何故、メディア、行政の担当者、専門家は福島の事故を過小評価し続けたのか、そしてそこから人として何を学ぶことが妥当であるのかーアメリカのWikipediaの「ノーム・チョムスキー」等の項目を読んで考えたこと

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チョムスキー自身がアナーキズムとの距離とその関係を考えるようになったのは、アナーキズムが有する特徴の1つである、政治家、官僚、大企業の幹部といった高等教育を受け、特権を有するエリートの利害をその利害が反する一般人の意思とすり替える一種の刷り込みが日常茶飯事となっているアメリカのメディアや外交に危機感を覚えたからでなかろうかと考えることがあったことを始めに断っておく。

デューイによる「政治は大企業によって社会に映しだされた影である」との言葉を念頭に置くと、アメリカと日本の専門家やメディアに共通していることは、全てとは言わないが、企業と政府の利益を最大限尊重するように取り計らう一種のシステムが確立していることにある。そしてアメリカの外交政策の全体のフレームワークはアメリカビジネスの利益における国内の支配構造や国家資本主義を保護するための推進力によって説明されることが可能であり、経済的要因(ワシントン・コンセンサスと言い換えてもよいだろう)を念頭に大統領選挙を含めてメディアがその地均し(つまり世論調整)をしていることを考慮すると、日本の内政および外交政策の全体のフレームワークはビジネスに限定された話ではないのだが国内の支配構造を保護するための推進力によって説明されることが可能であるかもしれず、アメリカ同様にメディアがその地均し(つまり世論調整)を行っている視点に繋がることに関しては問題は少ないかもしれないと考えるときがある。

つまり民衆の意思、グラス・ルーツに介入してもらいたくないのが政策担当者や大企業の幹部の本音であるが、国政選挙のときにはしぶしぶその意思を認めざるを得ないといった説明も可能であろう。そしてティーパーティー運動の背景にはこのようなアメリカ人が抱えている現状もあるだろうと考えるときがある。

チョムスキーによれば何故教育を施された特権を有するエリートがこうなったのかというと、ハーバードやスタンフォードでは根源的な批判的思考を放棄し、制限付きの多様な規範(制限付きの多様なコンセンサスと言い換えてもよいだろう)に順応する学生が評価される傾向にあり、そういった学生を優先的に入学させて教育を行っている現状があるからなのだろう。

日本国内を振り返れば、東大や早稲田といった大学群と類似していることが相当数に及ぶと考えることがあったが、それは上記のような日本の大学群が手本の或る部分をアメリカに求めていれば同じような結果がでるのも自明であろうと考えることもあった。深く考える力が足りないという現状は幅広く社会のコンセンサスに慣れさせる教育の弊害でもあり、その背景を海外に求めるつもりはないが、今一度その国に根差した教育法の在り方といったものを考慮する必要があるだろうと考え直すこともあった。

そして福島原発の事故の過小評価に話を移すが、圧力団体の1つである経団連からの事故の過小評価にまつわる発言に違和感を覚えた方も多数おられるかと考えるときがあるが、彼らにとってその発言は都合がよいことであり、広く世界の原発ビジネスを眺めても、その発言は世界の彼ら(例えば多国籍企業群等)にとっても都合がよいことなのだろう。しかし、民衆の意思、グラス・ルーツにおいてドイツ、イタリアを見るまでもなくその発言と反対のことを考えている現状は日本だけの話ではなく、現在世界においてその波及に関しせめぎ合いが続いている。

日本国内の四大公害を念頭に置いているが、個々の民衆の意思を排除してビジネスに都合がよいことを進めるシステムの背景については先のデューイの言葉が説明したような話になるが、それは所謂将来特権を有するだろうエリートの教育段階からして間違っているからだといった説明と、第二次大戦後の経済体制の背景に存在していた西欧のコンセンサス社会から強く影響を受け、未だに根本的な所で現状が改善されていないからだ、つまり弱者は強く在らねばならないといった視点を付け加えることは社会的に許容範囲の内だろうか(ここで私は、強く在らねばならないといったものの、弱者に対する援助と許容の心は忘れていないつもりであることを追記する)。

決定的なことをまだ書いていないのだが、この事故は複合的な問題を内包しており、既存の権力構造におけるコンセンサスによる解決は民意から離れているといったことをアメリカにおける現状と日本のこれまでの歩みが示唆しており、民主主義に根差した投票による解決を目指すためには、まずその広報である伝統的なメディアに民意を反映させることから始めなければならないだろうと考えるときがあるのだが、現実的なことを考慮すると日常利用するメディアをシフトするといった発想から始めても構わないだろう。

また日本国内の知識人について言及すると、チョムスキーによれば、アメリカを眺めてみても知識人とはやや辛辣な見解かもしれないが「彼らは実際には世俗的な司祭職のようなものであり、彼らの仕事は社会における教義に関する真理を支えることである。」といった現実を冷静に評価する必要があり、そこに権威を与えるのは既存の権益構造やビジネスの立場にとって有益であるからであり、実際、市井の人にとってはその関連で知識人の発言とその意図を個々に評価していかないことには話がかみ合いませんよといった常識に沿った結論になる。日本の大学を中心にした専門家が事故を過小評価した背景には上記のようなことが含まれ、一々権威を気にしていても仕方がないでしょうといった見方に立つことがお互いにとって健全な関係を構築できるだろうと考えるときがあった。つまり被災された行政機関がよく記者会見で話す、「国がこう言ったから〜」や「専門家がこう言ったから〜」といった旧来のメンタリティ(縦割りと横並び意識)を利用して施策を実施する背景には先に取り上げた既存の権益構造からの懐柔や縛りが相当厳しいものであった過去が存在しており、その中央と地方との葛藤とその関係が企業にとって都合がよかった過去が存在していたのだろうが、見方を変えれば国や有力者と喧嘩する人には一票を投じないといった地方の文化から1つ1つ時間を掛けて変えていかないことには健全な復興と社会の発展には繋がらないのではないかと危惧するときがあったことを追記したい。

昨年来から重ねて言っていることだが、個々の文化が地域と時代の流れに適合しない可能性を念頭に置くと、何がどの点でどう変化すれば個々にとって最善なものになるのかといったことは個々の問題であり、そうであるならば個々が今以上に解放される必要があるといった見解に変更はなく、そのためにも今後の見通しといったものが影響を及ぼすなら、深く幅広い見識を陶冶するためにもやらねばならないことは多岐に亘るであろうと考えるときがある。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「ノーム・チョムスキー」と「ノーム・チョムスキーの政治的見解」の一部を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Noam_Chomsky

ノーム・チョムスキー

6 政治上の見解

チョムスキーは「私の個人的見解は、啓蒙運動と古典的自由主義に基づくかなり伝統的な無政府主義者のものになる」と述べており[12]、リバタリアンの社会主義を賞賛している[73]。チョムスキーは彼自身をアナルコ・サンディカリストとして説明しているけれども、レッテルの曖昧さを回避しようとしている[11]。彼は、平和と民主主義のためのキャンペーンと世界の国際的な労働組合の産業従事者のメンバーである[74]。彼は、2006年にアナーキスト向けの叢書を出しているAK Pressによって出版されたChomsky on Anarchismと題された本を出版した。

チョムスキーは成年後の全ての人生において政治活動に携わっており、政治や世界の出来事における意見を表明しており、それは広く引用され、公表され、議論されてきた。チョムスキーは同様に、彼がアメリカ政治における反体制派であると考えられていることを理由にして、彼の見解は権力者が聞きたくないものであると主張していた。

チョムスキーは、正当化されなければ、権力は本質的に非合法であり、その証明の責任は権力側にあると断言している。もしこの責任が果たされないならば、問題になっている権力は解体されるべきである。それ自身の存在を目的とした権力は本質的に正当化されることはない。チョムスキーによって示される合法的な権力の例は、幼い子供が交通の往来を彷徨うことを防止する両親の行為になる[75]。彼は、家内奴隷と自身の労働時間を経営者に売ること言い換えるならば「賃金奴隷」との間にほとんど違いはないと主張している。彼は、その賃金労働は個人の自由を損なう個人の規範に対する攻撃であると感じている。彼は、労働者が彼らの職場を所有し、コントロールすべきであることを支持しており、この見解は(彼が記すように)Lowell Mill Girlsによって支持されている[76]。

チョムスキーはアメリカの外交政策を強く批判していた。彼は、民主主義と自由を説く一方チリのAugusto Pinochetのような非民主的で抑圧的な組織や国家と同盟する外交政策におけるダブルスタンダードを指摘しており、これが大規模な人権侵害をもたらしていることを議論している。彼はしばしば、彼が非常に批判的であった出来事、ニカラグアにおけるコントラに与えられていた秘密の援助を含むアメリカの外国に対する介入は「1980年代初頭の合衆国法典や陸軍操典の中の公式の定義」を含むテロリズム[77]におけるいかなる標準的な記述とも適合していると議論していた[78][79]。その崩壊の前にチョムスキーは同様にソビエト帝国主義を非難していた。例えば1986年のニカラグアの中央アメリカ大学で行われた講義に続くQ&Aの間、同じ場で北米の帝国主義とロシアの帝国主義について彼がどのように話すのかについて課題があったのだが、チョムスキーは「世界における真実の1つは、2つの超大国があり、1つの巨大な大国はたまたまあなた方の首にロープを巻き付けており、もう一方のより小さな大国はたまたま他の人々の首にロープを巻き付けているということである。そして私は、もしこれらの問題における幻想に敗北するならば、第三世界のいかなる人々も重大な誤りをなすことになるだろうと考えている。」と答えていた[80]。

オサマビンラディンの殺害に関して、チョムスキーは不適切な行動をとったと信じており、「私たちは、もしイラクの部隊がブッシュの邸宅を訪れ、彼を殺害し、彼の遺体を大西洋に投げ捨てたら、どう反応するだろうかと私たち自身に尋ねてもよいだろう。議論の対象にならないが彼の罪はビンラディンの罪を超えており、彼は容疑者ではなく、議論の対象にならないが高度の国際犯罪を犯す指示を与えた決定者であり、それは、それ自身の内に全体にわたって累積された悪を含んでいるという点で他の戦争犯罪と異なり(ニュルンベルグ裁判を引用)、そのためにナチスの犯罪者は絞首刑にされ、数十万の死亡者、数百万の避難民、かなりの程度による国の破壊、今や残りの地域に広がっている苦い宗派間の対立が存在していた。」と述べている[81]。

彼は、アメリカにおけるマスメディアはプロパガンダの道具そして共通の利益を通じ絡み合った第三者とともにアメリカ政府やアメリカ企業における「買収された聖職者」[82]としてとして主に仕えていると主張していた。Walter Lippmannに対する有名な言及では、Edward S. Hermanとともにチョムスキーはアメリカのメディアは大衆の間に同意をでっち上げていると記していた。チョムスキーは、「民主主義の企業買収」と呼び、選挙資金の制限を取り消した2010年の最高裁判決を非難してきた[83]。

チョムスキーはその言葉が不適切として、アメリカのグローバルな「麻薬との戦争」に反対しており、「特定の麻薬との戦争」として言及している。彼は、麻薬の使用を減少させる手段としての軍や警察のアクションよりむしろ教育や予防における麻薬対策の改革に賛成している[84]。1999年のインタビューではチョムスキーは、タバコのような作物が政府の説明において言及されない一方、マリファナのような他の非営利的作物が貧困層を迫害することによって達成される結果のために攻撃されていると主張していた[85]。彼は以下のように述べていた。

アメリカ国内の薬物政策はその明言されたゴールを実行しておらず、政策立案者はそのことをよく知っている。それが薬物乱用を減少させることについてでないならば、それは何についてのものなのか。いわゆる危険な階層と関連づけられるとき薬物は犯罪化される傾向にあり、特定の薬物の犯罪化は社会統制の技術であるということは現在の措置と歴史的記録の双方から合理的に明白である[86]。

チョムスキーはアメリカの国家資本主義システムや大企業に対し批判的であり、彼は彼自身を社会主義者、特にアナルコ・サンディカリストとして記しており、そのため「権威主義的な」マルクス主義者やレーニン主義者または社会主義における毛沢東主義者に対し強く批判的である。彼は同様に、社会主義者の価値観は独自に再構築された古典的に自由なそしてラディカルな人道主義者の考えを産業の文脈に合理的そして道徳的に一致した拡張を示していると信じている。彼は、社会は高度に組織化され、地域社会や職場の民主的なコントロールに基づくべきであると考えている。彼は、Bertrand RussellやJohn Deweyという2人の主要な影響におけるラディカルな人道主義者の考えは「啓蒙運動や古典的自由主義に根ざしており、それらの革命的な特徴を有している」と考えている[87]。

チョムスキーは、彼はアメリカが世界で最大の国のままでいると考えており、彼は以下のように言うことによって後に明らかにしたコメントを述べていた。「国々を評価することは意味がないことであり、私はこれらの点で物事を把握したことがないだろう、しかし特に言論の自由といった分野において、数世紀にわたる国民の苦労によって達成されたアメリカの有利な条件のいくつかは賞賛されるべきである。」[89] 彼は同様に「多くの点においてアメリカは世界で最も自由な国である。私は国家の強制力の限界の点を単に意味している訳ではなく、それはまた事実であるけれども、同様に個人の関係の点を意味している。アメリカは実質的にいかなる社会よりも個人間の関係において階級が存在しないことにより近くなる」と述べている[90]。

チョムスキーはアナーキズムが政府の福祉に対する支援と一致していないという批判に反対しており、部分的には以下のように述べている。

もちろん人は、私たちが今日人々が直面している問題について注意を払わず、明日の可能性について考えたいとの立場をとることができる。オーケー、しかしそのときに人間や彼らの運命に関心があるふりをしないでください、そして他の特権階級の人々とともにセミナールームや知的なカフェの中に留まっていてください。そうでなければ人はかなり人道的な立場をとることができ、つまり私は明日の社会をよくしたいために今日働くといった、問題の中のスローガンとはかなり異なる古典的なアナーキストの立場をとることができる。そのことはまったく正しいものであり、それは直接、健康や安全に対する規制の実施や国民健康保険の用意を目的として今日問題に直面している人々を支援し、それらを必要としている人々を支援すること等を促している。それは異なったそしてより良い将来のために組織することの十分条件ではないが必要条件になる。他のいかなることも、生活し、生き残ろうとする状況を無視する余裕をもたない人々から十分に値する軽蔑を受け取ることになるだろう[91]。

チョムスキーは反戦だが厳密な平和主義者でないものとして要約される見解を支持している。彼は生涯を通じて顕著にベトナム戦争や大半の他の戦争に反対している。彼は納税に関する抵抗と平和行進をともなうこれらの見解を表明した。1968年に彼は、ベトナム戦争に対する抗議として税の支払いを拒絶することを誓う「作家と編集者による戦争に纏わる税に対する抗議」といった誓約書に署名した[92]。彼は「知識人の責任」を含むベトナム戦争についての多くの記事を公表した。彼は、枢軸国を敗北させるために第二次世界大戦にアメリカが関与したことが、好ましい結果がそれ以前の外交を通じて戦争を終わらせることか防ぐことになるだろうといった警告とともにおそらく正当化されることを主張している。彼は、広島と長崎における原爆投下は「史上最も口にすることが許されない犯罪の中に」あると考えている[93]。

チョムスキーは、イスラエル政府、その支持者、アメリカによるその政府の支持、パレスチナ人の取り扱いに対し多くの批判を行ってきた、そして「イスラエルの支持者は現実に道徳の退廃の支持者であり、イスラエルの安全保障における非常に明確な拡張政策がその結果を導くのも当然である」と議論している[94]。チョムスキーはユダヤ人国家としてのイスラエルの設立に同意しておらず、「私はユダヤ人、キリスト教徒、イスラム人の国家が適切な概念であるとは考えておらず、私はキリスト教徒の国家としてのアメリカに反対するだろう」と述べている[95]。チョムスキーは彼の両親が生きている間、イスラエルの政策を批判する研究を公表する前に躊躇があった、つまり彼が言うに「私の仕事の中で表明されたもののような見解にヒステリックに反応する彼らの友人のために大部分、彼はそれが彼らを傷つけるだろうということを知っていた」からであった[96]。2010年5月16日に、イスラエル当局はチョムスキーを拘留し、最終的にはヨルダン経由で西岸に彼が入国することを拒否した[97]。イスラエルの首相のスポークスマンは、入国の拒否はたんに権限を越えた国境警備隊によるものであり、二度目の入国の試みは許容されるかもしれないだろうことを示唆していた[98]。チョムスキーは、彼を尋問した内務省当局の担当者が彼の上官からの指示を得ていたと言って反論した[98]。チョムスキーは、数時間の尋問に基づき、彼は、彼が言ったことや、彼がイスラエルの大学でない西岸にある大学を訪問する予定だったことを理由にして入国を拒否されたと主張した[98]。

チョムスキーは特にマスメディアにおける言論の自由といった権利における幅広い見解を有しており、検閲に反対している。彼は、「言論の自由に関し基本的な2つの立場が存在しており、あなたはあなたが嫌う見解のために積極的にそれを守るか、もしくはあなたはそれを拒絶し、スターリン主義者やファシストの基準を好むかになる」と述べている[99]。アメリカ公電のリークに関してチョムスキーは、「おそらく最も印象的な暴露はアメリカ政府、Hillary Clinton他と外交官の双方によって民主主義が激しく嫌われていたことである」といったことを示唆した[100]。チョムスキーは彼を中傷する人々に対し法的措置をとることを拒否し、新聞紙上で公開された手紙を通じて中傷に反論することを好んでいる。このアプローチの顕著な例は、彼がスレブレニツァの虐殺の存在を否定したと伝えたガーディアンのEmma Brockesによる記事に対する彼の対応になる[101][102][103]。チョムスキーの不満は、謝罪訂正の公表と新聞のウェブサイトからの記事の撤回をガーディアンに促した[104]。

チョムスキーはしばしば言語学における彼の仕事と政治上の見解との間に繋がりはないと述べており、政治的トピックにおける優れた議論がアカデミズムの分野における専門的な知識を必要としているとの考えを一般的に批判している。1969年のインタビューにおいて彼は彼の政治学と言語学における仕事との関連について以下のように述べている。

私はまだある種の微妙な関連が存在していると自身に対して感じている。私はそのことを誇張したくないが少なくともそれが何かを意味していると考えている。

アメリカやヨーロッパの軍事帝国主義に対する彼の政治的批判にもかかわらず、彼が言語の研究を行った研究所(MIT)での初期の研究はアメリカ軍によって実質的に資金を供給されていたことにより、一部の批評家はチョムスキーを偽善的であるとして非難している[106]。チョムスキーは、彼がアメリカ軍から資金を供給されていたため、その非道徳的な行動を批評し、抵抗するさらに大きな責任を有することになったと議論している。

http://en.wikipedia.org/wiki/Noam_Chomsky%27s_political_views

ノーム・チョムスキーの政治的見解

1 政治的見解

1.3 アメリカ政府に対する批判

「もしニュルンベルグの法が適用されているならば、全ての大戦後のアメリカ大統領は絞首刑にされているだろう。」ーノーム・チョムスキー(1990年頃)[7]

チョムスキーはアメリカ政府に対する一貫性のある率直な批評家であり、アメリカの外交政策に対する批評は彼の政治に関する執筆のかなりの基礎を形成している。チョムスキーは、彼が市民である国家に対する彼の活動家としての努力を導く理由を与えている。彼は、彼の仕事が彼自身の政府に向けられたとき多くのインパクトをもつことができ、彼はその国が犯罪を犯すことを止めさせるための仕事をするための原因となっている特定の国のメンバーとしての責任を有していると信じている。彼は、全ての国が好まれていない国々による犯罪を処理する柔軟性を有しているが、いつもその国自身の犯罪を処理しようとしないことを支持している他の国々との比較においてしばしばこの考えを表明している。1986年のニカラグアで述べたことだが、チョムスキーは「私たちはあなたが話し書いたものを通じてあなたが友人であると感じていると同時に、あなたは北米の帝国主義とロシアの帝国主義について同じ話の中で言及している。私はあなたにあなたが反動主義者と同じ議論をどのように用いているのか尋ねたい」と尋ねられ、これに対しチョムスキーは以下のように答えている。

私はあらゆるものやそれゆえ反動主義者であることを含むもののために非難されてきた。私の個人的経験から私の政治的著作が基本的に公表されない2つの国が存在している。非常にまれな例外をともなう本流のなかにある1つはアメリカである。残りはソ連になる。私は私たちがすべきことは世界についての真実を理解しようとすることであると考えている。そして世界についての真実は通常非常に不快なものになる。私自身の関心は本質的に2つの理由で私自身の国によって行われている恐怖と暴力になる。1つにはそれがたまたま国際的な暴力のより大きな部分であることによる。しかし同様にそれよりかなり重要な理由として、すなわち私がそれについて何かをすることができることが挙げられる。だから例えアメリカがその多数の代わりに世界における暴力の2%に対し責任があったとしても、私が本質的に責任があるのはその2%になるだろう。そしてそれは単純に倫理的な判断である。それは、人の行為の倫理的意味がそれらの予期され予測された結果に依存していることを指している。誰か他の残虐行為を非難することは非常に簡単である。それは18世紀において行われた残虐行為を非難するのとかなり同じくらいの倫理的意味を有している。

要は役に立ち意義のある政治的行為は人間に対する結果を有するものであるということである。そしてそれらのことは圧倒的にあなたが影響を及ぼしコントロールするいくつかの方法を有している行為になり、それは私にとってアメリカの行為を意味している。しかし私は同様にソビエト帝国主義に抗議することに関与しており、同様にソビエト社会のその根源を説明することになる。そして私は、これらの問題についての幻想に敗北するならば第三世界にいる人々は誤りをなすだろうと考えている[8]。

彼は同様に、世界に現存する超大国としてアメリカが全ての超大国と同じような攻撃的な方法で振る舞っているのではないかと主張している。チョムスキーは、超大国がなす鍵になることの1つは軍事的経済的手段を用いて支配階級の利益にしたがって世界を組織しようとすることであると主張している。チョムスキーは繰り返し、アメリカの外交政策の全体のフレームワークはアメリカビジネスの利益における国内の支配構造や国家資本主義を保護するための推進力によって説明されることが可能であることを強調している。これらの利益は本質的にアメリカ経済の優位性を目的とした政治的課題と経済上の目標を設定している。

彼の結論は、アメリカの外交政策における一貫した部分は良い例に対する脅威を抑えることに基づいている。この脅威はある国がアメリカに管理されたグローバルシステムの外でうまく発展する可能性に言及しており、これゆえアメリカが強い経済的利益を有している国々を含む他の国々のためのモデルを示している。チョムスキーによればこれは、ほとんどアメリカが経済上もしくは安全上の利益を有していない世界の地域における「イデオロギーに関わらず」、「独立した発展」を鎮めるために繰り返しアメリカが介入することを促してきた。彼の著作の1つ、What Uncle Sam Really Wantsの中で、チョムスキーは、この特定の解釈はグアテマラ、ラオス、ニカラグア、グレナダといったアメリカに対し軍事的脅威を呈していないそしてアメリカの支配階級にとって重要でない経済的資源を有する国々におけるアメリカの介入を部分的に説明している[9]。

チョムスキーは、アメリカ政府の冷戦における政策は本質的に反ソ連の妄想によって形成されている訳ではなく、世界におけるアメリカのイデオロギー上のそして経済上の優位性を保つために形成されてきたと主張している。彼の著作であるDeterring Democracyの中で彼は、2つの超大国の対立のような冷戦に対する月並みな理解はイデオロギー的構造になると主張している。彼は、本当に冷戦を理解するために人は大国の根底にある動機を検証しなければならないと述べている。これらの根底にある動機は、国内の政治、特に各々の国における国内のエリートの目標を分析することによって発見されることができるのみである。

「副次的複雑さを脇に置くと、ソ連にとって冷戦は本質的にその衛星国に対するものであった、そしてアメリカにとって冷戦は第三世界に対するものであった。各々にとってそれは、国内の特権と弾圧政治という特定のシステムを定着させるために用いられた。冷戦のフレームワークの中で追求された政策は一般の民衆にとって魅力的なものでなく、彼らはそれらを強制の下でのみ受け容れた。歴史を通じて、その気のない民衆をその気にさせる一般的な考え方は邪悪な敵に対する恐怖であり、その破壊を導くものになった。超大国の対立は、私たちがNSC68のような最重要計画書や公共のプロパガンダにおける不自然なレトリックの中に見受けるように、双方の内部の必要性のため見事に目的にかなっていた。冷戦は超大国にとって機能における有用性を有しており、それはそれが存続していた理由でもあった。」[10]

チョムスキーは、本質的に国家資本主義としてアメリカ経済のシステムを描いており、そこで公的資金は主に防衛費の形態で技術(コンピューター、インターネット、レーダー、ジェット機等)を牽引する研究開発に対し用いられ、一旦発展し熟すと、これらの技術は民間の用途が私的コントロールと利益のために発展する企業部門に引き継がれる[11]。

チョムスキーはしばしばアメリカ市民によって享受される市民の自由に対し賞賛を表明している。チョムスキーによればフランスやカナダのような他の西欧民主主義諸国はアメリカほど論争のある論陣の保護においてリベラルでない。しかし彼はこれらの自由に対するアメリカ政府を信用しておらず、むしろそれらの自由のために闘うアメリカの大衆社会運動を信用している。彼が最もよく信用している運動は奴隷廃止運動、労働者の権利や労働組合の組織化のための運動そしてアフリカ系アメリカ人の公民権に対する闘いになる。チョムスキーはしばしば、最も論争の多いフォーリソン事件における、言論の自由を抑圧していた他の政府や同様にトルコにおける言論の自由の抑圧を激しく批判している。

2009年12月に人文科学におけるヘイマンセンターによって主催された第5回年次Edward W. Said記念講演において、チョムスキーはアメリカの「帝国主義の文化」に注意を促すためにEdward Saidを喝采することによって「単一極の時代と帝国主義の文化」をテーマにした講演を行った。

2009年11月にアメリカがベルリンの壁崩壊の20周年をちょうど祝ったときに、チョムスキーはこの祝賀はその出来事のわずか1週間後に発生し忘れ去られた人権侵害を無視していると指摘した。1989年11月16日にエルサルバドルでアメリカの武装したAtlacatl大隊が6人の主要なラテンアメリカのイエズス会の司祭を暗殺したと彼は説明していた。彼は、アメリカのベルリンの壁崩壊におけるアメリカの「自画自賛」をこれらの司祭の暗殺を取り巻く「知れ渡る沈黙」と対比している。アメリカはそれ自身の自己の利益のために民主主義の原則を犠牲にしており、いかなる自己批判もなくアメリカは「敵の犯罪にレーザーの光をフォーカスさせる傾向があるが、決定的に私たちは私たち自身を振り返ったことがないことを確認している」[12]。

1.4 アメリカの民主主義における批判

チョムスキーは、政府の政策が公開された世論を反映している程度においてのみ民主的であると主張している。彼はアメリカが形式的な民主的構造を有していると述べているがそれらは機能不全に陥っている。彼は、大統領選挙は私的権力の集中によって資金を供給されており、そして問題においてよりむしろ候補者の資質や人物像において本質的に議論をフォーカスさせており、広報業界によって周到に準備されていると主張している[13]。チョムスキーは、ギャラップやゾグビーのような世論調査やメリーランド大学における国際政策の意識に関するプログラム(PIPA)のような学術的ソースによって世論に関するいくつかの研究に言及している。2004年近辺の投票を引用すると、チョムスキーは、投票者のうちごく少数のみが候補者の「政策課題/考え方/基盤/目標」を理由にして投票したと述べていたことを指摘している[13]。さらに研究は、アメリカ人の大多数が主要な政党のいずれによっても代弁されることのない健康保険のような国内の問題において意見を有していることを示している[14]。チョムスキーはアメリカの選挙を、彼が人々が重要な問題についてはるかによく知らされていると主張している、スペイン、ボリビア、ブラジルのような国々における選挙と対比している[15]。

2000、2004、2008年の大統領選挙においてチョムスキーは、「もし結果を左右する状況なら最悪の候補者に投票しないように」とアドバイスしていた。2008年の選挙において彼が投票するか尋ねられたとき、彼は以下のように答えていた。

「私は環境政策をみて投票した。もし私が結果を左右する状況ならーここ「マサチューセッツ」は結果が決まった状況であるけれどもーもし私が結果を左右する状況なら、私はしぶしぶ受け容れながらもオバマに投票するだろう。それはまさにさらに悪い代わりの候補者に投票しないためでもある。私は彼について何も期待していなかった、そして私は期待している訳でもない。事実、私は予備選挙の前に彼について記事を書いた。私は彼がひどいと考えていた。」[16]

1.5 グローバリゼーションについての見解

チョムスキーはグローバリゼーションを批判的に分析するために早くから努力をしていた。彼は「古いワインは新しいボトルの中に」といったフレーズにともなうプロセスはエリートの動機がいつも同じになることを維持していると要約している。彼らエリートは一般の大衆を重要な意思決定のプロセスから隔離することを望んでおり、権力の中心が今や多国籍企業や超国家的金融機関にあることから区別している。チョムスキーは多国籍企業は彼らのグローバルな影響範囲を反映した「統治機構を発展させている」と主張している[17]。

チョムスキーによれば、主な計画は国際通貨基金(IMF)や世界銀行のような第二次世界大戦後に設立されたグローバルな経済制度の採択にあり、それはますます「ワシントン・コンセンサス」を固守するものであり、発展途上国が支出を制限し、しばしば社会福祉プログラムの削減を含む構造調整を行うことを遵守することを要求するものであった。IMFの援助とローンは通常そのような改革を条件とするものである。チョムスキーは世界貿易機関(WTO)、関税および貿易に関する一般協定(GATT)、北米自由貿易協定(NAFTA)、多国間投資協定といったグローバルな制度や協定の設立はエリートの特権を守る新しい方法を確立し、民主主義を損なうものであったと主張している[18]。チョムスキーは、これらの厳格であり新自由主義的な政策はより貧困な国々が先進国に対し安価な労働、原材料、投資機会を与えることによってたんにサービスを提供する役割を果たすのみであることを確実にしていると考えている。さらにこのことは企業がさらに貧困な国々に移転することを脅しの材料にしていることを意味しており、チョムスキーはこのことをさらに豊かな国々の労働者を工場ラインに留まらせるための強力な武器になるものとして理解している。

チョムスキーはグローバル化における話の中で用いられる用語を問題として取り上げており、それは「グローバル化」それ自体の語から始まるのだが、彼はそれが国際的になることのための一般的な用語であることよりむしろ企業に援助を受けた経済統合を指していると主張している。彼は、社会や環境における正当性に関するグローバル化の動きとして彼がみなしているものを記述するために用いられている反グローバル化の語を好んでいない。チョムスキーは、「特定の期間において何であれたまたま存在している利益のために政策の主要な設計者によってデザインされた自由と保護の混合」として「自由貿易」とよく呼ばれるものを理解している[17]。彼の著作の中でチョムスキーはグローバル化に対する抵抗運動に注目している。彼は、彼のエッセイである「The Zapatista Uprising」の中でNAFTAに対するサパティスタの抵抗を描いている。彼は同様に多国間投資協定を批判しており、その敗北を導いた活動家の取り組みを報告している。チョムスキーの声は批評家にとって重要な部分になり、1999年11月、シアトルにおける世界貿易機関(WTO)に対するデモのために団結する異なるグループにとって理論的なバックボーンを与えていた[19]。

1.9 マスメディア分析

チョムスキーの政治的仕事のもう1つの焦点は主流マスメディア(特にアメリカにおける)の分析になり、それを彼は企業と政府の利益を促進するよう対話における制約を維持することに関し非難している。

Edward S. Herman and Chomskyの著作、Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Mediaはこのトピックを深く調べており、それを支持するいくつかの詳細な事例研究により報道メディアの「プロパガンダ・モデル」を示している。このプロパガンダ・モデルによって、アメリカのようなさらに民主的な社会はコントロールのために微妙な、非暴力的な手段を用いており、物理的な力が容易に一般の民衆に強制を及ぼすために用いられることがある全体主義のシステムと異なっている。しばしば引用される発言の中でチョムスキーは、「プロパガンダと民主主義との関係は棍棒と全体主義との関係と同じである」(メディアコントロール)と述べている。

モデルは人々の駆け引きよりむしろ構造における経済的理由の点でそのようなシステムにおけるバイアスを説明しようとしている。そのことはバイアスが全ての公開されたニュースが通り抜けなければならない5枚のフィルターから派生しており、それはニュースの報道範囲をシステマティックに歪めることに繋がっていると主張している。

1. 1枚目のフィルター、所有権は大半の主要メディアが大企業によって所有されているということを記している。

2. 2枚目、資金調達はメディアが彼らの資金の大半を読者でなく広告から調達していることを記している。これゆえそれらは読者や視聴者といった製品を他のビジネス(広告主)に売る営利を目的としたビジネスであるため、モデルはそれらのビジネスにおける欲望や価値観を反映しているだろうニュースを彼らが報道することを期待しているだろう。

3. さらにニュースメディアはそれらの情報のかなりにとって情報源として強いバイアス(3枚目のフィルター)をもつ政府機関や大企業に依存している。

4. 広報担当といった4枚目のフィルターはさまざまな圧力団体から影響を受けており、それはそれらの報道が許容範囲の外にあるとき想定されるバイアス等を目的としてメディアを追い回している。

5. 規範といった5枚目のフィルターはジャーナリズムの職にある人々によって共有される共通の概念から影響を受けている[26]。

モデルはそのためどのようにメディアが分散的であり陰謀的でないがそれにもかかわらず非常に強力なプロパガンダのシステムを形成しているかを記述しようとしており、このシステムはエリートのコンセンサスを準備し、エリートの見通しの中に収まる公開討論の枠組みを決定し、同時に民主的なコンセンサスの振りを与えることが可能である。

チョムスキーとハーマンは「対になる例」を選ぶことによって経験的に彼らのモデルを検証している、そしてその対になる出来事は特定の利益に関連した場合を除いて客観的に類似していた。例えば彼らは、「公然の敵」が何かをする(宗教的な職にある公的人々を殺害するような)場合において報道機関は徹底的に調査し、その問題に対し相当量の報道の大きさをもって取り扱うが、国内の政府や同盟国が同じこと(もしくはそれよりひどいこと)をするとき、報道機関はその話を軽視することを示そうとした。彼らは同様にモデルを、自由で積極的な独立系報道機関における最もよい例としてしばしば取り上げられる場合、例えばベトナム戦争中のテト攻勢におけるメディアの取り扱いの大きさに対して彼らのモデルを検証した。このケースにおいてさえも彼らは、報道機関がエリートの利益に対して従属的に振る舞っていたことを主張していた。

1.14 知的社会に対する批判

チョムスキーはときとして学者や他の公的な知識人に対し並はずれた批判を行うことがある。彼の見解はときとしてある論点における個々とともに彼を奇妙な立場に置くことがある一方、彼は同様に彼がシステム上の欠陥として理解しているものを理由にして知的サブコミュニティーを非難している。チョムスキーは一般的にアカデミズムの世界に携わる知識人にともなう2つの大きな問題を理解している。

1. 彼らは主に異なった階級として機能しており、それゆえ多かれ少なかれ意図的に排他的な結果をともなうアカデミズムの外にいる人々にとって理解できない言葉を用いることによって彼ら自身を区別している。チョムスキーによれば、研究者が社会の他のメンバーより深い思考に従事することに促されており、「知識人」といった名称が労働における知的境界という真実を不明確にするといったことを信じるに十分な根拠はほとんどないといったことになる。「これらは実際に奇妙な言葉であり、私は「知的」であることがあなたの頭脳を用いて労働することとほとんど関係がないことを意味しており、これらは2つの異なったものである。私の疑いに基づいた考えとは工芸や自動車整備工等に従事する人々の多くがおそらく大学にいる人々と同じくらいかそれ以上に知的作業を行っているということになる。「知識人」の仕事と呼ばれるものがたんに事務作業であるアカデミズムの世界における多くの分野が存在しており、私は事務作業が自動車のエンジンを修理することよりやりがいがあるとは思っていないー事実私は反対のことを考えている...だからもし「知識人」といった言葉によってあなたが頭脳を用いる人々を意味するならば、それは社会全体の話になる。」

2. この議論からの推論は、知識人によって享受される特権はかれらを社会の残りの人々よりさらにイデオロギーの影響を受け従順な存在にするということである。「もし「知識人」という言葉によってあなたが、思考を与え、権力を有する人々に考え方の枠組みを与え、彼らが信じるべき全てのことを語る等の仕事に就いている特権階級にある人々を意味しているならば、ええと、それは違う。これらの人々は「知識人」と呼ばれているが、彼らは実際には世俗的な司祭職のようなものであり、彼らの仕事は社会における教義に関する真理を支えることである。そして大衆はその点で反知識人になるべきであり、私はそれが健全な反応であると考えている。」

チョムスキーはどこかで、どんな「理論的」ツールが覇権的権力に対抗するために強い知的基盤を与えることを目的として生み出されることが可能であると彼が感じているかと尋ねられたとき、以下のように答えている。「もし外交上の振る舞いや国内もしくは国際的紛争に対して適用されるよく試され検証された理論体系が存在するなら、その存在は「えせ科学の姿勢と同じであるにもかかわらず」よく保護された秘密のまま保たれていることだろう。」チョムスキーの一般的な傾向はそのためエリートでない聴衆と話す際平易な言葉を用いることになる。

アメリカにおける知識人の風土は「The Responsibility of Intellectuals」に注目し、そのエッセイはチョムスキーを20世紀後半における指導的な政治哲学者の1人として確立した。チョムスキーによる彼がアメリカで生じていると理解している新しいタイプの戦後の知識人に対する広範な批判は彼の著作であるAmerican Power and the New Mandarinsに焦点を当てた。そこで彼は、広く受け止められた見解に挑戦し、知識人が抱える義務における裏切りとして彼が理解したものを描いていた。ベトナム戦争に対し部分的に責任があると彼が理解している「新しい官僚」は帝国における権力のようなアメリカに対する擁護者だった。彼は彼らのイデオロギーが以下のことを示していると記していた。

「植民地の官吏のメンタリティは、母国と世界秩序におけるそのビジョンの正しさに対する恩義について確信させられ、彼が管理するべき福祉の対象である後方の人々の真の利益を理解していると納得していた。」

チョムスキーはポストモダニズムとポスト構造主義の信頼性に対して皮肉な態度を示していた。特に彼はパリの知的社会を批判していた。次の否認が示唆として受け取られるかもしれない。「もし私が明示的に私の意見を求められていなければ私はこのことを言うつもりはなかっただろうーそしてもしそれを説明するよう求められているならば、私はそうする時間にメリットがあると考えていないと答えるつもりである。」チョムスキーの関心の欠如は特にパリのアカデミズムにおける難しい言葉と限定された知的もしくは「現実世界」での価値の組合せとして彼が理解したものから生じている。「ときおりそれはポストモダンの言葉で言えばこっけいの類になる。特にパリ周辺では、それは漫画になっており、私はそれがすべてちんぷんかんぷんだということを意味している...彼らはそれを解析し、その背後にある実際の意味が何であるかを理解しようとしているが、それはあなたが8才の子供に対して説明できることである。そこには何もない。」彼の見解ではこのことはフランスの新聞を通じアカデミズムに注意を払うと苛立ちに繋がる。「フランスでは、もしあなたが知的エリートの一部であり、咳をするなら、ルモンドにおける一面の話になる。そのことはフランスの知的文化がそのように茶番である理由の1つを示しているーそれはハリウッドのようである。」

チョムスキーはミシェル・フーコーとオランダのテレビに1971年に登場し、その全文はフーコーと彼の対話者であるアーノルドソン(編)、1997年(ISBN 0-226-13714-7)の中に見受けることが可能である。フーコーについてチョムスキーは以下のように記している。

...十分な努力とともに人は彼の著作からいくつかの興味深い洞察や観察を得ることができ、知識人の奇妙な世界で世間体のために必要とされている難読性といったフレームワークを離れると、それは戦後のパリの奇妙な文化における極端な形式を取っている。フーコーは、人がこのことから離れるとき少なくとも何かが残っているという点でパリの知識人の中では珍しい[35]。

2 政治活動家としてのチョムスキーの影響

2.4 主流メディアの周辺化

チョムスキーはCNN、Time誌、Foreign Policy他のようなアメリカにおいて人気のあるメディアにめったに表れないが、彼の録画された講義は定期的にAlternative Radioつまり進歩的な講義の配信社の放送を伝えるアメリカのNPR局によって再生されている。チョムスキーの批評家は、彼の主流メディアの報道が適切であることや一般の研究者がしばしばアメリカのメディアにおいて低い優先順位を受けている事実を考慮することが普通のことであることを議論している。

CNNのプレゼンターであるJeff Greenfieldが何故チョムスキーが彼のショーに一度も表れたことがないか尋ねられたとき、彼はチョムスキーは「テレビで話すことができない進歩的な知識人の1人であるかもしれない」と主張していた。「もしあなたが22分間ショーを見て、1人の男がウォームアップをするのに5分かかるなら、彼はショーに登場するには不適切かもしれない。」Greenfieldは、メディアの報道に関して理解に要する「簡潔さ」に対する要求として、「2つのコマーシャルの間に複数の気の利いたことを発言する必要がある」と説明していた。「簡潔さのもたらす便益とはあなたがたんに従来の考えを繰り返すことにすぎない」と述べ、チョムスキーはこのことを詳しく説明していた。もしあなたが従来の考えを繰り返すならば、あなたはオサマビンラディンが悪い男であると言うように証拠を一切必要としていない、証拠は必要とされていない。しかしもしあなたが、アメリカが南ベトナムを攻撃したというような従来の真実でないにもかかわらず、本当である何かを述べるならば、人々は当然証拠を求めるようになり、彼らがそうするべきであるなら、全体が多くの証拠に囲まれねばならないだろう。ショーの形式はこのタイプの証拠を許容しないだろう、それは簡潔さが決定的であるからだといった理由を含むものになろう。彼は、もしメディアがより良い宣伝者であるならば彼らは反体制派を多くの点で邪魔することになるだろう、それは時間の制約が彼らのラディカルな見解を適切に説明することを止めさせるからだろうし、視聴者にとって彼らが海王星からきたように聞こえるからだろうと続けていた。この理由のため、チョムスキーはテレビに登場する多くのオファーを断っており、活字メディアを好んでいた。

彼の著書9-11が2001年9月11日の攻撃の余波でベストセラーになったので、チョムスキーは主流のアメリカメディアからさらなる注意をひくことになった。例えば、ニューヨークタイムズは9-11の人気を記述する記事を2002年5月に掲載した[66]。2004年1月、ニューヨークタイムズはSamantha PowerによるチョムスキーのHegemony or Survivalに対する高度に批判的なレビューを掲載し[67]、2月にニューヨークタイムズはパレスチナ人の土地を奪うイスラエルによるヨルダン川西岸地区を批判するチョムスキー自身による反対記事を掲載した[68]。

コメント(4)

はじめまして。BEIR-VⅡについて調べていて、貴ブログにたどり着きました。
このテーマの投稿についても、大変興味深く読ませていただきました。

>>>したがって安全を語りながらも本質において日本国民の安全を科学的に担保するといった視点が欠落しており、さらにアメリカ同様国内と海外の情報格差を利用しているがゆえに、現在新たな社会問題が生じていることに繋がっているのだろう。

まさにおっしゃる通りだと思います。
Chomskyについての考察ですが、ちょうど私が最近考えていたことと近かったので、そのきっかけのひとつになったDVDを紹介させていただきます。

MARADONA BY KUSTURICA
http://www.maradonafilm.com/

サッカーのMaradona!? と意外に思われるかも知れませんが、Maradonaの人眼を気にしない大胆な言動を通して、コソボで祖国を破壊されたKusturica監督の政治的主張を広く訴えようとしている作品です。
カストロと会って無邪気に喜ぶMaradonaの姿には疑問を持ちますが、それを除けば、彼のサッカースタイル同様、やはり世間をあっと言わせる迫力があります。

DVDの本編だけでなく、ぜひ特典映像にある(1)2008年カンヌ映画祭での記者会見、(2)Kusturica監督インタビューも併せてご覧ください。

MARADONA BY KUSTURICAについて後日時間
を作り考察を加えたいと考えておりますが、
アマゾンの書評を眺める限り、「この映画
は数ある自分の映画の中で唯一自分の言葉
で語ってる」といった部分が鍵になるのか、
それとも「Contrary to other videos,
this one focuses on the true
character of Maradona.」の部分が鍵に
なるのかは想像する限りですが、Wikipedia
を同時に眺める限り、「the football
teacher, the politically incorrect
citizen against the unilateral politics
of the USA and the family man」の部分
からも考える材料が含まれそうであり、そう
簡単に結論を導き出すことは差し控えるべき
であろうといった感慨を抱いております。

まだ何も自らの眼で見ていない段階でこの
ようなことを話すのは不適切であろうと考え
ることもありますが、このお盆休みは
チョムスキーの記事に関する続編の準備を
行うため、その後暫くしてから話を進めても
構わないだろうとの考えに落ち着くときも
あります。

最後になりましたが、議論を含む作品を紹介
下さりありがとうございます。

機会があればまたお話しましょう。

では。

早速コメントいただきありがとうございます!

MARADONA BY KUSTURICAについては、ぜひお時間ができたときにじっくり味わっていただければ、と思います。

多分、一度観ただけでは意味がよくわからないでしょう。私は最初、なんだこりゃ!?とびっくりし、正直どう受け止めたらいいのかわからず戸惑いました。
それでも、観れば観るほど何ともいえない味わいがあるというか…表現はうまくないですが一種”するめいか”のような映画なのです。

Kusturica監督も自分で語っているように、"一般の現代人ではない"二人が、既存の権力に臆することなく自らの思いを語っているのが、少なくとも私の心に響くものがありました。

Kusturica監督の風貌は、一見ちょっとコワイのですが、なかなかもって骨のある人物のように見受けられました。祖国セルビアに対する愛情は、我々日本人が忘れてしまっている何かを教えてくれるような気がします。

とりとめもなく書いてしまいましたが、読んでいただきありがとうございます。

ボスニア問題をどう考えるか、つまりエスニック・クレンジングは容認できる行為ではないとの前提の下、何がこれまでどう裁かれてきたのかといったこととその背景に対する考察が彼に対する評価に影響を及ぼすだろうと考えることがあります。

そして、作品のみで評価を定めるのか、公式の意見表明を含めて総合的に評価を定めるのかといった問題がありますが、私は、ボスニア問題における彼の発言が事実であるならば、ムスリムの感情に対し理解を示すことが妥当であろうと考えることがあります。

そしてプロパガンダとして機能していたと言うならばKurosawaと比較しながら論じる必要があるのですが、日本国内の情報に引きずられるとどうもバイアスやフィルターを除外することから始める必要があるので、そう簡単に結論が得られる問題とは思えない節があります。

私はまだ彼の作品を見たことがないのでこれ以上の論評をすることが妥当であるとは言い難いのですが、相当問題のある議論がこれまで交わされてきており、日本国内の情報はそれを考慮し切れていない現状までを把握しつつあります。

これが全てであるとは言及しませんが、アメリカのWikipediaの「エミール・クストリッツァ」の一部を訳すことにより上記の知見をサポートすることにします。URLは以下に示されるとおりです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Emir_Kusturica

エミール・クストリッツァ

論争

作品

クストリッツァと彼の作品は国内外で論争を引き起こしている[18]。Dušan Kovačevićによって書かれたUndergroundは国有のユーゴスラビアのテレビによって部分的に資金援助されていた。それは第二次世界大戦から1990年代の紛争までを振り返っていた。一部の批評家は、クストリッツァが第二次大戦中の民族間の反目を含むユーゴスラビア戦争におけるセルビア擁護の姿勢を推し進めていると主張していた[19]。一部のボスニアとフランスの批評家は、その作品がセルビア擁護のプロパガンダを含んでいると主張していた[20][21]。

フランスの哲学者であり作家であるAlain Finkielkrautやクロアチアの民族主義者のリーダーであるFranjo Tuđman[22]はカンヌ映画祭の審査員賞を非難し、こう述べた。

「『Underground』を認識する際、カンヌの審査員はそれが盛んな想像力をもつ創作者を尊重していたと考えていた。実際そのことは犯罪的な決まり文句を卑屈にそして派手に描く者を尊重していた。カンヌの審査員は最も陳腐で疑わしいセルビアのプロパガンダの解釈を非常に尊重していた。悪自身がボスニアに対しそのように残酷な怒りを考えることがないように、西欧の無能と軽薄に対するそのようなグロテスクな結末もありえない。」[21]

後にFinkielkrautが彼の批判を書き込む前に映画を見ていないことが明らかにされた[23][24][25][26]。フランスの哲学者であるBernard-Henri LévyはUndergroundを批判する映画を作成した[20]。

Bernard-Henri Levyとの議論で、スロベニアの哲学者であるSlavoj Žižekはこう述べた。

「私は、私たちが残酷であるといった[監督]エミール・クストリッツァの憎悪と別の観点を共有することを願っています。Undergroundは私が見た中で最も恐ろしい映画のひとつです。クストリッツァのUndergroundの中にあなたはユーゴスラビア社会のどのような性質を眺めますか?人々が不義を行い、酒を飲み、闘っている社会、一種の狂態であるかもしれません。」[27]

サラエボに生まれ戦争前にアメリカに移住したボスニアの作家であるAleksandar Hemonは、Undergroundは「集団的、本能的、野蛮な狂気の産物としてのバルカン戦争」を呈することによってセルビアの残虐行為を軽視していると述べている。

政治

クストリッツァはボスニア戦争中にミロシェビッチのプロパガンダに同意することを表明したために批判されている。モンテネグロの作家であるAndrej Nikolaidisはこう述べている。

「彼が彼の死んだ父がセルビア人であり、彼自身がギリシア正教徒であることを表明していることを考慮すると、彼は簡単にボスニア戦争における彼自身を選択している。彼はRadovan KaradžićとRatko Mladićの中にそれらを認めている。彼は大砲の弾幕を発射する場にいなかったが、できるときはいつでも、彼の芸術とメディアにおける登場によって、彼は彼らに、もともと「ギリシア正教徒」であると認めることを望んでいなかった全ての殺害されたムスリムに対する逃げ口実を与えていた。」

ジャーナリストはクストリッツァの数々のミロシェビッチ擁護の公式声明を引用し、クストリッツァがJovica Stanišić(セルビア国家安全保障機関のチーフ)と抱擁する写真を用いた。Stanišićはハーグで戦争犯罪のために裁かれている。彼は同様にMilorad Vučelić(セルビアテレビのディレクター)やZoran Lilić(当時のユーゴスラビアの大統領)と共にいるクストリッツァを明らかにしている[18]。クストリッツァはNikolaidisとthe Monitor newspaperをモンテネグロの最高裁判所において民事損害賠償のために訴えている。the Montenegrin weekly MonitorのコラムニストであるAndrej Nikolaidisは、有名なディレクターを「ミロシェビッチの戦争組織におけるメディアのスター」と呼んだため、クストリッツァに$6,490支払うよう命じられている[29]。裁判官は証拠が十分に信頼できないと判示していた[30]。結局、Nikolaidisとその新聞は、記事の中でクストリッツァを「stupid, ugly and corrupt」と呼んだことによりジャーナリズムの規範を犯したため、12,000ユーロの罰金を科された[31]。ボスニア作家協会は、それが基本的人権(言論の自由)を否定していると信じていたため、評決のリコールを求める嘆願を後援した。嘆願は旧ユーゴスラビア出身や外国出身の著名な知識人や多くの学生によって支持され署名された[18]。

ボスニア戦争における彼の伝聞される発言や意見に関し、トルコのディレクターであるSemih Kaplanoğluやトルコの文化大臣であるErtuğrul Günayによって公式に批評され非難された後、2010年10月にクストリッツァは、アンタルヤゴールデンオレンジ映画祭の審査員を辞任した[32]。トルコのメディアは、クストリッツァが繰り返しムスリムの女性における殺害や暴行の数を軽視したことを報告していた[32]。いつクストリッツァがこれらのコメントをしたと思われるかは明らかでないが、the daily Milliyetはクストリッツァがその伝聞を否定していたと述べていた[32]。トルコの世論はクストリッツァに対する反感で覆われており、その程度は、クストリッツァがトルコを離れて2,3日後、アンタルヤの若者の暴徒がクストリッツァと間違え、スイスの俳優であるMichael Neuenschwander(彼の映画である180° – Wenn deine Welt plötzlich Kopf stehtを広報するための町中で)に対し身体的に襲撃を加えた事例で示される[33]。

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