプローチは主張していた。投票者の選好に最も合っていたので、新自由主義は普及したと、国家中心的アプローチの理論家は主張するが、新自由主義の骨組みや政策が一般人に対して「他に代わるものはない」と主張する裕福で高度に組織された政治マシーンによってプロパガンダされていた点にかかわる重要なアプローチであったことに同意していなかった。国家中心的アプローチの社会学者であるモニカ・プラサド(2006)はさらに(連邦の)税体系が先進的であり、産業政策がビジネスに「逆行」しており、福祉が貧困に関連している場所で、新自由主義は優勢になると主張していた。彼女は、これはフランスやドイツに関連したアメリカやイギリスのケースであると主張していた。しかしフランスやドイツでは、政府による課税は逆進的であり、産業政策はビジネスに好まれており、福祉国家の概念は中産階級に恩恵をもたらすために広く認められており、その結果、新自由主義は両国においてビジネスや中産階級によって広く好まれていなかった。
プラサドの分析は、新自由主義が資本家の利益を考慮しているため労働階級によって好まれる政策に対して否定的であり、独立した国家のアクターによって支持されていたことを示唆していた。
6 反対
新自由主義の反対者は以下の点を主張していた。
グローバル化や自由化は自己決定のための国家の能力を蝕んでいた。
搾取:批評家は新自由主義を搾取を促すものとして考えていた。
負の経済的影響:批評家は新自由主義政策が不平等を生むと主張していた。
企業の力の増大:一部の反企業組織は、自由主義と異なり新自由主義は大企業の力を増大させるために経済政策や他の政策を変え、下層階級から上流階級へ富をシフトしていると考えていた[94]。
地域的にそして社会的に新自由主義に苦しんでいる土壌が存在していた。都市住民は日常生活における基本的な状態を形成する力をますます奪われていった[29]。
貿易主導の規制のない経済活動や汚染に対して杜撰な国家の規制は環境問題を引き起こすかもしれなかった[95]。
労働市場の規制緩和は、労働の柔軟性やパートタイム化、増加する非正規雇用、労働災害や職業病の増加を引き起こしていた[96]。
6.1 イギリスやアメリカ
「標準的な新自由主義の政策は、税や政府支出の削減、自由貿易に対する関税や他の障壁の撤廃、労働市場や金融市場に対する規制の緩和、雇用の拡大を刺激するよりむしろインフレーションをコントロールすることにマクロ経済政策をフォーカスすることを含んでいた」とエコノミストであるロバート・ポーリン(2003)は報告していた[97]。ケインジアンや積極的労働市場政策(ALMPs)を含む以前の自由主義的政治経済政策の中に存在していた階級間の妥協を拒絶したことから、経済的新自由主義はふつう強い経済的不平等をもたらしていた。ジョージ・H・W・ブッシュやビル・クリントンのような新自由主義へのシフトの支持者たちはあらゆる時代であらゆる所得階層が暮らし向きを改善していたと主張していたが、一部の実証的証拠はこれが当てはまらないことを示していた[7]。
6.1.1 左派からの批判
左派からの批判は時として「アメリカ型のモデル」として新自由主義に言及しており、新自由主義は低賃金や大きな格差を促すと主張していた[98]。経済学者であるハウエルやディアロ(2007)によれば、新自由主義政策は、労働者の30%が「低賃金」に留まり(中位数で測ったフルタイム労働者の賃金の3分の2以下)、労働力の35%が「パートタイム」であり、アメリカの労働世代人口の40%しか正規雇用されていないことの原因となっていた。経済政策研究センター(CEPR)のディーン・ベイカー(2006)は、アメリカの不平等を拡大する原因は、反インフレーションバイアス、反労働組合主義、健康産業への利益誘導を含む一連の計画的な新自由主義の政策の選択にあると主張していた[99]。しかし各国はさまざまなレベルで新自由主義を採用しており、例えばOECD(経済協力開発機構)は、新自由主義政策を採用していないことにより、スウェーデンの労働者のわずか6%しか賃金の低さに悩んでいないものの、全体的にスウェーデンの賃金は低い水準にあると計算していた[100]。CEPRのジョン・シュミットやベン・ジッペラー(2006)は、ヨーロッパ大陸の新自由主義と比較して徹底されたイギリスやアメリカの新自由主義政策の影響を分析しており、こう結論づけていた。「アメリカの経済的そして社会的モデルは重大なレベルの社会的排除と関連しており、それは高いレベルの所得格差、比較的高く絶対的な貧困率、乏しく不平等な教育成果、貧弱な健康状態、犯罪や投獄率の高い割合を含んでいた。同時に利用できる事実は、アメリカ型の労働市場の柔軟性が劇的に労働市場の成果を改善する見解に対する支持をほとんど与えていなかった。反対に人気がある先入観にもかかわらず、アメリカ経済は一貫してデータが利用可能なすべてのヨーロッパ大陸の国々よりも低いレベルの経済的移動性を示していた。」[101]
新自由主義に対する理論的もしくは実践的な批判者の中で著名な人々は、経済学者であるジョセフ・スティグリッツ、アマルティア・セン、ロバート・ポーリン[102]、言語学者であるノーム・チョムスキー[103]、地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイ[7]、ATTACのようなグループを含む一般的な反グローバル運動を含めていた。新自由主義の批判者たちは、新自由主義による社会主義(自由の束縛として)に対する批判が間違っているのみならず、新自由主義はその強みの1つであると思われる自由を提供することができていないと主張していた。ダニエル・ブルックの『罠』(2007)、ロバート・フランクの『遅れ』(2007)、ロバート・チェルノマスとイアン・ハドソンの『社会的殺人』(2007)、リチャード・G・ウィルキンソンの『不平等の影響』(2005)といったすべてが、新自由主義によって大きな不平等が拡大しており、深刻な政治的、社会的、経済的、健康上の、環境における抑圧や問題を引き起こしていると主張していた。カナダ代替政策センター(CCPA)のエコノミストや政策アナリストは新自由主義政策に対して不平等を削減する社会民主的な代替政策を提唱していた。さらに新自由主義に対する大きな反対がラテンアメリカで成長していた。ラテンアメリカにおける著名な反対派はサパティスタ民族解放軍、ブラジルのMST、ベネズエラ、ボリビア、キューバの社会主義政府を含んでいた。
ポーリン(2003)によれば、アラン・グリーンスパンやロバート・ルービンによって操作されたアメリカのビル・クリントン政権の下における新自由主義は、政府によって支持された金融市場や住宅市場に対する投機を通じて経済成長を促す一時的で不安定な政策であり、低い失業率やインフレーションを特徴としていた。彼は、この異常な偶然の一致は労働者階級の解体や搾取によって可能になったと主張していた。サンタクルスの歴史を意識していたアンジェラ・デイビスやプリンストンの社会学者であるブルース・ウェスタンは、特にアメリカ成人の37人に1人が刑務所のシステムの中にいるといったアメリカにおける高い投獄率(ヨーロッパと比較して)はクリントン政権によって促されており、失業率を統計上低く保つための新自由主義的な政治的手段であり、現代の奴隷人口の維持や刑務所の建設及び「武装警察」の促進を通じて、経済成長を促していたと主張していた[104]。またクリントン政権は、企業部門に利益をもたらす国際的な貿易協定を追求することによって(例えば中国との貿易の正常化)、新自由主義を採用していた。国内的にクリントンは、健康医療団体を通じた医療の企業買収、福祉のばらまきの削減、「再就業を促進するための技能教育」の実施といった新自由主義改革を行っていた[105]。
6.2 ヨーロッパやラテンアメリカによる反対
新自由主義とグローバル化はお互いに関係していると考えられていた。一般的な理論家は新自由主義を資本家による拡大主義の現代版と説明しているが、一部の理論家は「グローバル化」と「新自由主義」は厳密には分けて考える必要があり、文化は概念が理解されるレンズとして本来あるべきであると主張していた。「自由市場や世界的な自由貿易は新しいものではなく、この言葉(新自由主義)の使用は先進国での発展段階を無視していた...新自由主義は単に経済上の概念ではなく、自由主義とは質的に異なった側面をもっており、社会的または道徳的哲学を示していた」[106]。
ヨーロッパやラテンアメリカからの新自由主義に対する批判は、経済システムにいつも新自由主義が組み込まれるようになった方法にフォーカスしていた。例えばオランダの作家であるポール・トレーナーは、新自由主義から派生した考え方(新自由主義自体を含む)は哲学であり、単なる「経済構造」ではないと主張していた。また例えば新自由主義者は「市場が示唆する意味」の中で世界を把握しており、社会のメンバーは一般論として企業としての国家に言及するとき、その文明はリベラルな文化の代わりに新自由主義的に把握されるかもしれなかった。しかしトレーナーは同様に歴史上のリベラルと現代の新自由主義的文化の連続性を認識していた。「これが国民国家の見方ならば、新自由主義と同じように新国粋主義が存在するだろう。同様にリベラル以前の経済理論を振り返ると、その重商主義はヨーロッパの国々を競合する単位として眺めていた。重商主義者はそれらの王国を企業としてよりむしろ巨大な家計として取り扱っていた。それにもかかわらず、国家規模の単位の間における競争として世界貿易を眺めることは現代の新自由主義者たちにとって受け入れられる考え方だった」[106]。
トレーナーの共同研究者であるエリザベス・マルティネスやアルノルド・ガルシアは、新自由主義は過去25年間に世界中に広められた経済政策の集合体であることを見出していた。彼らは、富の分配の不公正を増大させることを許容することによって、新自由主義は最も貧しい市民を明らかにひどく扱っていたと主張していた(「豊かな人々はさらに豊かになる一方、貧しい人々はそれより遅々としたペースで豊かになるだろう」)。イデオロギーを強調すると、マルティネスやガルシアは、自由主義がイデオロギーと妥協する階級と関連していたことを指摘することにより、新自由主義と自由主義の違いを説明しており、「自由主義は政治的、経済的、そして宗教的でさえある考え方に言及することが可能であった。アメリカでは、自由主義は社会的な対立を防止するための戦略だった。そして新自由主義は、保守派や右派と比べて、貧しい人々や労働階級にとって進歩的なものとして示されていた。」と述べていた[107]。しかし彼らはさらに、このリベラルな社会的対立は、新自由主義を含めたアメリカのエリートによる政治運動によって、打ち壊されていたと主張していた[108]。
6.2.1 アルゼンチン経済の崩壊
数十年におよぶ劣った統治、支出を倹約する軍事独裁、労働市場改革、新自由主義的構造調整プログラムは結局のところ1999から2002年におよぶアルゼンチンの経済危機を導いていた。メネム政権の間、アルゼンチンは国際通貨基金(IMF)、世界銀行(WB)、アメリカ財務省の管理下にあった。重い債務を抱えながらもIMFはアルゼンチンにローンを貸し続け、ローンの返済が延期されたときに、公的債務は急上昇していた。アルゼンチンは新自由主義的合理化のプロセスを始めていた。この小さなケーススタディは、どのように「ワシントン・コンセンサス」の指導の下でトップダウンで指示を受けた新自由主義政策が非効率でアルゼンチン経済にさらなる損害を与えていたかを例示していた。「ワシントン・コンセンサス」の非公式のスローガンは「安定化、民営化、自由化」だった[109]。多くの労働市場改革が実施され、公的雇用のための新しい規制の制定、社会サービスの分散化、弱体化された労働法に基づいた民間経済の規制緩和、社会保障システムの部分的民営化、労働市場の柔軟化を含んでいた[110]。この間のアルゼンチンの対外債務は1990年の576億ドルから2001年の1445億ドルにまで実質的に拡大していた[110]。アルゼンチン・ペソの通貨価値の下落が倍増したことによる債務の蓄積は、ハイパーインフレーション、高い失業率、大きな非正規労働部門、貧困レベルの上昇、基本的な教育や医療のサービス削減を導いていた。民営化から生じた公的給与の削減や大量の解雇は大量の労働者の所得の損失を招いており、効率的に下層階級や中産階級の間に「新しい貧困者」を生み出していた[110]。同時にアルゼンチンの経済は改変の結果としてますます競争力を失い、対外債務は増加し続け、政府の腐敗は蔓延し、規制緩和が資本逃避をもたらし、社会不安を増大させていた[110]。
http://en.wikipedia.org/wiki/Inside_Job_(film)
インサイド・ジョブ(映画)
インサイド・ジョブ(2010)はチャールズ・H・ファーガソン監督による2000年代後半の金融危機をテーマにしたドキュメンタリー映画である。映画は2010年5月にカンヌ映画祭で上映され、2010年の長編ドキュメンタリー賞を受賞していた。
ファーガソンは「アメリカの金融業界の構造的腐敗とその構造的腐敗の結果」として映画を説明していた[3]。5つのパートを通じて、映画はどのように政策環境や銀行業務における変化が金融危機を生み出していたかを描いていた。インサイド・ジョブはテンポ、調査、複雑な素材の構成を賞賛した映画評論家によって高く評価されていた。
1 概要
ドキュメンタリーは5つのパートに分けられている。映画は、2000年にアイスランドがどのように規制緩和したのかを眺めることから始まっている。アイスランドの銀行は民営化されていた。2008年9月15日にリーマン・ブラザーズが倒産し、AIGが崩壊したとき、アイスランドや世界の他の国は世界的な景気後退に入っていた。
「パート1:どのようにこうなったか」 アメリカの金融業界は1940年から1980年まで規制されており、その後長い期間にわたって規制緩和を迎えた。1980年代末の貯蓄貸付組合危機は納税者に1,240億ドルの損失をもたらしていた。1990年代後半に金融セクターは少数の巨大企業に集約されていた。2001年に破綻すると分かっていたIT企業を投資銀行が後押ししていたため、ITバブルが弾け、投資家の損失は5兆ドルに及んでいた。1990年代にデリバティブが業界で人気となり、不安定性を増加させていた。デリバティブを規制しようとする努力は、いくらかの主要関係者によって支持された2000年の商品先物近代化法によって妨げられていた。2000年代に業界は、5つの投資銀行(ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、リーマン・ブラザーズ、メリルリンチ、およびベアー・スターンズ)、2つの金融コングロマリット(シティグループ、JPモルガン)、3つの保険会社(AIG、MBIA、AMBAC)、3つの格付け機関(ムーディーズ、スタンダード&プアーズ、フィッチ)によって支配されていた。投資銀行は、債務担保証券(CDOs)の中に他のローンや債務に対する抵当を混ぜて、投資家に売却していた。格付け機関は多くのCDOsにAAAの格付けを与えていた。サブプライムローンは人を食いものにする融資につながっていた。多くの持ち家所有者は返済しきれないほどのローンを組まされていた。
「パート2:バブル(2001-2007)」 住宅ブームの間に、銀行自身の資産に対する投資銀行の借入額の比率がこれまでにない水準に達していた。クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)は保険契約に類似していた。投機筋は所有していないCDOに投機を行うためにCDSを購入することが可能だった。多くのCDOがサブプライムの抵当によって裏打ちされていた。ゴールドマン・サックスは2006年の上半期に30億ドル以上のCDOを販売していた。またゴールドマンは、投資家にそのCDOが高品質であると述べて、低品質のCDOに投機を行っていた。三大格付け機関もその問題の一端を担っていた。AAAの証券は2000年には一握りだったが、2006年には4,000以上に跳ね上がっていた。
「パート3:危機」 CDO市場が崩壊し、投資銀行は、他に押しつけることができないローン、CDO、不動産に対し数千億ドルもの損害を残されていた。大不況は2007年11月に始まり、ベアー・スターンズは不渡りを出していた。9月に連邦政府は崩壊の危機に瀕していたファニー・メイやフレディ・マックを救済していた。その2日後、リーマン・ブラザーズが倒産していた。救済されるとき、これらの経済主体はすべてAAやAAAの格付けを受けていた。崩壊の縁にあったメリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収されていた。ヘンリー・ポールソンとティモシー・ガイトナーはリーマンを倒産させることを決定し、コマーシャル・ペーパー市場の崩壊につながっていた。9月17日、破綻したAIGは政府に引き継がれていた。翌日、ポールソンとFRB議長のベン・バーナンキは銀行を救済するために7,000億ドルの支援を議会に求めていた。世界の金融システムは麻痺していた。2008年10月3日、ブッシュ大統領は不良資産救済プログラムに署名していたが、世界の株式市場は下落し続けていた。解雇や差し押さえが続き、失業率はアメリカや欧州連合で10%にまで上昇していた。2008年12月までにGMとクライスラーも同様に破産に直面していた。アメリカでの差し押さえは前例のないレベルに達していた。
「パート4:アカウンタビリティ」 倒産した企業の経営幹部陣は損失を被ることなく彼らの財産を保持しながら渡り歩いていた。幹部陣は取締役会を掌握しており、政府による救済後、数十億ドルのボーナスを手にしていた。大手銀行は権力を手中にし、改革に反対する行為を倍増させていた。アカデミズムの世界において経済学者たちは数十年にわたり規制緩和を主張し続け、アメリカの政策を形作る手助けをしていた。彼ら、経済学者たちは、2008年の危機の後でもなお、改革に反対していた。これに関与していたコンサルティング会社に、アナリシス・グループ、チャールス・リバー・アソシエーツ、コンパス・レクシコン、LECGが挙げられていた。
「パート5:私たちは現在どこにいるのか」 アメリカの工場労働者の内、数万人が解雇されていた。オバマ政権の金融改革は弱いものであり、格付け機関、ロビイスト、役員報酬について意味のある規制案は存在していなかった。フェルドシュタイン、タイソン、サマーズは皆、オバマにとって重要な経済顧問だった。バーナンキはFRBの議長に再任されていた。ヨーロッパ諸国は銀行の補償に対して厳しい規制を課していたが、アメリカは規制に抵抗していた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Enron:_The_Smartest_Guys_in_the_Room
エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?
『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』は、アメリカ史上最大のビジネススキャンダルの1つを研究したフォーチュン記者であるベサニー・マクリーンとピーター・エルカインドによる同名の2003年のベストセラーに基づいた2005年のドキュメンタリー映画になる。マクリーンとエルカインドはアレックス・ギブニー監督とともに映画の作家たちの一員として認められていた。
映画は、同社の経営幹部の刑事裁判につながった2001年のエンロン社の崩壊を検証しており、それはまたカリフォルニアの電力危機におけるエンロンのトレーダーの関与を示していた。映画は、旧エンロンの役員や従業員、証券アナリスト、レポーター、カリフォルニアの元知事であるグレイ・デービス同様マクリーンやエルカインドにインタビューしていた。
映画はインディペンデント・スピリット賞を受賞し、2006年の第78回アカデミー賞のうち長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされていた[1]。
2 概要
映画は、1985年にエンロンを創業したケネス・レイのプロフィールから始まっていた。2年後、2人のトレーダーが石油市場に対して投機を始め、会社に対して疑わしい利益をもたらした後、エンロンはスキャンダルに巻き込まれるようになっていた。またエンロンのCEOであるルイ・ボーゲットが海外の口座に会社の資金を流用していたことが表面化していた。監査役がそのスキームを明らかにした後、レイは彼らに「私たちに数百万ドルを生み出させ続けること」を要求していた。しかし、エンロンの資金を投機につぎ込んでいたことが明らかになった後、トレーダーたちは解雇され、エンロンは崩壊に近づいていた。これらの事実が明るみになった後、レイはそのような不正行為に関与していないとして否認を続けていた。
レイは時価会計を利用する条件でエンロンに加わったジェフリー・スキリングを新しいCEOとして雇い、プロジェクトが成功するか否かに関わらず、取引が行われた直後に、エンロンがあるプロジェクトの将来価値を計上することを許容していた。そのためエンロンは利益を上げていないにもかかわらず、収益を上げているとの客観的な体裁を整えることが可能であった。スキリングは、従業員に等級を付け、エンロンの目標に適さないと思われる底辺の15%の従業員を毎年解雇する審査委員会を立ち上げ、エンロンにダーウィンの世界観を持ち込んでいた。このシステムは激しい競争と冷酷な労働環境を生み出していた。
スキリングはエンロン内部に対して彼の指示を徹底するために「防波堤」として知られるルーテナンツを雇っていた。「防波堤」には知的だが暗い幹部であるJ・クリフォード・バクスターやエンロン・エネルギー・サービスのCEOであるルー・パイを含んでいた。パイは裏のクラブを訪れる悪習のために株主の資金を流用することで悪名高く、伝えられるところでは彼のオフィスやエンロンのトレーディング・フロアにダンサーを招いていた。パイは株式を売却した後すぐに2億5千万ドルを手にして突然EESを辞職していた。パイがなした利潤にもかかわらず、彼が以前管理していた部門は10億ドルの損失を計上しており、事実はエンロンによって隠蔽されていた。パイはコロラドで大規模な牧場を購入するために資金を用い、州で2番目に大きな土地所有者となった。
ドットコムバブルによってもたらされた強気市場による成功にともない、エンロンは予想通りに進むことによって株式市場のアナリストをもてなすように努めていた。経営陣は株価を押し上げ、その後「風説の流布」と呼ばれるプロセスを経て、数百万ドルのオプションを崩壊させていた。また、例え世界的な事業のパフォーマンスが低下していたとしても、エンロンは収益性と安定性の高さを売り物にする広報キャンペーンを行っていた。1つの大きな失敗はインドのダボール発電所になり、エンロンはインドに投資する業界の危険性を省みず、その発電所を建設していた。しかしインドが発電する電力を維持することができなくなったときに、エンロンは発電所を放棄し、十億ドルの損失を出していた。他に、エンロンはオンデマンドで映画を配信するブロードバンド技術を利用しようとしたり、日用品のように天候のリスクを扱おうとしていたが、これらの取り組みも失敗に終わっていた。しかし時価会計を用いることにより、エンロンはこれらの事業に対して存在していない利益を計上していた。
数少ないインターネット関連企業が2000年に崩壊したドットコムバブルを生き延びたように、エンロンの成功は続いており、6年連続でフォーチュン誌によって「最も賞賛される」企業として名を馳せていた。しかしエンロンの投資家であるジム・シャノスやフォーチュンの記者であるベサニー・マクリーンは会社の財務諸表と株価についての不規則性に疑念を抱いていた。スキリングはマクリーンを「倫理性に欠けている」と呼ぶことによって対応し、彼女の記事を公表したフォーチュンを非難し、エンロンに対して肯定的であったビジネスウィークにも影響を及ぼしていた。CFOであるアンドリュー・ファストウを含む3人のエンロンの経営陣はマクリーンやフォーチュンの編集者に会い、企業の財務について説明を行っていた。
ファストウはエンロンと取り引きするためだけにでっち上げられたペーパー・カンパニーのネットワークを立ち上げており。それは、エンロンに送金すると同時にエンロンで増え続けている負債を隠すといった表面上2重の目的を有していた。しかしレイやスキリングに知られていないことに、ファストウがこれらの事業で財務上の裏取引を行っていたことが挙げられ、エンロンから数千万ドルを詐取するためにそれらの事業を用いていた。またファストウはシティバンクやメリルリンチのようなウォール街の投資銀行の私心を利用して、彼のペーパー・カンパニーに投資するように圧力を掛け、実際のところ、彼自身とビジネス上の取り引きを行っていた。
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