ワシントン・コンセンサスの何が問題かーフランス、ドイツ、イタリアのWikipediaの「新自由主義」や「反自由主義」の項目を読んで考えたこと

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ジャン=フランソワ・カーンによれば、自由主義はコングロマリットに対し公正な競争を強制する能力(独占禁止法やそれを実施する強い国家)を有する上部構造を仮定しているが、新自由主義はそれに疑問を投げかけ、暗黙の協定や需要が決定しない相場により作り上げられたいくつかの寡占による支配の利益のために自由主義に対し結局のところ矛盾を引き起こしていたことになるが、「世界の商品化」とその独占・寡占に対する危機感が1980年代以降の新自由主義がもたらした好ましくない結果の1つに含まれるだろうと考えることがあった。

ジャック・シラクが2005年に「自由主義は共産主義と同じくらい惨憺たるものである」と述べており、2007年に「自由主義は人間の思考の堕落である」と付け加えていたことや、2008年5月のベルトラン・ドラノエによる「サルコジズムに示される抑制された独裁体制は徹底的に反自由主義の立場だった」との言葉は、フランスが新自由主義の危うさを政治的に認識していた上での言葉になるだろうと考えることがあった。

ルートヴィヒ・エアハルトによれば「かつて理論が時代の様子を正しく解釈しており、それらの知見が適切な経済社会政策に新たな推進力を与えていたとき、今日の新自由主義者やオルドリベラリストのような人間の思想に十分な価値があった。そして経済政策にいつも多くの社会政策を強調していた」との見解があるが、オルドリベラリズムに見られる新自由主義と1980年代以降の新自由主義の根本的な違いは社会政策の意義をどれほど切実に認識しているか否かの区別になり、現実は多様化しており、それゆえ十分に人間が実体経済を認識できないほどの情報量の中で限定的に合理的判断を下し続けていることの危うさ、つまり政策担当者による間違った経済政策の歴史といったものを学ぶ必要性が問われているかもしれないと考えることがあった。

ハイエクによれば「誰もがそれ以下に落ち込む必要がない」最低所得が主張されており、この最低所得保障は社会における明白な義務であり、犯罪予防のためにも用いられるだろうといったことを考慮すると、社会保障を充実させることは自由の基盤を守ることでもあるとするならば、1980年代以降の新自由主義の誤りの原因の1つはそこにも起因していないだろうかと考えることがあった。

つまり1980年代以降の新自由主義は原理的な立場のため、オイケン、レプケ、リュストウ、ミュラー=アルマックとの関連を見出すことができなくなっていることが問題の1つに含まれるだろうと考えている。

事実、1973年以降のピノチェトの下で行われた経済政策がフリードマンやハイエクの理論をより原理主義的にしたものであり、結果として専制体制の中で経済における国家の後退が生じたことや、軍事政権が経済政策のプロパガンダの目的のために新自由主義と関連した社会的市場経済という言葉を用いたことを、現代の反面教師として役立てることも可能であろうと考えることがあった。

アンドレアス・レナーによる、新自由主義が狭い視野の経済政策を目標にした政治的スローガンとしてその言葉を利用しており、社会や環境保護における課題を解決せず、むしろ悪化させていたことも同様であろう。

自由市場の支持者が、新自由主義という言葉を否定的な意味のために避けており、他の言葉を探し、例えばジョン・ウィリアムソンがワシントン・コンセンサスという言葉を採用していたことは、それでもなお現在の世界における権益構造を維持し続けたいとのエリート層や富裕層側の願いが表れているからでもあろうが、問題の根深さを伺わせることがあり、今回の記事のタイトルにつながる経緯になった。

そしてノーム・チョムスキーによれば、新自由主義がロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーによるグローバルな覇権主義から長らく続いている数々の事実を示しており、このことは大多数を犠牲にして少数が特権を享受していることを意味しており、大企業とそのカルテルはアメリカの政治を支配し、自由市場は少なくとも競争的なシステムを生み出しておらず、大企業の政治的影響力を通じて民主主義が損なわれ、アメリカ政府が大企業を補助金や輸入関税を通じて助けていたことは、ワシントン・コンセンサスを通じて健全な市民社会の発展を阻害する要因に新自由主義に基づく数々の政策を付け加えることを妥当ならしめるだろうと考えることがあった。

他方で環境保護主義者による、市場に対する規制緩和、民営化の推進、国家の役割の縮小を通じて生じたグローバル経済が、私たちの地球における生態系のバランスや自然の多様性に対する脅威として眺められる視点も同様の経過に含まれるだろう。

新自由主義はすべての人々に恩恵をもたらすように機能しておらず、国内の異なる社会階層にある人々の格差や富裕国と恵まれない国々との間の格差を助長しており、この政策は多数の人々を犠牲にして一部の国々や多国籍企業の富を増加させていたにすぎないとの見解や、再生することができない資源に損害を与え、負の外部性を生じさせることにより地球全体を犠牲にして、富裕化のプロセスが進行していたとの見解は、現在のウォール街のデモを始めとして世界的に生じている状況の背景を説明する1つの要因になるだろうか。

ナオミ・クラインによる、戦争や災害のように惨事を通じた混乱やショックを利用し、メディアを通じて、債務(世界銀行、WTO、IMF)を口実に一般の人々の利益に反し多国籍企業や圧力団体の利益に合致する自由主義の改革を推し進めるように主要な金融機関が小国である政府に圧力をかけるといった戦略の中に破綻の徴候を認めることができるか否かは、ギリシアの問題でも表面化することになるかもしれないが、今後に依存する面が多分にあり、注視していく必要があるだろう。

新自由主義に基づく経済政策が多くの第三世界(例えばミャンマーやパキスタン)そして社会主義から脱したヨーロッパの中部や東部の国々において採用されており、主な国際機関(世界銀行、WTO、IMF)に対するアクセスの後にその政策を迫られていたことを考慮すると、これも同様に考えることがあり、同時にその是正の道を考えるときがあった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツ、イタリアのWikipediaの「新自由主義」や「反自由主義」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Néolibéralisme

新自由主義

新自由主義という言葉は、リベラルの影響に関する多次元的な分析を示すために今日用いられており、一般的に1945年以後の先進国における社会保障の発展や経済に対する政府の介入の増大を批判することを支持している[1]。しかしこの分析は個人の自由に基づく市場の経済効率性を考慮することにより市場の意義を擁護しており、経済活動に対する国家の介入を制限することを勧めている。この言葉は軽蔑的な意味合いを有しており、非常に異なる学派の分析を含んでいる。この言葉は現代の自由主義に対する批判的な潮流によって一般的に用いられており、一方この言葉によって示される分析の大部分はそれを認めることを拒否している。

「新自由主義」の意味は時代によって変わり、この言葉はコンセンサスから隔たりがあり、その使用にあたり慎重さが求められるのは、それが異なった意味の中で変遷しているからである。

1844年に登場したとき、その言葉は国家の介入に対する制限を認める自由主義の様相を十分に一般的な方法で示していた[2]。

同様の背景で30年代末に、オーギュスト・ドトゥーフやルイ・マーリオのような著名なフランスの経済学者はレッセフェール(マンチェスター学派とも呼ばれる)の同意語ではない自由主義の様相を示すためにこの言葉を用いていた。彼らは、改革において、このシステムは経済や社会における計画について当時流行していた統制経済や計画経済より優れたものになりうるといった事実のみを強調していた。

経済競争におけるフリードリヒ・ハイエクの新自由主義(非常に制限された状況で政府の介入を許容する)はあらゆる国家の介入主義を非難し、リベラルな見解を再評価していた。

60年代や70年代には、この言葉にまったく異なった意味(社会自由主義)が与えられた。この意味でドナルド・モグリッジはジョン・メイナード・ケインズを最初の新自由主義者として示していた[4]。

それにもかかわらず自由主義のこの様態は比較することが興味深いドイツのオルドリベラリズムと同じ時代に現れていた。

1 フランスの新自由主義(1938年から1960年まで)

フランスにおける新自由主義の潮流は1938年から1960年代後半までにウォルター・リップマン・シンポジウムが影響を及ぼした非常に短い期間に見受けることが可能である[5]。この登場は30年代末の計画経済論者や統制経済論者による支配に対応し、現在の問題を処理する最善の方法は自由主義を再評価することであると主張する要求に基づいていた。さらに会議やディベートの参加者のリストに見られるように、国際的なアジェンダや全体主義に対抗する意思が十分に異なった学派間における対話を推し進める決定的要因になっていた。

1.1 新自由主義とウォルター・リップマン・シンポジウム

リップマン・シンポジウムに、フランスのリベラル、オーストリア学派であるフリードリヒ・フォン・ハイエクやルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに影響されたメンバー、戦後のドイツにおけるオルドリベラリズムに影響された人々、ヴィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストウ(この運動の最大の理論家であるヴァルター・オイケンはドイツを離れることを許されていなかった[6])、さまざまな国々からの参加者が集っていた。

1.1.1 新自由主義と自由主義においてどちらを選択するか?

事実、名称の変更の問題は、自由主義の衰退は外部環境に依存しているのか、または第一次世界大戦後の現実に19世紀型の自由主義が適応していないことにそれは関連しているのかといった問いに対する答えを含んでいた。ミーゼスにとって、それは、扱うことができないリベラルのドクトリンの外側にある事実によるものであることは明白だった[7]。オルドリベラリストやフランスの経済学者の大半にとっては、反対に、リベラルのドクトリンの一部を再評価しなければならないことが示されていた。

1.1.2 フランスの新自由主義における創始者たち

フランソワ・ビルガーはクレメント・コルソンの弟子であるジャック・リュエフ、モーリス・アレ、ルイ・ボーダン、ダニエル・ビレーのような主要な創始者の1人である[8]。この潮流に加え、ジャック・クロのような創始者においては、自由主義はケインズの理論に貢献する必要があった[9]。フランソワ・ビルガーは新自由主義者として考慮されておらず、彼自身そう主張していないように思われた。

1.2 抵抗運動の間の構造改革に関する議論

クーセルにとっては抵抗運動の間、社会党の少数派である統制経済主義者(アンドレ・フィリップ、ジョージ・ボリス、ジュール・モック、ピエール・マンデス・フランス)と新自由主義者(エチエンヌ・イルシュ、ルネ・クルタン、マキシム・ブロック=マスカール、ルネ・プレヴァン)との間に論争があった[10]。前者は社会主義的枠組みを導入することを願っており、アメリカやイギリスに懐疑的だった。後者は市場と民営化が経済の核になると考えており、国際的な政策においてヨーロッパと大西洋の友好に肯定的だった。しかし戦後クーセルにとっての改革の実現においてこの議論は中心になく、むしろ共産党とド・ゴール将軍の影響が中心にあった。

1.3 フランスの新自由主義とドイツのオルドリベラリズム

2003年に議事録が公開された2000年開催のシンポジウムの報告の中で、フランソワ・ビルガーは集中と分散の論点を指摘しながらフランスの新自由主義とドイツのオルドリベラリズムを比較していた。分散にかかわる論点は両国における異なったアプローチを説明しているように思われた。

1.3.1 集中

彼らは、生産と貿易の自由、自由競争、価格メカニズムの自由な機能、金融システムの安定性を信じている。

彼らは、レッセ・フェールの自由主義は壊れやすいと考えている。効率的で安定した市場経済の確立はそれゆえ、財産、契約、破産、特許、競争、貨幣と信用の創造、財政システム、労働、社会的連帯に対する精緻な法律の制定や、同様にシステムを良く機能させるための国家による経済や社会に対する適切な介入に対し十分に配慮した説明を求めている[6]。

1.3.2 分散

1.3.2.1 理論の分散

「19世紀以来、フランスの経済学は主に実体経済のファンダメンタルズに対する数理モデルから派生した抽象的、演繹的アプローチによって特徴づけられていた。」このアプローチは、アルセーヌ・デュピュイ、オーギュスタン・クールノー、レオン・ワルラス、クレメント・コルソンによって示されてた。新自由主義者の中で、ジャック・リュエフとモーリス・アレは「社会物理を解明するこの伝統」を追求していた[12]。

ドイツは反対にヴィルヘルム・ロッシャー、ブルーノ・ヒルデブラント、カール・クニース、グスタフ・フォン・シュモラー、マックス・ウェーバーの伝統から現実と過去の傾向から導かれる帰納的で具体的なアプローチを採用していた。ビルガーによれば、これらの創始者は「ドイツの歴史家とドイツの理論家の間における方法論をめぐる論争を克服する意思を示していた」ヴァルター・オイケンに注目していた[13]。

1.3.2.2 哲学的にそして倫理的に異なった選択

フランスでは、ルイ・ボーダンやダニエル・ビレーによって、個人の自由、個人の自由に対する国家の干渉に対する不信、個人の主権が強調されていた[13]。

オルドリベラリストにとって、秩序と社会調和の概念が個人の自由に対する考え方と競合していた。「カントによれば、彼らは道徳に対する敬意の中で自由を擁護しており、言い換えるならば絶対的な自由でなくよく機能する自由のみに言及していた」[14]。

1.3.2.3 一般的な活動に関する異なった考え方

フランスの新自由主義者は財政と金融政策における時宜を失した政府の介入に関連した障害に非常に敏感だった。反対に、限界費用の管理を尊重するならば、彼らは大きな政府を維持することに反対していなかった。彼らはカルテルや寡占の形成にいつも反対している訳ではなかった。

オルドリベラリストはカルテルの禁止に基づき公正な市場の法制度を尊重する必要性についてより厳しい態度を示していた。「人間に対する好ましくない影響を修正するだけでなく、自由で公正な社会の発展に対して好ましい社会状況を創造するためにも、社会政策を実施することによってこの競争経済を確立すること」は妥当であると彼らは同様に考えていた[14]。

1.4 60年代後半にフランスの新自由主義が停滞した理由

多くの理由が[15]、60年代後半のフランスにおける新自由主義の停滞[16]がオルドリベラリズムの衰退とともに生じていることを説明している。

創始者の世代が移り変わり、事実と状況は進化していた。

20世紀のフランスの新自由主義と関係を断ち、バスティアのような19世紀のフランスの創始者と同様にオーストリアやアメリカに基づいたフランスのリベラリズムを再構築するフランスのリベラルの意思が存在していた[15]。

グランゼコールと大学との間に大きな隔たりが存在していた[15]。フランスの新自由主義はポリテクニーク出身者(第一世代としてアーネスト・メルシエ、ルイ・マーリオ、オーギュスト・ドトゥーフ、第二世代としてジャック・リュエフ、モーリス・アレ)と大学出身者であるルイ・ボーダン、ルネ・クルタン、ダニエル・ビレーに依存していた。

人はある方法で新自由主義はそれらの目標の大半を達成していたと付け加えるかもしれない。さらにフランスにおける新自由主義の創始者たちがある経済学派に属することの本当の意味を理解していたかについては疑問の余地が残っている。

2 言葉の新しい用法

1970年代後半からアングロサクソンの世界で、1990年代からヨーロッパで、ネオリベラリズムという言葉が(同様に「超自由主義」や「過度な自由主義」と呼ばれることがある[17])ケインズの考えに対する、また国家の介入に対するより一般的な方法の計画経済に対するリベラルな政策を示していた。このドクトリンはイギリスのマーガレット・サッチャー、1980年代後半のアメリカにおけるロナルド・レーガン、チリのピノチェト、だけでなく、IMF、WTO、世界銀行[18]やある程度は欧州連合において提唱されていた。この言葉はしばしば左派を示すために用いられたが、語の一部は「保守派」を示す右派を指していた。

その支持者にとって、それはその思考と行動において一新された自由主義を推し進めており、マネタリズムとサプライサイド経済学といった2本の主要な柱に基づいていた。それを非難する人々にとって、「新自由主義」は社会の不平等を増大させ、国家の主権を縮小させ[19]、途上国の発展を妨げていた。

2.1 「新自由主義」の政治学

これらの政策はほとんどの国におけるケインジアンの理論や国家の強い介入を植え付けた支配的な思想に対する根本的な批判を展開していた。より効率的な行政とより強い経済を目指すといった思想に影響され、それらはその代わりに経済において民間部門の利益のために公的部門の影響を縮小させることを目指していた[20]。

2.1.1 マネタリズムの推進

新自由主義はマネタリストの理論を擁護しており、それはシカゴ学派で構成されていたが、それによれば景気の波は生じるものであり、インフレーションは利子率を操作する政策によって抑えることができるとされていた。

2.1.2 サプライサイド経済の推進

ケインジアンにおける「需要」の刺激でなく供給の刺激が、もし景気回復が必要ならば、一般経済の支援のための重要な鍵になるとして示されていた。これは規制緩和と民間主導を目指す経済主体が直面するすべての「制約」を取り除くことによって達成された(民営化、減税、労働市場の流動化、福祉部門の縮小、公共支出の削減、国家予算の均衡回帰、倹約の奨励...)。

2.1.3 ワシントン・コンセンサス

ジョン・ウィリアムソン[22]によればワシントン・コンセンサス[21]は「新自由主義」を示す提案について10の論点に要約される。

財政政策について、赤字は短期的に企業活動や失業に対しプラスの効果を有しておらず、それはそれが将来世代の責任によるものであることによる。長期においてそれはインフレーションを引き起こし、生産性と企業活動を減少させる。そのためそれは避けられるべきであり、安定化が求められるとき以外用いられるべきではない。

政府支出は、教育、一般の人々の健康、インフラストラクチャーといった経済成長や低所得者の支援の鍵となる要素に対しその増大する活動を制限しなければならない。他の補助金(特に国際援助活動の論理によるもの)は有害である。

財政政策について、課税は広い課税対象と低い税率に基づかなければならず、それはイノヴェーションと効率性を損なわないためである。

金融政策について、利子率は市場で決定されなければならず、プラスであるが程々でなければならない。

通貨間の固定為替レートを禁止する。

国内と海外における経済活動の自由化について、これは競争と長期の経済成長を促すものである。私たちは輸入や輸出の割当量を取り除く必要があり、関税を低減し縮小する必要がある...

資本の自由な移動は投資を促す。

公営企業の民営化や公的独占の解体は市場の効率性や経済主体が利用できる選択の可能性を改善する。

規制緩和について、安全、環境保護、消費者や投資家の保護に関する規制を例外として、競争を妨げ、市場に参入する競争者を除外するあらゆる規制は取り除かれなければならない。

財産権は法的に保障されていなければならない。

金融化を促す。

2.2 新自由主義と時に呼ばれる経済学派

今日「新自由主義」という言葉はフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンのようなオーストリア学派やシカゴ学派に見られる類似していないリベラル経済の学派を示すために用いられており、2人はその言葉を用いていない。

しかしアメリカのケインズ主義において、古典的な自由主義やマネタリズムと対比して、新自由主義と呼ぶことがあるのは、ジョン・メイナード・ケインズが介入主義者のドクトリンを支持するために「新しい自由」とそれを呼んでいたことによる。しかしアングロサクソンの思想家はこの「新しい自由主義」を新自由主義と区別しており、後者の使用はケインズによって否定されており、実際のところ彼は自由主義の再来か社会民主運動を含むものとして考えていた。

ヨーロッパ大陸と北米の間にある「リベラル」の意味についての大きな隔たりはアメリカにおける「リベラル」という言葉の意味論的進化によって説明される。それは20世紀前半に多くのアメリカの社会主義者や社会民主主義者によって徐々に用いられ、ヨーロッパの社会主義の影響を打ち消していた。この発言はリバタリアンであるデヴィッド・フリードマンによってなされていた。「社会主義を浸透させる効果的な戦術の1つは、特にアメリカでは、肯定的な意味を有する単語に結びつけることだった。最も良い例はリベラルという言葉である。19世紀にリベラルはレッセフェールの経済、自由貿易、[...]市民の自由に関する政策を肯定していた。この言葉は非常に肯定的な意味を有し、今日でさえ[...]不自由はつねに悪い意味を示している。社会主義者たちは自由主義経済の政策に反対していた。自由主義は正しいと言って成功した人々は彼らをリベラルと呼び、その反対を「保守的である」と呼んでいた。」[23] リベラルという言葉の認識におけるこの違いは新自由主義という言葉の認識における違いを生じさせていた。

2.3 新古典派の自由主義としての新自由主義

1998年3月付けのル・モンド・ディプロマティークの記事の中でピエール・ブルデューは、彼が「純粋な理論」に対するワルラシアンの神話と呼んでいるものの中に「新自由主義の本質」を眺めているように思われる[24]。

2.4 新自由主義は資本主義の現代版か?

財にもはや限定することなく他の分野においても拡大している開かれたグローバル・マーケットの拡大を許容するWTOのような巨大な体制の中で交渉することによって、現代の資本主義は貿易の自由を拡大する傾向にある。これらの組織によって擁護される自由化は国内の規制を取り除くことを含んでいる。サービスの貿易に関する一般協定の発展や、以前は国家に帰属していた健康、教育、社会サービスのような市場に対する競争の導入により、サービスが関心の対象となった。このように資本主義は人間の生活の新しい分野にまで拡大している。ある人々は「世界の商品化」という言葉を用い、資本主義の発展に対する反対の意思を強調している。

資本は以前ほど当該国でのビジネスに束縛されていない。「新自由主義」に影響された現代の資本主義はグローバルマーケットで実体をもたない資本(株式)を保有し循環させる能力を必要としている。これらの資本取引は物理的移動を伴わず、単に世界の銀行のコンピュータ上における電子的記録の移動になる。取引可能な資産の市場は新しい分野に拡大され、水、電気、等が挙げられる。それはますます拡大し、例えば炭素排出権のような汚染する権利にまで広がっている。

2.5 批判されている考え方

多くの人々が責任を十分に負っていないことから「新自由主義者」として批判されている。自由主義の本質と矛盾するドクトリンから、反自由主義者たちは自由主義と新自由主義を批判している。

フランスのジャーナリストであるジャン=フランソワ・カーンは、彼が新自由主義と呼ぶ自由主義より新しい思想は実際のところ反自由主義と見間違う声明を続けている事実があると述べている。つまり自由主義は彼によればコングロマリットに対し公正な競争を強制する能力(独占禁止法やそれを実施する強い国家)を有する上部構造を仮定しているが、この新しい動きは両者に疑問を投げかけ、暗黙の協定や需要が決定しない相場により作り上げられたいくつかの寡占による支配の利益のために自由主義に対し結局のところ矛盾を引き起こしている。

ピエール=アンドレ・タギエフは、新自由主義は「扇動的な新左派」にとって災いの最後の呼称であると答え、一方アラン・ウォルフェルスペルジェは「超反自由主義」のことを話していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Antilibéralisme

反自由主義

反自由主義はリベラルな思想のすべてまたは一部、特に今日の自由主義経済に対するさまざまな反対によって特徴づけられる政治的な潮流である。

1 多様性

反自由主義の潮流は多様であり、第一に自由主義は唯一のものでなく、第二に提案されている代替案が多様であるからである。

1.1 自由主義の多様性

著作や著者によって定められているリベラルの定義は存在していない。ジョン・ロックやアレクシス・ド・トクヴィルの思想とアイン・ランドやデヴィッド・フリードマンの思想の間には大きな違いが存在している。フリードリヒ・ハイエクはこう記している。「普遍のドグマをつくることを許容する自由主義の原則の中には何もない。一度たりとも安定し固定されたルールが存在したことはなかった。基本的な原則は存在しており、取引において、私たちは自発的な社会の力を最大限に利用し、強制されることを最小限に抑制しようとしていることが挙げられる。」[1]

思想に関し一般的に多くの学派が存在しており、以下を含んでいる。

古典的な自由主義者は三権分立に関心がある(ジョン・ロック、ベンジャミン・コンスタン、カール・ポパー、フリードリヒ・ハイエク、ジョン・スチュアート・ミル)。

最小国家主義者は規制の機能に限定された国家の存在を擁護している(ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、フレデリック・バスティア、ハーバート・スペンサー、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)。

アナルコキャピタリストは国家は非合法であり、すべての機能が民間企業によって運営されることが望ましいと考えており、そこには司法、内部や外部における安全保障が含まれている(ギュスターヴ・ド・モリナーリ、マリー・ロスバード、デヴィッド・フリードマン)。これらの最後の2つのカテゴリーはリバタリアニズムに分類されることができる。

さらにほぼ常に自由主義は同じ問題に対し多くの解決策や同様に反対の解決策を許容してきており、決断するために別の考え方から援助を求める必要があり、リベラルな思想の多様性を増大させている。例えば国際貿易は、自由貿易を絶対的な存在としてみなしているが複雑な税関の組織も同様であるといったことを含めて、多くの主張の対象であった(税率を上げる必要性から、輸入品目に対して課税することは合法的であり、貿易の相手は完全ではなく、それをコントロールする必要があり、世界的な汚染を考慮に入れることは合法的であったこと等)。同様に一部のリベラルは「提携」(労働組合、職人のギルド、企業のカルテル)に対する措置を求めており、反対にこれらの措置を構成する障害物に対して議論を起こしていた。このようにリベラルと呼ばれる人々はすべてに対して合意を形成しておらず、反自由主義者のような一部の人々によって考慮に加えられているかもしれない。

1.2 反自由主義のさまざまな潮流

伝統的なカトリックに対する批判は1864年12月8日のシラブスの公表によりピウス9世の下で最高潮に達していた。彼は「私たちの時代の誤り」と呼んでいるものを批判しており、特に以下のものが挙げられる。「ローマ教皇は進歩、自由主義、現代文明と和解し妥協することができ、しなければならない。」 これは特に公的領域と私的領域(それに宗教は属していた)との分離を示しており、それは当時のリベラルや教会に反対していた。自由主義の本質である良心の自由についての発言に関し、ローマ教皇グレゴリウス16世はピウス9世の前で「誤った不合理な行動基準」であり「妄想」でさえあるとの表現を用いていた。自由主義は「誤りをともなう寛容さ」であるとして同様に批判されていた[2]。フランスでのこの運動の代表者の1人はアントワーヌ・ブラン・サン=ボネになり、その反自由主義の思想は同様に政治や経済の問題を組み込んでいた。この潮流は第一次世界大戦の前夜におけるフランスにおいて意味をなしており、例えば司祭であるエマニュエル・バルビエが宗教的政治的自由主義の批評雑誌を設立していた。

運動に対する反応はヨーロッパの戦間期に発展しており、イタリアでは1925年にムッソリーニ政権がすでに政治面と経済面の双方で同業組合と反自由主義への回帰に向かっていた[3]。ドイツではカール・シュミットのような人々は明確に反自由主義と反マルクス主義のイデオロギーを擁護しており、ナチ党に加わる前の保守的な改革に影響を及ぼしていた[4][5]。それはフランスでは第二次世界大戦中のヴィシー政権の政策によって具体化されていた。「自由主義経済の国際的な破綻」[6]を批判し、マレシャル・ペタンはフランス革命以来決定されてきたリベラルな措置に反対する労働憲章のような措置とともにある同業組合に基づく経済へと再び向かった。アラルド法、オリビエ法、ワルデック・ルソー法など。

歴史家であるゼーブ・シュテルンヘルは政治的自由主義にしか関心がなく、反自由主義である「反主流派」の動きの中にこの運動を統合し、それを彼はフランス革命からネオコンの時代にまで遡っていた。政治的にこの傾向はフランスでは反自由主義の解剖学の著者であるスティーブン・ホームズによればジョゼフ・ド・メーストルから伝統主義者としての反応まで遡ることになる。 

極右のプジャード派の起業家は競争に疑念を呈し、国家の保護を求めていた。

特にフランスでは1995年以来、2003年の年金改革やとりわけ欧州憲法条約に対する国民投票を通じて、今日の反自由主義の運動は展開してきた。反グローバリゼーション運動とフランスにおける反自由主義を掲げるグループは「反」ヨーロッパ運動の間に生まれ、反自由主義左派に属している。彼らはしばしば彼ら自身を「超自由主義」や「新自由主義」と呼ばれるものに代わるものとして眺めている。彼らの反対は本質的に経済問題に対して投げかけられている。この運動は特にPCF、les Alternatifs、LCR党、緑の党、社会党等を含んでいる。私たちはまた、ATTACやコペルニクス財団のような団体を加えることができる。この反自由主義はしばしば実際にはマルクス主義の社会主義者であるアラン・ビールによって強調されるように反資本主義である[9]。

2 反自由主義運動の分析

2.1 リベラルの分析

1927年にリベラリズムの中で記されているオーストリア学派の経済学派であるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスにとって、反自由主義に対する「心理学的」理由は2つの領域にまたがっている。

うまく成されているものに対する憤りと合理的な議論が導き出すだろう感情になる。

「フーリエの複素数」とも示されるが、ミーゼスは、挫かれた願いにより神経質になり、非現実的なイデオロギーに基づくより良い世界の中を浮かんでいると考えているものをそれにより表現している。

最近では、作家でありエッセイストであるギ・ソルマンが、自由主義と反自由主義が特徴づけているものとの違いを強調していた。2007年4月に彼は以下のように述べた。「反ユダヤ主義がユダヤ人とほとんど関係がなく、反米主義が本当のアメリカと離れたものであるのと同じように、反自由主義はフランスの自由主義とほとんど関係がない。この反自由主義は、想像上の話として、それを声高に言う対象について説明していたが、私たちにフランスのリベラルの伝統について何も示していなかった。」[11] 彼は後にこう付け加えた。「反自由主義はいつも惨憺たるものであったが、一方自由主義はイスラムに対してであれそうでないにせよ前に進んでいる。」[12]

ペルーの作家であるマリオ・バルガス・リョサは、反自由主義が極右と極左の接点になっていると述べており、左派は概して「スケープゴート」として作り上げた自由主義に対して繰り返した敵愾心によって極右の反自由主義者と反動主義者を呼び覚ましたと考えていた。さらに反自由主義はバルガス・リョサによるとある知的サークルにとっては過去の共産主義のイデオロギーに取って代わるものとして眺められていた[13]。フランスの哲学者であるジャン=フランソワ・ルヴェルは同様の考えを展開し、自由主義に対する現代の敵愾心は「空想的社会主義後の再評価」に対する願望につながっていると2000年に述べていた[14]。

2.2 反自由主義は陰謀説によって導かれているのか?

ボルケスタイン指令や2004年の欧州条約に関する国民投票のように、さまざまな場面で、ブリュッセル以来「国民に対して」向けられてきた「超自由主義の」計画の反対者による批評は、時には陰謀主義者のビジョンとして描かれてきた。この分析によれば、たとえ彼ら自身が絶対に陰謀ではないと話していたにせよ、そうでないにせよ、この反自由主義はリベラルの陰謀に対する抵抗として考えられてきた[16]。例えば作家でありジャーナリストであるステファン・デニによれば、この見方から「ヨーロッパはリベラルによる陰謀論の中心である」とされている[17]。さらに一般化すると、レゼコーの編集者によれば、フランスにおける「改革」の反対者たちは「リベラルによる大きな陰謀論が彼らを脅かしていると考えている」[18]。ジャーナリストであるジャン・キャトルメールは陰謀論に傾くAcrimedのような協会を批判している[19]。この状況の中で、彼はこの協会の協同推進者であるアンリ・マレの生き生きしたレプリカを描いていた[20]。

パリ政治学院教授のアラン・ウォルフェルスペルジェはさらに一般化して反自由主義の中に陰謀論からさらに進んだ誇大な解釈を眺めている[21]。

フランスのエコノミストであるピエール・カユクは、多面的な考慮を妨げながら、「リベラル」のそして「アングロサクソン」の陰謀があらゆる状況を多元的に決定していることを残念に思っていた。

3 フランスの反自由主義

3.1 政治表明

フランスには排他的なリベラルの大政党は存在しておらず、反自由主義の左派や右派からの声明が聞かれることがある。このことは政治学者であるフィリップ・レイノーにそれがフランスにおける「反自由主義の環境」を支配していると示されている[23]。

同様にジャン=ピエール・シュベヌマンは2006年に「反自由主義で共和制支持のより良い候補者」としての資格を得たが、一方社会党第一書記であるフランソワ・オランドは「私は同じように左派であり反自由主義である」と付け加えた[25]。ジャック・シラクは2005年に「自由主義は共産主義と同じくらい惨憺たるものである」と考えており[26]、2007年に「自由主義は人間の思考の堕落である」と付け加えていた。ジャック・シラクと同じように編集者であるケルドレル・イブはフランスにおける反自由主義の最も決意の固い旗手だった[27]。2008年5月にベルトラン・ドラノエはニコラ・サルコジについて「サルコジズムに示される抑制された独裁体制は徹底的に反自由主義の立場だった」と付け加えていた[28]。

3.2 起源と説明

2つの傾向がフランスにおける反自由主義運動の説明において錯綜しており、ある人々はそれを文化的先祖返りとして眺め、他の人々は純粋に一時的な理由を眺めていた。

もしエリー・アレヴィの定義にしたがうならば、フランスの反自由主義は政治に動機づけられ、権力に対する反対や「チェック・アンド・バランス」のシステムを拒否するフランスの絶対主義者の伝統の中に根付いていると思われた。その結果、国民が階層的にでなく個人が何か別のものや組織にしたがっている限り、フランスにおける反自由主義のある形態が、同様に手際の良くないやり方で、広く認識されたリベラルの意思を示していないことを問題にすることは自由であった。アレクシス・ド・トクヴィルによれば、自由主義経済と重農主義者がフランス革命で伝えたアンシャン・レジームの行政の伝統の回復の混合がフランスの問題の源であると見られていた。政治アナリストであるエズラ・スレイマンは同様にフランスは「自発的な反自由主義」の国であると考えていた[30]。

その反対に、哲学者であるマルセル・ゴーシェは、フランス社会の一部である現代の反自由主義は戦後のブーム後に生まれた新しい世界に直面し「状況のずれや後退に対する認識」を示しており、それに対しそれは代替モデルを有していないと考えていた[31]。反自由主義の精神分析の中で、クリスティアン・ストファエは、国民的な反自由主義が歴史的基礎を有していないことを示すために、バスティア、セー、リュエフとともにフランスの思想におけるリベラルの遺産を同様に強調していた。

3.2.1 反自由主義の政治

エリー・アレヴィによる[32]。「政治的自由主義は道徳上の悲観主義に依存している。人間の性質は本質的に悪であり、国家の本当の関心や個人の本当の関心を理解することは不可能であり、すべての政府は悪である...多様な憲法の思想や複雑な憲法の思想、民主的な要素は貴族的な要素にとって「失敗」であることや逆も同様であること、行政権と司法権、司法権と立法権、行政権と立法権は同じ重みを有しており、それは仕組みの中でバランスを保っている...リベラルな国家は、それが主権のない国家であるかそれが多くの主権を封じ込めているといったことを望むときはいつでも述べることができる国家である。」 しかしフランスでは第三共和制の間でさえ、国家は複数の主権を有することが可能であり、正確に言えば、対等な主体の間に対話が存在する可能性があるといった考えに対する不信があった。

1930年代にアメリカの経済学者であるエドワード・メイソンはフランスの社会主義を研究するためにフランスを訪れ、最終的に十分に近似された話を通じある記事にまとめた。「しかしながらサン=シモンと現代の自由主義は2つのことを願っており、自由な利益に対する制限を課した入念なネットワークが存在している。この2つのドクトリンの間の主な違いはこれらの制限における性質になる。サン=シモンは、社会の利益を阻む特定の利益を妨げるのに十分なほど強い、ビジネスにおけるある種の道徳である倫理の発展の可能性を眺めていた。共通の道徳に関する思想を受け入れることの必要性を強調し、ある場合にはビジネスの倫理を発展させる可能性を認める自由主義は、しかしながら、政府による規制のやり方を構築することの意義を強調していた。サン=シモンも自由主義も政府による企業の支配と所有に対する経済的利潤によって強い印象を与えられていない。」[3]

3.2.2 反自由主義の経済

ミシェル・ゴデにとって、企業、貿易、集中の自由は「フランスでは歪められた形で同一視されてきたが、資本主義にとって他のすべての国ではリベラルは改革派、進歩派、民主派であり、保守派に反対する人々だった」[34]。歴史家であるゼーブ・シュテルンヘルは反自由主義は左派にとって危険なものであると考えており、事実「反自由主義者であると言うことは反資本主義者であると述べていることにしかならず、同時にリベラルの価値観に反対していると述べていることになる」[35]。

オーギュスタン・ランジェとダビッド・テスマルは以下のように考えていた。「自由主義経済を拒否するこの現象について印象づけるものは、それがフランスの特異な点であるといったことである」[36]。著者たちによると、フランスの反自由主義は起源に関して文化的なものではなく、戦後のブームに特に関連していた。1945年以前、自由主義はフランス社会のコンセンサスだったが、自由貿易には反対していた。第二次世界大戦はこのコンセンサスに影響を与え、戦後の強い経済成長が「反自由主義にフランスの有権者の意識を向けさせることになった」。しかしながらこれらの著者たちは、前もって蓄積された富の格差により主に「機械的に」戦後の成長がなされ(戦間期や第二次世界大戦の間)、成長を「効率的に調整した」とされている統制経済の成果によるものではないと考えていた。この「ノスタルジー」は例えば、この時代にアングロ=サクソンの国々で採用された政策と逆に作用し、1981年の国有化の波を説明するだろう[37]。

反自由主義との関係でランジェやテスマルが、フランスのビジネスリーダーが利益を巡る潜在的対立を認識することを拒否していると強調していることは記されるべきであり、反権力の役割を彼らはこう記していた。「多数の従業員を監視する方法に権威を与える言葉は...ボスの仕事になった....フランスは支配層のエリートが率直なところ直面している可能性がある利益の対立を明示的に認識することを拒否していた」[38]。

Enjeux les Échos誌は同様に、反自由主義は自由主義を示すものを不当に扱い非常に遠ざける恐れを鑑みるとフランス特有のことであると考えていた。ジャーナリストであるマリー=ポール・ヴィラールは、自由主義がすべての現代の問題に責任があるとするのはフランスにおいてでしかなく、これが結局のところリベラルの哲学の基礎とほとんど関係がないとするのは仕方がないことでもあると記していた[39]。

エコノミストであるジル・サン・ポールは自由主義に反対する信念の意義とそれらの伝達のメカニズムを強調していた。彼によれば、フランスは「市場経済に対するマイナスの社会的評価によって特徴づけられた。そして改革に対する抵抗を増大させる信用を生み出すシステムが存在していた。この信用は教育システムやメディアといった機関のバイアスによって再生産されていた」[40]。それは、2002年の大統領選挙において、教員の72%が左派の候補者に投票する意思を表明しており、「マルクス主義者」と呼ばれる候補者に対してその13%が賛同していたことを強調する結果になる(反対票はそれぞれ42,89%と13,81%になり、実際全人口を記載したものに対する数字になる)[40]。

フランスとドイツでは、教科書が企業の世界を悪いものとして描いており、学校は「市場経済に対する深刻な嫌悪感を頭の中に植え付けることを手助けしていた」[41][42]。社会学者であるミシェル・ロカールは「全般的にフランスの経済に対する理解のなさ」を残念に思っており、「抽象化と教条主義のレベルが社会的実践の中におけるあらゆる活用を妨げるビジョンを経済における彼らの短い間の仲間から受け継いできた中等教育を終えた学生たちとともに2,3年前に交わした会話を思い出していた」[43]。

この反自由主義はマイナスの結果をもたらす可能性があり、ニコラス・バヴェレズにとって、「反自由主義はフランスの衰退や後退の原理を見出す惨事になっていた」[44]。スイスの新聞であるル・タンによれば、右派と左派からフランスの反自由主義はフランスを動けなくしていた」[45]。モニーク・カント=スペルバーやベルナール・アンリ・レヴィのような哲学者は同様に現在展開されている反自由主義の考え方を批判しており、それは、左派が近代化に取り組み、リベラルの遺産の分け前を要求することを妨げていると考えていた[46][47]。この観点は同様に、左派が特にフランスで「自由主義を愛する」ことを学ばねばならないと考えている経済学者であるアルベルト・アレシナやフランチェスコ・ジャバッチによって共有されており、同じようにとりわけ経済学的含意の中で、彼らによると自由主義は年金や特権に対して反対運動を行っており、「部外者」を保護していることを理由にしている[48]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Neoliberalismus

新自由主義

新自由主義は(古典ギリシャ語のνέος neos「新しい」とラテン語のliberalis「自由に関する」からきており)概念上の造語であり、最初、1938年にフランスのエコノミストであるベルナール・ラヴェルニュが特徴を示し[1]、同じ年にアレクサンダー・リュストウによってドイツの専門用語としてパリで開催されたウォルター・リップマン・シンポジウムにおいて定義されていた[2]。20世紀中頃の自由主義の再来はさまざまな経済的そして政治的概念を含んでいた。数世紀を通じて、古典的自由主義は経済活動に国家が介入することに反対する新自由主義に取って代わられたが、寡占や独占といった不完全競争を是正する介入を肯定しており、経済的自由と政治組織の相互依存関係が強調されていた。

新自由主義という言葉は扱う範囲が広く多様であり、そのため個々の学派や個々人の描写は論争の元になっていた。特にフライブルク学派(オルドリベラリズム)とシカゴ学派は新自由主義学派と呼ばれるが、オーストリア学派のフリードリヒ・フォン・ハイエクも同様であった。主にオルドリベラルでは、彼は社会的市場経済の重要な理論的基礎をなしたとされていた[3][4]。

1960年代にこの言葉は忘れ去られ、それは新自由主義者として振る舞う研究者のつながりが活発でなかったことによる。

1970年代に新自由主義という言葉は再び取り上げられるようになり、意味の変遷を経験した。チリの新自由主義に反対する研究者はその言葉を否定的な意味で用いており、シカゴ・ボーイによるラディカルな改革に影響を及ぼしたシカゴ学派の思想を批判していた[5]。

経済史的観点とは別に、政治的概念、成長モデル、イデオロギー、アカデミズムのパラダイムとして新自由主義という言葉が新たに用いられるようなった[6]。一部の批評家は、自由市場システムの発展に対する不正で反社会的な影響を及ぼしていることを念頭に、その言葉を用いていた。

最近では新自由主義という言葉は基本的に論争の多い概念、論争中の問題、政治的軽視の表現として用いられている[7][8][9]。

1 歴史と展開

19世紀にはすでに古典的自由主義と社会主義からの散発的な批判があった(先駆けとしてのレプケ、ジャン=シャルル=レオナール 、シモンド・ド・シスモンディ、ピエール=ジョゼフ・プルードン、ウィルヘルム・ハインリヒ・リール、ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン、ピエール・ギヨーム・フレデリク・ル・プレイなどが上げられる)。新自由主義の始まりは通常戦間期に遡る。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フランク・ナイト、エドウィン・キャナンはまだ新自由主義の代表として認知されていなかったが、特にミーゼスは次の世代に大きな影響を及ぼしていた。1920年代に始まる中央による計画経済と金融面での過剰投資に対する彼の批判はリベラルな人々に好意的に受け止められていた[10]。

新自由主義に貢献した最初の学派として、1930年代に起こったフライブルク学派、キャナン学派、シカゴ学派が挙げられる。ヨーロッパの学派は社会主義、共産主義、ナチズムとの対立によって特徴づけられ、同時に古典的自由主義とは一線を画していた。彼らは価格システムに対する政府の介入(例えばニューディール政策)を批判しており、国家の経済力を最大限縮小する市場経済を提案していた[10]。

最初は個々の学派間の交流はほとんどなかったが、アングロサクソン諸国において国家社会主義が導入されてきたので、1930年代においてドイツやオーストリアの新自由主義者たちは変わっていった。最初の国際会議は1938年にパリで開催されたウォルター・リップマン・シンポジウムであり、自由主義の改革のための研究における国際センターになる。ウォルター・リップマン・シンポジウムで新自由主義という言葉を造り上げていた。アレクサンダー・リュストウによる新語は新資本主義、社会的自由主義、左派による自由主義(フランスの左派自由主義)といった代替案に優っていた[11]。その名称は19世紀のレッセ・フェールの自由主義と対比された新しいリベラルの考え方を示していた。しかしすべてが新自由主義という言葉を採用していた訳ではなく、レプケは新自由主義という言葉の定義を「会議における最も不運な結果」と呼び、オイケンはそれを原則として拒否していた[12]。しかしながら第二次世界大戦から1960年代初頭までその言葉は使用され続け、特にドイツでは、社会経済に関する概念上の基礎について重要な議論が行われていた[13]。

第二次大戦後モンペルラン・ソサイエティーの支援により国際的なネットワークが増加していた。新自由主義の思想家がその考えを結集し普及させるために、ウォルター・リップマン・シンポジウムの15人の参加者が1947年にモンペルラン・ソサイエティーを設立していた。ここですぐにアルベルト・フーノルトやアウグスト・フォン・ハイエクが指導力を発揮していた[14]。1960年代初頭にはフォン・ハイエクのグループとフーノルトやヴィルヘルム・レプケのグループの間で社会の将来の方向性について議論があった。結果としてレプケは1962年に会長の職を降り、フーノルトとレプケは外に出ることになった[15]。第二次大戦後多くの諸国が経済システムを選択する問題に直面することになった。1945年から1965年の間に新自由主義は最大の政治的影響力を及ぼすようになっていた[10]。アカデミズムはフリードリヒ・フォン・ハイエク、ミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラー、ジェームズ・M・ブキャナンのような思想家にノーベル賞を授与していた。

1.1 外観

新自由主義という言葉は広く多様な潮流を表現するために用いられており、他の学派との大きな違いや個々の学派や人々の違いが議論の対象となっている。

したがって例えばリュストウの伝記作家であるカトリン・マイアー=ルストはすでにウォルター・リップマン・シンポジウムで「古いリベラル」との不一致を示しており、それに彼女はフォン・ミーゼスやフォン・ハイエクを含めており、新自由主義者であるオイケン、ルプケ、リュストウも紛れもなく明らかにそうであった[16]。リュストウは1959年に「多くの古いリベラル、妥協しない古いリベラルの一部に対して、特にアメリカでは、それを間違った方法であり誤解を招いていたが「新自由主義」と呼び、大きな混乱を引き起こしていた。不運にも私たちはそれに対し特許訴訟や商標の保護を行うことができなかった」との不快感を述べていた[17]。

リュストウの伝記作家であるヤン・ヘグナーの後、基本的な考え方によって新自由主義者たちを区別することはできなくなり、むしろ政府の機能と責任の範囲や介入の結果における問い掛けに対する微妙な差異しか存在していなかった[18]。ヘグナーによれば社会指向の新自由主義(ヨーロッパ大陸に影響された新自由主義)と個人指向の新自由主義(アングロサクソンの新自由主義)を区別することができる程度だった。個人指向の学派に彼はロンドン学派(ライオネル・ロビンズ、エドウィン・キャナン、Th・グレゴリー、F・C・ベンハムなど)、オーストリア学派(ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク、ゴットフリート・フォン・ハーバラー、フリッツ・マッハループなど)、シカゴ学派(ミルトン・フリードマン、ヘンリー・C・シモンズ、G・スティグラー、フランク・ナイトなど)を含めていた。「もし一般的な用語として社会指向の新自由主義を受け入れるならば、その概念を細分化することが可能になる。これらは個々のオルドリベラリズム(フライブルク学派、ヴァルター・オイケン、フランツ・ベーム、ハンス・グロスマン=ドエルト)、社会学的新自由主義(ヴィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストウ)、社会的市場経済に該当する。」 社会指向の新自由主義は社会に対する特別な義務を眺めることができ、それを社会のメンバーは引き受け、それをいざというときには行うことになる。「概して、基本的な方向性についてこれらの多様な新自由主義は異なった力点を有しており、思想家たちが互いに影響を受け合うといった事実の分類を意識して行うことができる。結局のところ個人的な研究の力点、その態度、内容に関連していない違いが、大陸のグループの支持者のその場における分類を決定していた。」[19]

エルンスト=ヴォルフラム・デュルに関連して、ラルフ・プタクは、競争の確保や社会政策の実施といった政府の役割になると、アングロサクソンの造語である個人指向の新自由主義は基本的に厳しい基準を当てはめることに気が付いた[20]。50年代の終わりはヨーロッパ大陸型の新自由主義とアングロサクソン型の新自由主義の違いが明確になり始め、モンペルラン・ソサイエティーに激しい対立をもたらしたが、プタクによれば、過大評価されるべきではなかった。新自由主義が統一的な見解を示していないといった事実は、少なくともブルジョワ国家や現代の産業社会に対してその国特有の発展の経路を説明しており、それゆえ国民経済のドグマと自由主義の理論における違いが生じていた[21]。

ラース・ゲルテンバッハは、多様な新自由主義のアプローチにもかかわらず、さまざまな学派における内容に関する一致点を見出していた。オルドリベラリズムやシカゴ学派は、一方では古典的自由主義(レッセ・フェールの自由主義)から、他方では社会主義から定義されていた。古典的自由主義から新自由主義を分ける認識論的契機はミーゼスの理論的方向転換に基づいており、後の2つの学派の中で保証されることになった。オーストリア学派、ロンドン学派、シカゴ学派、オルドリベラリズムが決定的な役割を果たしたように、ハイエクは、ゲルテンバッハによれば、新自由主義の中心的存在になっていた[22]。しかしこの基本的な合意にもかかわらず、ゲルテンバッハによれば、ハイエクとオルドリベラリズムの間には広範囲にわたる違いが存在していた。「社会正義の基準に対する立場を含む市場指向の規制を意識して制定するオルドリベラルの構想は自発的な秩序を考慮していたハイエクの理論と矛盾していた。」 もう1つの理論的な経済上の違いは、ハイエクがオイケンと対照的に市場均衡に対する新古典派の考え方から乖離していたという事実にあった[23]。その違いはしかしながら少なくとも基本的な理論の方向性に存在していたが、「政治的目標の方向性にも存在しており、政治的レトリックにおいても基本的に確認することができた」。オルドリベラリズムと異なり、ハイエクの新自由主義は、特に政治的観点でいえば、中道を介するものではないと理解されていた[24]。

ピースは、細部の違いにもかかわらず、ハイエクとオイケンの仕事は同じ考え方を有していたといった結論に達していた[25]。

経済倫理学者であるピーター・ウルリッヒは(アングロサクソンの)新自由主義とオルドリベラリズムの本質的な違いを以下のように眺めていた。新自由主義の効率性は[...]資本の効率的使用における市場経済システムの機能に関する要件を国家が用意することになるので政治の優越を認めていたが、一方、オルドリベラリズムの指導者であるウィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストウ、ヴァルター・オイケンは市場経済のロジックより政治的倫理の優越を強調していた[26]。

1.1.1 市場指向の規制の考え方

ゲルテンバッハは、市場の秩序のための法整備の必要性に関して、ハイエクの理論とオルドリベラリズムとの内容に関する一致点を眺めていた。ここではしかしながらオルドリベラルの思想は市場指向の規制を意識した制度や社会正義の基準に対する政治的方向性の前で自発的な秩序を考慮しているハイエクの理論と矛盾しており、ハイエクの見方によれば、規制を意識した制度の設計は「知識の不当行使」に基づいていた(認識論的懐疑論)[27]。インゴ・ピースによれば、ハイエクの訴えは、まるで彼が政治的禁欲を求めているかのように、秩序を計画しないことであると解釈されていなかった。ハイエクは、オイケンが規制のカテゴリーで用いた意味でなく、結果としてのカテゴリーといった意味で「秩序」という言葉を用いており、ピースの見方によれば、多数の文献において誤解が散見されていた[28]。ハイエクは自発的な秩序に言及しており、自発的な規制に言及していなかった。したがって意図的になされた規制に基づいた完全に自発的な秩序の形成はハイエクにとって十分に想定できることであった[29]。

シカゴ学派としてのハイエクとオルドリベラリズムは生存に対する国家の保証について議論していた。ラインハルト・ジントルによれば、競争のプロセスにおける不正を正すことではなく、共同体としての責任がハイエクにとって重要であった[30]。フィリップ・バッチャーニによれば、権力や所得の分配に関して、市場の結果における変化に対してでなく、行動様式に対して国家の規制が適用されるかもしれないといったことが、原則的にハイエクに対して当てはまっていた[31]。累進税率の所得税を彼は受け入れていなかった[32]。オルドリベラルの思想家であるオイケンにとって、しかしながら、それは所得分配から生じる競争に対して累進税率の所得税のように低所得の家計に対する是正のための秩序を必要としていた[33]。特定の状況では、最低賃金の固定化が提唱されていた[34]。

ベルント・ジーグラーによれば、シカゴ学派は自由放任政策を代表しており、それは国家に対し狭く定義された活動しか割り当てていなかった。その後国家は、国を守り貧困層を支援するために、私有財産を保護しなければならなかった。特にフリードマンは福祉国家を費用がかかる「モンスター」とみなしており、彼は国家による年金や最低賃金同様、公共住宅の建設までも受け入れていなかった[35]。

1.1.2 競争の秩序

オルドリベラル学派にとって独占禁止法は自由市場を機能させることを保障しており、国家の活動はここにおいて必要であると思われていた。「シカゴ学派は、あらゆる状況における参入障壁をなくすことにより、競争は調整されるだろうと期待していたので、上述のようには眺めていなかった。これゆえ独占禁止法でさえそれを抑制するために適用される評判の良くない規制を形成するだろうと考えられていた。」[36] ハイエクは原則として競争政策に関連した国家による制約を受け入れておらず、必需品やサービスにおける独占においてのみ、彼は政府の介入を正当化していた。著作においてハイエクは一貫して、国力に関連した民間の経済力をこの背景において危険な自由でもなければ批判される対象でもないとみなしていたことを認めていた...ハイエクにとって経済的独占や独占から生じる市場を支配する力は、原則として個人の自由や競争に対する脅威を意味していなかった...ハイエクは後期の著作の中で競争が存在している独占の効率性に付随する独占の問題に対する態度を示しており、そのことはリバタリアンであることを正当化する強い意味を有していなかった[37]。

1.2 ヨーロッパ大陸の特徴を有する新自由主義

1.2.1 オルドリベラリズム

「オルドリベラリズム」という言葉はヒーロー・ムーラーに遡り、1950年代に議論されていた。それは徐々に定着していき、部分的にはドイツ語の「新自由主義」の同義語として、また部分的にはフライブルク学派のために厳密に意味を限定した語として用いられていた。時としてそれは新自由主義と矛盾しており、モン・ペルラン・ソサイエティーのハイエクやフリードマンの影響の下で発展したウィーンの思想やシカゴ学派はその新自由主義に制限されていた[38][39]。フライブルク学派のオルドリベラリズムは新自由主義をドイツに焼き直した形の中で中心的な位置を占めていた[40]。フライブルク学派は1930年代初頭に形成され、法律家やエコノミストはオイケンの指導の下で国民経済の理論や経済秩序にまつわる一連の問題に取り組もうとしていた。彼らの観点はドイツの合法的なカルテルや独占を支援しており、彼らの特別の関心はそれゆえ独占禁止法や制限された経済力や競争の維持にあった。これは、国家社会主義が終焉を迎えた後、ドイツの経済組織を再考することにつながった。カール・フリードリヒ・ゲルデラーやフライブルク学派を巡り抵抗する関係が存在していた[10]。

1.2.1.1 ヴァルター・オイケン

オイケンはドイツの秩序モデルにおける思想を打ち破ることを援助していた。彼の『国民経済学の基礎』(1940)の中で、それまでまだドイツで優勢だった(アングロサクソンの)理論経済学からの分離や「部分を強調し抽象化する」といったドイツでまだ普及していた歴史学的方法を克服することを試みていた。結果として、彼は2つの基本的で理想的な経済システムである中央管理経済と流通経済を提唱していた。『経済政策原理』(1952)の中で彼はこれらのモデルを実体経済のシステムと連携させていた。原則から導かれていないとして、彼は混合モデルを受け入れなかった。彼は完全競争のモデルに基づき経済システムを発展させ、現実を認識する方法を示していた。継続する競争を通じてのみ、経済力と個人の自由の一貫性が可能であった[41]。

オイケンによって打ち立てられた路線は、ルートヴィヒ・エアハルト(1949-1963,連邦経済大臣、1963-1966,首相)に示されるように、社会的市場経済の中によくまとめられていた[42]。したがってオイケンは社会的市場経済における理論的な思想家としてみなされていた[43]。

1948年に彼は経済と社会の秩序についての年報であるORDOといった雑誌を出していた。

秩序に関する政策における基礎研究に従事していたフライブルク大学のヴァルター・オイケン研究所やドイツにおけるオルドリベラリズムやヨーロッパの政治を区別して受け入れてきたヴァルター-オイケン-アーカイブは彼の名にちなんでいた。それは彼が50歳の頃のことだった。彼の命日に秩序に関する政策を扱う財団が設立された。

1.2.1.2 フランツ・ベーム

フランツ・ベームはオイケンとともにフライブルク学派(オルドリベラリズム)の創始者として扱われていた。大きな影響を及ぼした彼の学説には、私法の社会と市場の社会における法的なそして経済的な秩序に関する相互依存の分析が含まれていた。私法の社会は国家と社会の分離を通じて示されていた。それは競争における秩序を必要としていた。彼の初期の著作において、彼は構成主義的な競争における秩序の基準を通じて完全競争を設ける見方を抱いていた。後期の著作はこの要求から離れ、法的枠組み(自由と市場経済における秩序)の中で自由競争を制限することを考慮していた[41]。

1.2.1.3 オルドリベラリズムの他の支持者たち

フライブルク学派の他の支持者たちはハンス・グロスマン=ドエルト、ハンス・ゲシュトリッヒ、ベルンハルト・プフィスター、コンスタンティン・フォン・ディーツェ、フリードリヒ・A・ルッツ、フリッツ・W・マイヤー、カール・フリードリヒ・マイヤー、レオンハルト・ミクシュ、アドルフ・ラムペ、ルドルフ・ジョーンズになる。それだけでなくエルヴィン・フォン・ベッケラート、ギュンター・シュメルダース、ハインリッヒ・フライヘル・フォン・シュタッケルベルクが密接に関連していた[10]。

1.2.2 社会学的(新)自由主義

理論家であるアレクサンダー・リュストウ、ヴィルヘルム・レプケ、そして部分的にはアルフレッド・ミュラー=アルマックは、レプケによれば、社会学的新自由主義(同様に社会学的自由主義、経済自由主義、人文主義)の立場を示していた。これらは広い意味でオルドリベラリズムの方向性を示していたが、この分類は論争の余地が残っている[44]。

経済力に課された制約とともに主にフライブルク学派を取り扱う際、リュストウやレプケは社会学的問題、例えば社会的一体性(社会的補償)や大衆化に着目していた[45]。オルドリベラリズムの対処法はそのため社会的な介入に拡大していた。市場経済はキリスト教的人文主義の倫理を達成するための手段として機能していた。

1.2.2.1 ヴィルヘルム・レプケ

「経済の基準は人間である。人間の基準は神との関係になる。」-ヴィルヘルム・レプケ[41]

経済秩序はレプケにとって社会秩序の一部だった。社会秩序の目標は人間の社会基盤を奪うことに対し抵抗することであり、集散主義の動向に抵抗できない人間を援助することであった。早くから彼は現代の福祉国家の傾向に集散主義の特徴を認め、それを強く批判していた。

1.2.2.2 アレクサンダー・リュストウ

1932年にアレクサンダー・リュストウは社会政策学会での会議において新しい自由主義の目標を概説していた。

「今日受け入れられ、私の友人とともに支持している新しい自由主義はあらゆる場面において想像以上の強い国家、経済を超える国家を必要としており、それは相応しいものになるだろう。」-アレクサンダー・リュストウ[46]

ドイツの新自由主義の誕生とみなされるこのスピーチで、リュストウは、大規模な経済社会における逸脱に対する望ましくない構造変化を避けるための政府の介入を責任があるものにした。これらの必要な調整を妨げる代わりに、これらのプロセスは摩擦的損失を最小化するためにも加速されるべきであった[47]。リュストウは保守的な補助金に反対していたが、非介入主義と一定の拡大を示す介入主義の間における第3の解決として、時間的に物質的に制限された範囲か例外的な状況においてのみ認められる適応のための補助金を提案していた。これによって構造変化の結果は、目標とされ市場に基づいた介入の加速を通じて、調整コストを最小化するために、もたらされるべきであった[48]。

リュストウは「強い国家」を利益集団からの圧力を払いのけることができないことを意識していない国家に対する対抗モデルとして理解していた。その強さは多量の仕事や手の届かないところにある権威から生じているのではなく、たんに競合する利益集団から影響を受けない能力によるものであった。この能力は秩序のフレームワークを保護し国家の機能を制限することに基づいていた[49]。リュストウの見方によれば、市場は役立つ機能を有しており、それは個人や社会が要求する物質を確認することを意図していた。市場に関して競争は組織の原理になる。しかし競争の原理は社会統合を促さず、これらの原理のみに社会は依存していない。それゆえリュストウは市場の限界を第2の領域として区別しており、その下で彼は、文化、倫理、宗教、家族といった人間性の本質を理解していた。ここに道徳的価値観や組織の原理が存在していた。この領域では、課題、統合、連帯、道徳的基準を確認することができた。国家が課題を2つの領域の中で互いに制限し、それぞれの領域の内側で秩序のフレームワークを設定し保障していたのは、領域の内側で干渉し、そこでは自己組織化が機能しないからであった(補完性の原理)[50]。

1.2.3 社会的市場経済

社会的市場経済はオルドリベラリズムの思想に基づいているが、よりプラグマティズムの立場が強いものであり、例えば経済政策に対する政治の影響の強さや社会政策自体の主張を強調している点が挙げられる[3][51]。トゥーフトフェルトはこれを自主的な新自由主義のタイプであるとみなしていた。

1.2.3.1 ルートヴィヒ・エアハルト

「つまりかつて理論が時代の様子を正しく解釈しており、それらの知見が適切な経済社会政策に新たな推進力を与えていたとき、今日の新自由主義者やオルドリベラリストのような人間の思想に十分な価値があった。あなたは経済政策にいつも多くの社会政策を強調しながら与えており、機械仕掛けのような思考の孤立からあなたを解放していた。」-ルートヴィヒ・エアハルト[52]

1.2.3.2 アルフレッド・ミュラー=アルマック

『経済統制と市場経済』(1946)という著作の中でミュラー=アルマックは「社会的市場経済」の考え方を発展させた。市場と社会は対立事項として認識されていなかった。すでに大きな社会保障給付が結果として残っていた。市場の効率性は生活水準の継続的な改善を可能にしていた。このことは1人あたりの所得と社会サービスのために利用できる資金を増加させていた。消費者の権利と競争は権力の集中に対して反対に作用していた。これらは、家族保険、新しい所有権の形成、自営業のための機会の改善、企業経営への参加といった社会制度を補完していた[41]。ミュラー=アルマックは社会的市場経済の概念によりフォン・ミーゼス、フォン・ハイエク、オイケン、ベーム、ミクシュとともにそれを指摘しており、レプケとリュストウが影響されていた。

どの経済主体にも市場で彼ら自身を良くする機会を与えているので、競争経済システムはすでに自発的に社会的であるといったことを背景にして、秩序政策と社会政策に関する広い定義から生じている、オルドリベラリズムと対照的に、アルフレッド・ミュラー=アルマックは、社会的平等に関心がある国家は経済的プロセスに十分に介入するべきであり、そうしなければならないが、とりわけ市場にしたがった資金でなければならないといった思想を示していた。キリスト教の社会倫理の要素を含めることで、社会的市場経済は、抑制のきかない資本主義の欠点だけでなく中央計画経済をも同様に避けるために「市場における自由の原則と社会的バランスをその代わりに組み合わせていた」[54]。社会政策の形成に加えて、ミュラー=アルマックは、経済政策に対する政府の活動の必要性を強調していた。カール・ゲオルク・ツィンはこう記していた。「しかしながら、ミュラー=アルマックと新自由主義的な自由市場経済の支持者たちとの間には大きな違いが存在していた。多くの点でミュラー=アルマックは理論的純粋主義者であるオイケンより移住者であるレプケやリュストウの哲学的思想に近かった。ミュラー=アルマックは社会政策や国家の経済的そして構造的政策に対してオイケンよりも重みを与えていた。」[55]

1.2.4 イタリア

最も重要な科学者たちはルイージ・エイナウディ、コンスタンティーノ・ブレッシアーニ・トゥローニ、ブルーノ・レオーニ、カルロ・アントーニになる。ルイージ・エイナウディはイタリア銀行の頭取で、後に副大統領と財務大臣になり、1948年から1955年までイタリアの大統領になった。

1.2.5 フランス

フランスにおける新自由主義の支持者はウォルター・リップマン・シンポジウムの主催者であるルイ・ルージェ、ルイ・ボーダン、モーリス・アレ、ギャストン・ルデュック、ダニエル・ヴィレ、ジャック・リュエフになる。1980年から新しいエコノミストのグループが登場することになる[10]。

1.3 アングロサクソンの新自由主義

1.3.1 キャナンの学派

1930年代にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでは、当時支配的だったフェビアン社会主義と対照的に、経済学派が形成されていた。キャナン自身はまだイギリスの古典派の影響下にあった。創始者であるキャナンを除いてその学派に属していたのは、フレデリック・チャールズ・ベンハム、セオドア・エマニュエル・グレゴリー、ウィリアム・ハロルド・ハット、フランク・ウォルター・ペイシュ、アーノルド・プラント、ライオネル・チャールズ・ロビンズになる。ケープタワン大学で教えていたハットを除いてすべてがLSEで教えていた[10]。

キャナンの学派の影響は主にミーゼスとハイエクに及んでいた。ハイエクは1935年から1950年までロンドンで教授を務めていた。特に中央統制経済を継続的に批判していた。さらにキャナンの学派はケインズ主義と一線を画していた。しかし彼らはレッセ・フェールの自由主義から離れた立場にあった。経済学における立場は、ケインズ経済学に基づくと、なおざりにされたものであった[10]。

経済問題研究所はグループのメンバーによって1957年に設立された。キャナンの学派はいわゆるHobart Paper、一般の著作物、不定期の論文、1980年からはThe Journal of Economic Affairsを刊行していた[10]。

1.3.2 カール・ポパー

第二次大戦後にカール・ポパーはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで講義を行っていた。彼は特にあらゆる種類の歴史主義と全体主義を批判していた。それは経済への民主的な介入をともなう新自由主義の社会経済モデルを示していた。彼はしばしば参照するフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクの著作から強い影響を受けていた。彼は彼が擁護している点在していた社会工学とユートピア的社会工学を区別していた。経済的プロセスの計画は却下されたユートピア的社会工学にそれを組み込むことができた[10]。

1.3.3 オーストリア学派

オーストリア学派を新自由主義に分類することには論争の余地があった。一部の著者たちは第3世代以降の支持者たちを新自由主義の典型的な代表として眺めていたが[41]、他の著者たちはそれを否定しており[56][57][58]、その中に新自由主義に属する新オーストリア学派の代表であるミーゼスを含めていたが、彼の学説を反対に眺めて、彼を古典的自由主義に分類していた[59]。アレクサンダー・リュストウやヴィルヘルム・レプケでさえ旧自由主義のオーストリア学派に分類されており、彼らは新自由主義から離れた立場に分類されていた[60][61]。

1.3.3.1 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス

ミーゼスは介入主義のミクロ経済分析を発展させていた。彼の初期の著作である『リベラリズム』(1927)や『介入主義への批判』(1929)では、彼は国家の介入における効率性を検証していた。彼は政府の介入がその大胆な目標を達成することはないと結論づけていた。しかしそれらは、専制主義国家による秩序、禁止、規制を通じて個人の自由を拡大することを制限することにつながった。そしてこのことは徐々に蝕むプロセスへとつながった(油汚れ理論を参照のこと)。ミーゼスはそのため長く混合システムを受け入れなかった。彼の最も広範な著作である『国民経済学:行動と経済活動の理論』(1940)は個人主義の方法論に基づいて人間の行動の演繹的理論を展開していた[41]。

1.3.3.2 フリードリヒ・フォン・ハイエク

フリードリヒ・フォン・ハイエクは通常オーストリア学派のミーゼスの弟子として分類されている。しかし時々ハイエクはオルドリベラリズムに分類され[62]、フライブルク学派の伝統の中に見られることもある[63]。1962年にフライブルク大学に務めたとき、ハイエクははっきりと友人であるオイケンの後継として彼自身をみなしていた[64]。ハイエクは「ヒュームとスミスの古典的自由主義や社会の発展の進化に対する展望をきっかけに非常に明示的に」『自由の条件』(1960)の中に彼自身を見ていた[65]。1981年にハイエクは、彼は新自由主義的でなかったと述べ、基本を変えることなく古典的自由主義の原則を発展させたいと考えていた。1980年代には新自由主義の意味のシフトがあり、このシフトは批判のための概念としてハイエクの思想(そしてミルトン・フリードマンの思想)を必要としていた[66]。

ハイエクの影響力のあるモノグラフである『隷従への道』(1940)は、彼によって観察されるイギリスの社会主義的傾向の拡大に反対していた。同様の傾向はナチズムによって導かれた1920年代と1930年代のドイツにおいても見受けられた。ナチズムは特に資本主義運動として左派知識人にとって認められていたが、ハイエクはそれを社会主義として分類していた[41]。両者は集産主義の哲学的伝統に由来しており、それはある時には国際的な側面を示し、別の時には民族主義的な側面を示していた。結局のところ両者は「あらゆる目標のための手段を支配する」と言われており、すべての社会を1つの目標に向けることを強制しようとしていた。経済的自由の制限は政治的自由の制限から分離することができず、集産主義である両者は全体主義を示すことになる。

例えば逃れることができずに増加し続ける東欧のブロック経済から西欧の社会主義にある危険性を感じながら、彼は福祉国家の発展を心配しながら眺めていた。『自由の条件』(1960)の中で、彼は個人の自由と国家の法律制定との関係に対する議論に没頭していた[41]。

全体主義的民主主義による個人の人権に対する脅威は最終的には法律、その制定、自由の中で議論されていた。彼は政治権力を制限する実用的な手段として民主主義の原理を擁護していたが、それらは個人の自由を保障することにはつながらなかった。彼は利益集団による政治的影響力の増大に対する危険性を眺めていた。そのため、独裁の危険性を防ぐために、民主的な意思決定と個人の人権との関係が重要であった。「自由主義にとって[...]あらゆる規制は強制的な権力の制限を主要な課題として見ており、それらが民主的であるか否かは問題になっていない。それに対して教条主義的な民主主義者は国家権力の制限のみを認めており、それはその時その時の多数派の意見になる。」[67]

ハイエクの貢献は今なお自発的な秩序に対する理論にとって重要であり、同様に「方法を見出す手段としての市場」に対する彼の考えも同様であった。これに基づき、ハイエクは新古典派の均衡理論を文化の進化に関する彼の理論と対比させていた。

ハイエクは「誰もがそれ以下に落ち込む必要がない」最低所得を主張しており、この最低所得保障は社会における明白な義務であった[68]。これらは犯罪予防のためにも用いられていた[69]。

1.3.4 シカゴ学派

シカゴ学派は戦間期におけるアメリカで増大する介入主義(特にニューディール政策)に対する反対から生じていた。それらの支持者たちはたいてい同様に政治的であり、現実に対しリベラルな政治秩序をもたらすために機能していた[41]。シカゴ学派の支持者たちは初期の会合で国家の競争政策と明確に市場と両立する秩序を擁護していたドイツの新自由主義者たちと意見を一致させていた一方、1950年代のシカゴ学派の初期の支持者たちはこれらの原則から離れていった[70]。

1.3.4.1 ヘンリー・C・シモンズ

ヘンリー・カルヴァート・シモンズは『自由な社会のための経済政策』(1948)の中で自由な社会経済秩序のための基礎について構想を練っていた。彼は脅威を一方で独占の中に(これらは国有化される必要がある)、他方でアメリカの財政の中に見出していた。1936年に彼は『Monetary Policy』の中で既存の金融政策に反対し、それを通じて彼は通貨の操作を支援した。またその代わりに彼は物価の安定を目的としたルールに基づいたマネーサプライを主張していた。1938年に彼はフラット・タックス(個人所得課税(1938))を提唱していた。また政府機能の集中化の代わりに、彼は財政に対する責任にために連邦化の拡大(連邦政府の税制改革(1950))を継続していた[41]。

1.3.4.2 ミルトン・フリードマン

ノーベル賞受賞者であるミルトン・フリードマンは新自由主義の主要な推進者の1人と考えられていた。彼はシカゴ学派のマネタリズムにおいて金融政策の理論を発展させていた。自然独占の国有化について彼は市場を機能させていないとして受け入れなかった。同様に国家による所得の再分配はその目標に到達することができないとしていた(『資本主義と自由』(1962))。彼は変動為替レートの主な支持者の1人であった[41]。

後に彼は経済分析の方法を政治にあてはめ、政党や政治に対する各種団体や利益団体のロビー活動や影響に関する理論を発展させた[41]。

「政治的な権益が何らかの形で経済的権益より貴いものになるといったことは本当に真実でしょうか?[...]私たちのために社会を組織するつもりの希少な人を見つけたらどうか私に教えてほしい?」-ミルトン・フリードマン:フィル・ドナヒューとの1979年のインタビューにて

競争の促進、技術的独占や外部効果に対する措置、私的なチャリティーを定義するために、フリードマンは維持すべき法と秩序や所有権を国家の課題に組み入れた[71]。資本主義と自由の中でフリードマンは貧困を緩和するためのベーシック・インカムと呼ばれる負の所得税の提案をまとめあげた[72][73]。

ハイエクのようにミルトン・フリードマンは後の発表物の中で新自由主義の表現から距離をおき、彼自身を古典的自由主義者の支持者として示していた(古いスタイルの自由主義)[74]。

1.3.5 政治経済学におけるバージニア学派

バージニア学派の最も重要な支持者にノーベル賞受賞者であるジェームズ・M・ブキャナンやゴードン・タロックが含まれ、公共選択論に対して重要な貢献をした。

2 1980年頃からの意味の変化

2.1 意味の変化の歴史

ボアズ/ガンズ=モースの後、新自由主義の本来の意味はフライブルク学派(オルドリベラリズム)を指しており、古典的自由主義に対する穏やかな代替手段としてみられていた[75]。彼らはケインズ主義と福祉国家の拡大を受け入れていなかったが、社会政策の意義を強調しており、市場原理主義を受け入れていなかった[76]。彼らはオルドリベラリズムに基本的に同意していない他のリベラルの思想家と彼ら自身を分けていた。新自由主義という言葉は旧自由主義と区別するためにオルドリベラルによって作られたが、1960年に例えばリュストウは旧自由主義の指導者たちが新自由主義者として記されることについて注文をつけていた[77]。今日の科学者はしばしばフリードリヒ・フォン・ハイエクやミルトン・フリードマンを新自由主義の父として見ているが、1950年代や1960年代にはフライブルク学派やエコノミストによって特に新自由主義という言葉を用いた科学記事の中に、私たちはオイケン、レプケ、リュストウ、ミュラー=アルマックとの関連を見出すことができた。その原理主義的な立場のために、対照的にハイエクはごくまれに、フリードマンはまったく新自由主義との関連をもつことがなかった[77]。1960年代中頃からのドイツの経済政策における新自由主義の影響はケインズ経済学の影響の増大とともに小さくなり、その言葉は今では用いられていない。どの学派もその時以来新自由主義と呼ばれなくなった[78][79]。

フライブルク学派の新自由主義に対して肯定的なモデルに基づくと、社会的市場経済に関するドイツのモデルやドイツの経済的奇跡は、1960年代のラテンアメリカにおける新自由主義という言葉を、肯定的な意味に対して中立的に振る舞うことから逸脱することなく、市場に対して友好的であるのと同様に市場に対して批判的な視点で眺めていた。1973年にピノチェト政権下で改革に関する批評家が、フライブルク学派や他の理論における所産を直接参照することなく、点在的にその言葉を使い始めたときに、最初の重要な変化が行われた。1973年9月11日チリにおけるアウグスト・ピノチェトのクーデターはこのシフトにおける主要な点を以下のように考えていた。決断力のない経済政策が続いた後、ピノチェトは1955年からシカゴでフリードマンと研究していたチリ人による経済政策に主要な役割を負わせ、彼らはシカゴ・ボーイズとして知られていた。ピノチェトの下で行われた経済政策はフリードマンやハイエクの理論をより原理主義的にしたものだった[80]。そのため専制体制の中で経済における国家の後退が生じ、この結果はかなりの論争を呼ぶことになった。1980年までの意味のシフトは以下のように生じていた。オルドリベラリズムの代わりにフライブルク学派をもちだすために、「新」という接頭辞はラディカルであり、フリードリヒ・フォン・ハイエクやミルトン・フリードマンの思想の価値を下げることと同義であり、ハイエクやフリードマンは彼ら自身を新自由主義者とは呼んでいなかった[81]。可能な1つの説明は、軍事政権が経済政策のプロパガンダの目的のために新自由主義と関連した社会的市場経済という言葉を用いたといったことになる[80]。

この軍事独裁政権下で、新自由主義は完全に本来の意味を失い、政治的抑圧の下での経済のラディカルな変更を意味していた。社会保障を犠牲にするので、新自由主義は還元主義者の立場からの批判の1つとして特徴づけられていた[82]。ここから新しい言葉の意味が広がり、現在は通常否定的な意味で用いられ、この現象は自由市場との関係にもちこまれることになった[80]。

アンドレアス・レナーによれば、アンソニー・ギデンズは現在の意味での新自由主義の概念を用いていた。ギデンズは新自由主義とサッチャー主義や「新しい法律」を同等に扱っており、それによって彼は保守的な自由主義経済の政治的概念を確立していた。そう理解されている新自由主義をラルフ・ダーレンドルフは「経済政策の新しい正当派」と分類し、ミルトン・フリードマンを最も影響力のある支持者としてみなしていた。レナーによれば、マリー・ロスバードやイスラエル・カーズナー他による適切な「自由市場」を求める「リバタリアン」の最小国家の概念を「最小国家」や「市場原理主義」のキーワードがそれに分類しており、今日のアメリカにおけるオーストリア学派の伝統を継続していた[83]。今日科学者による新自由主義という言葉は主に市場原理主義を示すために用いられており[76]、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーの経済政策との関連はない[84]。

2.2 最近における言葉の用法

ゲルハルト・ヴィルケはその言葉を「闘いのスローガン」として眺めている[85]。

アンドレアス・レナーによれば、新自由主義は狭い視野の経済政策を目標にした政治的スローガンとしてその言葉を利用されており、社会的そして環境保護的課題を解決せず、むしろ悪化させていた。しかしこれらの狭い視野の経済政策はオイケン、レプケ、リュストウによるオルドリベラルの理論に基づいておらず、狭い視野の経済学的展望に反対して決定されてきたものを一変し、とりわけ「重要な政治」にマイナスの影響を及ぼすように想定されていた[78]。彼はドイツの経済秩序を求め、新自由主義におけるあいまいな考え方を放棄し、明確な考え方はオルドリベラリズムにあると主張していた。市場経済と計画経済の論争が終わった後、さまざまな市場経済の種類における詳細に考慮する意義が増大していた。それにより、代表的なリバタリアンの「自由市場を求める自由主義」を明確にすることが重要になった[86]。

ボアズ/ガンズ=モースの後、新自由主義という言葉はアカデミックなスローガンに発展し、「民主主義」のような他の社会科学における言葉と異なり、これらの言葉の意味はほとんど議論されていなかった。以前におけるこの言葉の使用は不均一に散在していたことが示されていた。出版物ではこの言葉はほとんど肯定的な規範の意味で正しく認識されずに用いられていた[79]。自由市場の支持者は、新自由主義という言葉は否定的な意味のために避けられており、他の言葉を探し、例えばジョン・ウィリアムソンはワシントン・コンセンサスという言葉を採用することを決めていたと述べていた[87]。開発政策の分野におけるアメリカの科学雑誌でこの言葉の使用を調べた結果、「民主主義」のような基本的に論争の余地がある概念と異なり、新自由主義という言葉の使用に際して、たいてい経験に基づかない科学の出版物において言葉の明確な定義が与えられていないことが確認されていた[79]。

著者たちは、新自由主義という新しい言葉の使用は基本的に論争の余地がある概念におけるすべての条件を満たしていると結論づけていた。新自由主義はさまざまな概念を参照しており、自由市場がその特徴を統合していた[88]。「民主主義」のような他の基本的に論争の余地がある概念と異なり、自由市場について意味のあるアカデミックな論争は妨げられてきており、共通の専門用語が用いられることはなかった。新自由主義の反対者と話をすると、自由市場の支持者は他の用語の使用に切り替えていた。このことは言葉の定義や存在している対立点を狭め、論争を成立させず、それは双方の側が自身の用語を基準にして研究を行い、発表していることによる。このことは、一方もしくは他方のマイナスの現象が実際にその用語に含まれているかどうかに対する議論を成立させなかった。著者たちは新自由主義という概念を放棄する必要性を認識しておらず、彼らは、新自由主義という用語が経験的研究に役立つ可能性が存在する固有のシナリオを示すのみだった[89]。

新自由主義という言葉の最近の用例とさらに4つのカテゴリーに分割された経済史を大雑把に眺めることができる。

政治的アプローチ[79]:その言葉は頻繁に経済政策の改革に対する批判と結びつけられていた。ワシントン・コンセンサスは新自由主義の経済プログラムの例としてしばしば引用されており[90]、ワシントン・コンセンサスは時として新自由主義の同意語として用いられていた[91]。レーガンの下でのアメリカ(レーガノミクス)、サッチャーの下でのイギリス(サッチャリズム)[92]、ロジャー・ダグラスの下でのニュージーランド(ロジャーノミクス)[93]における経済政策の改革はしばしば新自由主義と呼ばれていた。経済政策の概念については3つのカテゴリーに分割される。

政府の役割の低減、国家機能の民営化、資本移動の規制緩和になる。

ジョセフ・スティグリッツによると新自由主義の考え方はこれらの3つの要素の組合せによって特徴づけられる[94]。

開発モデル[79]:さらに新自由主義という言葉は、構造主義者の経済政策に対する国家介入主義者のモデルに代わる(主に南アメリカ)労働組合、私有企業、政府からなる一定の役割に対する包括的な国家モデルと秩序モデルに対する言葉にまで見受けられる。

イデオロギー[79]:著者たちは、特に国家を最小限に縮小することによって促進される包括的な社会的価値としての自由といった用語において、個人の自由と共同体の間の特別な規範的関係の分析の中でその言葉を用いることを続けていた。

アカデミズムにおけるパラダイム[79]:最近では新自由主義的な記述の使用は特定の経済学のパラダイム、特に新古典派理論にまで見受けられる。

3 認容と批判

3.1 ノーム・チョムスキー

言語学者であるノーム・チョムスキーは1998年に『金儲けがすべてでいいのか グローバリズムの正体』を出版した。それは新自由主義がロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーによるグローバルな覇権主義から長らく続いている事実を示していた。このことは大多数を犠牲にして少数が特権を享受していることを意味していた。大企業とそのカルテルはアメリカの政治を支配していた。自由市場は少なくとも競争的なシステムを生み出していなかった。アメリカの政党に対する大企業の政治的影響力を通じて、民主主義は損なわれていた。アメリカ政府は大企業を補助金や輸入関税を通じて助けていた。政府による大企業支援の典型的な例は世界貿易機関になる。代替案として、彼はリバタリアンの社会主義を眺めていた[95]。

3.2 ミシェル・フーコー

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは1979年1月24日のコレージュ・ド・フランスでの講義の中で『生政治の誕生』というタイトルの下、古典的自由主義に対するドイツの新自由主義(特にヴァルター・オイケン)の割合やそれに対する哲学者であるエトムント・フッサールの影響を検討していた[96]。

3.3 新マルクス主義による解釈

新マルクス主義の展望によれば、新自由主義は階級に関する問題を示していた。この見方は新自由主義をフォーディズムの局面において資本家の支配の弱体化に対する反応として解釈されていた。この対抗運動の目的は労働者の利益の抑制、企業収益の増加、所得格差の拡大であった[97]。新マルクス主義の観点からの最も重要な批判の1つはデヴィッド・ハーヴェイによるものになる[98]。彼の著作である『新自由主義―その歴史的展開と現在』において、ハーヴェイは新自由主義を経済エリートが権力を回復する政治的構想として解釈することが可能であると指摘していた[97][98]。

シャンタル・ムフやエルネスト・ラクラウは新自由主義を古典的自由主義における自由や後の政治的イデオロギーに対する挑戦的な試みの中に眺めていた。自由主義は自由を手に入れる手段として格差に取り組む国家の介入を考えていた。すぐに政治的自由は論争の中に含められ、結局のところ貧困や主な社会的格差は自由を危機に陥れる要因として認識されるようになった。新自由主義は「無制限に専有する権利や資本主義市場経済の中で干渉しないものとしての自由に対する伝統的な考え方」に戻ろうとしていた。このことは、潜在的な全体主義としていかなる「肯定的な」自由の考え方に対する評価をも落としてしまう構想を含んでいた[100]。

3.4 環境保護の観点からの批判

一部の環境保護主義者は、市場に対する規制緩和、民営化の推進、国家の役割の縮小を通じて生じたグローバル経済を、私たちの地球における生態系のバランスや自然の多様性に対する脅威として眺めていた[101][102][103][104][105]。市場の制約を取り除くことは生物資源が限られているという事実を無視したものであった。実質を伴わない見かけだけの富は社会的、人的、もしくは自然における資本から生じているので、個人の期待を重視する市場に対する新自由主義的な考え方は生物圏を荒廃させ、地域社会の利益を害するだろう[106]。

http://it.wikipedia.org/wiki/Neoliberismo

新自由主義

新自由主義は経済的自由主義(リベラル)の立場をとる人々によって用いられた言葉になり、80年代から大きな影響力をもった経済的ドグマになり、特にマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンによるものが挙げられる。それは国家の経済の自由化、公共サービスの民営化、すべての非戦略部門の自由化、関税の撤廃を支持していた。

この政策を採用する国家において顕著な経済成長が見られたことにより、新自由主義の支持者たちは、長期において自由市場を促進することはGDPで測定される一般的な経済成長や貿易の促進を生じさせると説明していた。この好循環は富裕層の繁栄のみならず、広い民衆においても同様であるとされていた。

この経済改革はすべての人々の権利を擁護する側面がその人自身やその人生を自由にすると考えられていた。これらの理論は、厳密には保守層でなく、本質的には自由主義や資本主義に基づいた政治力によって支持されていた。

新自由主義に対する批判

批評によれば、新自由主義はすべての人々に恩恵をもたらすよう機能しておらず、国内の異なる社会階層にある人々の格差や富裕国と恵まれない国々の間の格差を助長していた。この政策は多数の人々を犠牲にして一部の国々や多国籍企業の富を増加させていた。

他の批評家は、再生することができない資源に損害を与え、負の外部性を生じさせることにより地球全体を犠牲にして、富裕化のプロセスが進行していたと指摘していた。メキシコ最大の州であるチアパス州で活動しているグループであるサパティスタ民族解放軍はこの経済モデルに反対しており、それはメキシコの植民地化をもたらすことを背景にしていた。

「ショック・ドクトリン』の中でナオミ・クラインは新自由主義の非民主的な特徴を批判していた。この理論は先入観を排除しており、戦争や災害のような惨事を通じた混乱やショックを利用したり、メディアを利用することを含んでおり、具体的には債務(世界銀行、WTO、IMF)を口実に一般の人々の利益に反し多国籍企業や圧力団体の利益に合致する自由主義の改革を推し進めるよう主要な金融機関が政府に圧力をかけていたことを指していた。

新自由主義という選択

新自由主義経済という選択は最近多くの第三世界(例えばミャンマーやパキスタン)そして社会主義から脱したヨーロッパの中部や東部の国々において採用されており、主な国際機関(世界銀行、WTO、IMF)に対するアクセスの後、その選択を迫られていた。

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